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サイとリイ 教義問答

 サイには、彼の話の到達点が解っていた。

 神と信者の間に大勢の人が関われば、教義の解釈も変わると主張するのだ。しかし、彼女は彼の話を遮らなかった。


 「しかも司祭も大勢いて、その一人一人は生まれも育ちも異なれば、学び舎さえ同じではない。彼らが法王の解釈を一言一句間違わずに信者に伝えていると、どうして言い切れよう。彼らが生活しているうちに、解釈が現実に合わせて変化していないと、どうして言い切れるか」


 予想通りだった。彼女は話が逸れたのを喜んだ。

 教義論争に食いつかぬ教祖など、それだけで偽物と断じてよい。彼女は還俗したといえども、元イル教対策の司教であった。

 現職の間に彼を見い出せたならば、と悔しい思いが立ち上る。


 しかし、彼は普段人目を避けて暮らしているかに見える。会うためには、還俗することが必要だったとも考えられる。

 すると唯一絶対神の御心は、サイをイル教の長と引き合わせ、彼を本来のワ教へ戻すことではなかろうか。

 現役から退いて久しくとも、神が与え給うた貴重な試練を、彼女は受け入れる。


 「教典の一字一句は、信者の誰もが等しく同一の理解をしなければならないのです。何故ならば、それらに込められた意味こそが、信仰を形作るからです。様々な解釈を許せば迷いが生じ、ひいては信仰自体を危うくします。法王は、唯一絶対神の御教えが迷う余地のないものであるように、心を砕いておられます。御教えを広める担い手が幾人あろうと、解釈の数は増えません。もし、法王の知らぬ間に新たな解釈が現れれば、それはワ教としては誤った解釈になります」


 「法王とて人には違いない。唯一絶対神の御心を誤解することもあろう。肝心なのは信仰心であって、宗教組織ではない」


 「人びとにあまねく信仰を広めるために必要があるから、組織が作られたのです。法王を頂点とする信仰の秩序は、現世の秩序の維持にも役立ち、人びとに安寧をもたらしています」


 「現在の秩序が維持されて安寧を覚えるのは、頂上付近にいる一握りの輩に過ぎない。法王が現世の支配に似せた秩序を作り上げたことは、却って彼の心が神よりも己に向いていることを証だてる」


 論点を徐々にずらしながらも、彼はあくまで自説を曲げない。平行線を辿るばかりである。サイは具体的な解釈へ話を持って行くことにした。


 「ワ教の信者は貴族や富貴の身分にある人ばかりに留まりません。今日の食べ物にも困るような人びとにまで広く受け入れられています。世の中にはワ教以外を信仰する人びとも少なからずありますし、あなたが言うように神ならぬ人のすることなれば、現世は確かに誰もが満足する世界ではありません。かと言って、いたずらに秩序に逆らっても、混乱を招くだけで、しかもそれに巻き込まれて辛酸を舐めるのは、貧窮に喘ぐ人びとなのです。ワ教が身分の上下や男女の違いをわきまえるよう説くのも、このためです。信者が各々の立場を自覚した上で、各自ふさわしい方法により唯一絶対神に近付く道を模索することで、世界は混乱に陥ることなくよりよい方向へ進むのです」


 「それではますます神への信仰から離れるように思うがね」


 長々と話すサイにじっと耳を傾けた後、彼は大仰に呆れてみせた。彼女はひるまなかった。


 「まず人びとがよく生きることを唯一絶対神はお望みです。どん底から神を支えに這い上がることも真実ならば、衣食足りて後、神に感謝を捧げる余裕が生まれることもまた真実です」


 「それは経験として解らぬでもない」


 彼が初めて同意めいた言葉を漏らしたので、彼女はどきりとした。


 「さりとて、始めから身分や男女の違いで信仰の度合いを分けるなどという話は、考えただけで馬鹿げた話だ」


 賛意はつかの間の幻に終わり、彼はすぐさま反論を仕掛けてきた。


 「男性と女性は形からして明らかに異なります」


 彼女の言葉に、彼は場にそぐわぬ奇妙な微笑を浮かべた。


 「そうかね。あなたが思うほどには、大きな違いはないよ」


 人々に奉られる人物でも、考え方は普通の男性と同じであった。サイは長年の修道生活において、似た人間に大勢会ってきた。

 そこで、彼が失念している単純な事実を告げた。


 「男性は子を産む事ができません」


 効果覿面、彼は絶句したように見えた。



 リイは冷水を浴びた心地がした。還俗して女性を謳歌するサイから、お前など子も満足に産めないくせに、と辱められたように感じた。もちろん、彼女は目の前にいるのがリイであることも、女性であることすら知らない。あくまでも疑ってみただけである。従って、相手を男性とした喩えで最も解りやすい例をあげたに過ぎない。にもかかわらず、彼女はその言葉をリイ自身に向けられたものとして受け取った。イルの仮面に覆われていた古傷が疼き始めた。彼女の心中に容赦なく、サイは言葉を継いだ。


 「生後一年に満たない赤子に洗礼を施さず、洗礼を受けるまで赤子に名付けを禁じるにも、それなりの理由があります。生後間もない赤子はか弱い存在です。どれほど愛情を注いでも、いかに気を配っても、ふとした弾みに命を落としてしまいます。親にとっては、どの赤子も愛しく、かけがえなく大切なものです。それだけに彼らが簡単に死んでしまうことは、両親の間に非常な不幸を引き起こします。嘆きのあまり、母親が死人同然となることもあります」


 「誰かが命を捧げる代わりに赤子が生き返れば、彼女たち母親も本望でしょうが、生憎唯一絶対神はそのようなことをお望みにはなりません。もし死んだ赤子を名付けてしまえば、その子は人生の喜びをほとんど味わえぬままに現世と永遠の別れを告げなければなりません。一度名付けられれば他の者になり得ないからです。しかしながら、名前のないまま死んだ赤子は、新たな肉体を得て他の者として現世に生まれ変わることができるのです」


 「たとえば生まれて間もない子が攫われたとして、外見や名が変わろうとも、親を忘れようとも、一生巡り会えなくとも、我が子がどこかで元気に長生きしていると知れば、親の心は安らぐでしょう。命をなくした赤子もまた、同じ道を辿るのです。神が慈悲を以てそのように定め給うたのです。従って残された両親の務めは、彼に弟妹を多く作ってやることです。神のお導きで、彼らが将来それと知らないままでも互いに助け合う機会に恵まれるように、そして子を自ら育てる喜びを両親が味わうために。失った子には代え難くとも、他に子があれば多少慰められることもまた事実です」


 彼女は相手を甘く見ていたことを悟った。サイは、チュウ司教やネイ司教などより余程手強かった。彼女をイル教に引きずりこむことは、少なくとも現時点では不可能に思われた。それどころか、リイの方が信念を覆されかねない。


 「お前がユアン殿の子の母親だろう。リイ殿の不在をよいことにして、二人で」


 リイは無理矢理論議を打ち切った。恐らくサイが最も嫌がる話を持ち出してはみたが、上手い言い回しが出て来ず、言葉を切らざるを得なかった。


 「最前のお話に戻るのですね。丁度、私もお尋ねしたかったのです。今お話しした赤子の洗礼に関して、イル教に定める教義は異端とされたリイ様の主張と極めて似ております。そもそもイルという名称がリイ様を連想させるのです。あなたは何故、あの方の考えを新興宗教として広めようとするのですか。そして、あの方がサパにおられないと断言する根拠を持っているのですか」


 あれだけ喋り続けた後でも、彼女は落ち着きを保っていた。不意打ちは一度しか効果がない。

 ただ、後ろ手に縛られた不自由な状態で座ることには、疲れを感じている様子であった。リイもまた急に疲労を感じた。


 「惜しいな。それだけの才覚を持ちながら、真実から目を閉ざされているとは。あなたは、保護者が現れたというだけで、長年務めた神への道を簡単に放棄させられたことを疑問に思わないのか。もしあなたが男性であったとしたら、ワ教における栄達の道を歩ませてもらえたであろう。解っている筈だ」


 問いに答える代わりに精一杯の皮肉を言い、リイは立ち上がると彼女の腕を掴んで立つのを手伝った。

 サイは口を利かなかったが、彼女の意図には従った。しかし、足が痺れたらしく、大きくよろけて壁にぶつかった。大きく開いた衣服の端に見える、豊満な胸元が大きく揺れた。


 「あっ」


 リイがそれを取り出したのは、他意あってのことではない。彼女の胸の谷間から飛び出しかけていた物を、持ち主は両手が使えず、リイが押し込むのも変に思い差し当たり掴み出しただけである。

 サイに物を示しつつ、牢へ戻してから返すと説明しかけて、リイは眉をひそめた。


 「これは」


 見覚えのある首飾りであった。鼓動が高鳴る。彼女は凝った彫りの中から労せず留め金を探し当て、速やかに蓋を開け、すぐに閉めた。


 次いで彼女はサイを見た。長と崇められる男が宝飾品に関心を示すことを訝る様子であった。不当に隠し持っていたという態度は微塵もない。つまり、今は彼女の物なのだ。


 「これは、わたくしが預かる」


 リイは首飾りを懐へしまい込んだ。サイの顔が不審から驚き、哀願とめまぐるしく変化する。


 「お待ちください。それは」


 彼女は聞く耳を持たなかった。哀訴の声を遮るように、そそくさと小部屋を出て扉をきっちり閉めた。初めのうち聞き耳を立てていたと思しき牢番たちは、飽いて定位置に戻っていた。


 「旦那。如何でしたか」

 「旦那。俺たちも、いいですかね」


 揉み手をしながら近付いた彼らは、リイが向けた視線に顔を強張らせた。


 「いやだな。冗談ですよ旦那」

 「構わぬ。好きにしろ」


 返事が意外だったのか、牢番たちは呆然と立ち尽くした。

 彼女は足早に牢を去った。サイの身に何が起ころうと、知ったことではなかった。



 彼女の脳裡には、首飾りの記憶がはっきりと浮かんでいた。前回見た時、その持ち主はユアンであった。紋章はカアンのものであるが、手の込んだ細工物である。一点物だろう。


 カアンがサイを罰するべく(かどわ)かしたなら、彼の贈り物ではあり得ない。あれはユアンからサイへ直接譲られたと見るべきである。


 リイは歩きながら拳を握った。やはり、サイはユアンの愛人であった。

 例の子も、彼女が産んだに違いない。夫が妻の留守に()()()()をしたことを怒っているのではない。お手つきはワ教において認められた行為である。二人の間に子をなしたことを怒っているのではない。


 領主が跡継ぎを欲しがるのは当然で、周囲の圧力もあったろう。肝心の妻が不在である以上、誰かに産んでもらうしかない。


 ただ、妻にさえ、あからさまに見せなかった思い出の品を、お手つきに過ぎないサイが持つことが、許せなかった。

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