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サイ 大いなる誤解

 ユアンの父カアンが屋敷を訪れる日、サイは朝から子ども部屋に入り浸って、息子と彼を世話するワンの働きぶりを眺めていた。


 還俗して以降も、彼女はできる限り修道院にいた時の生活を守っていた。

 今日は、来客を迎える準備で屋敷が(せわ)しなく、普段敷地内にある礼拝堂で行う朝のお務めも、自室で済ませたところであった。


 部屋にはヨオンから譲り受けたダン=トンの手になる唯一絶対神の絵画が掛かっている。彼女が自室で祈りを捧げる時には常に、この絵に向かう。


 カアンへの紹介は断った筈であるが、彼はクィアン自身に用があるらしかった。クィアンもサパの大貴族として重い職責を(にな)う身である。都からの賓客(ひんきゃく)をもてなすこともあろう。


 「たくさん出たわ。よく頑張りましたねえ」


 ワンがおむつを替えながら、赤子に話しかける。ほどなく独特の臭いが漂ってきた。我が子のそれは、不快とは思わない。サイは、わざわざおむつの中身を覗いたことすらある。


 色も形も、大人の物とは全く異なっていた。乳しか飲まないのであるから当然とも思えるし、乳しか飲まないのに何故このような物が出るのか、不思議でもあった。


 「あれ、ユアン様。あちらはよろしいのですか」


 息子の寝顔を眺めていると、ワンが()頓狂(とんきょう)な声を出した。幸い、赤子の眠りは破られなかった。

 ユアンは余程(よほど)急いで来たのか、息を弾ませていた。それでも赤子に配慮を忘れず、足音を忍ばせてサイに近寄った。


 「よく眠っているね。サイ、私たちは散歩に出かけよう。ワン、この子を頼むよ」

 「かしこまりました、ユアン様」


 ユアンに連れられ建物の外へ出ると、風に当たり、新鮮な気分になった。

 クィアンの屋敷は敷地も広く、場所によってそれぞれに(おもむき)の異なる庭があった。


 長い間放置していたのを、サイが住むようになってからクィアンが職人に手入れをさせ、見栄えを取り戻したのはごく最近のことである。


 「会いたかった」


 鳥の形に刈り込まれた植木に感心する背後から、サイはユアンに強く抱き締められた。まさぐる腕が手首に提げた小箱に当たる。ひとしきり口づけを交わしてから、ユアンが尋ねた。


 「何を持ってきた?」


 サイは黙って(ふた)を開いてみせた。ユアンの眉が微かに動き、次いで頬が緩んだ。


 「母上の形見だったね」


 いつか彼に貸した、銀の首飾りが収まっていた。これまでは、肌身離さず付けていたものである。

 屋敷へ来て以来、胸元の開いた服しか着せてもらえない上に、そうした衣装には似合わない、とワンから指摘を受け、仕方なく小箱に入れて持ち歩くようにしたのであった。


 二人は寄り添って、なお(しばら)く庭を散策した。ユアンと歩くと、広い庭もサイには狭く感じられた。

 たちまち子ども部屋の側に着いてしまった。サイは再び抱き締められた。この度は、柔らかい抱擁であった。

 やがて、ユアンは名残惜しげに彼女の体を離した。


 部屋へ戻ると、見知らぬ男性がいた。

 驚いたサイは、小箱を取り落とした。派手な音と共に、掛金が外れて中身が飛び出す。部屋中の視線を集めたのは一瞬で、次の瞬間には赤子の泣き声が全てを圧した。


 こればかりは、何度聞いても慣れることができない。耳にする度、肺腑(はいふ)(えぐ)られるような心地がする。

 胸の痛みに目も(かす)むサイの掌に、首飾りが握らされた。誰かが拾ってくれたのだ。


 「おお、よしよし。ちょっと、びっくりしちゃっただけよねえ。大丈夫よ。心配ないわよ。怖くないからね」


 ワンが赤子をあやしながら、足早に部屋を出て行った。泣き声が遠ざかるにつれて、凍り付いた部屋が回復していく。

 サイの目にも(ようや)く、おろおろするクィアンの姿が映った。


 「ああ驚いた。赤ん坊の泣き声というのは、どうしてああも大きいのだろうね。いつまで経っても慣れないな。おや、サイ。早かったね」


 「ただいま戻りました」


 人心地を取り戻したクィアンは、見知らぬ人に向き直った。このちょっとした騒ぎの元について、彼は特段の関心を持たぬ様子であった。


 「そうそう、カアン殿。こちらが我が跡継ぎの母親、サイです。サイ、こちらがユアン様のお父上、カアン殿だ」


 「お目にかかれて光栄に存じます。今後とも、よろしくお見知りおき願います」


 「こちらこそ、よろしく」


 二人は挨拶を交わした。クィアンは単にひ孫自慢をしたかっただけらしく、すぐにカアンを連れてそそくさと出て行った。

 サイは、思いがけずユアンの父親と引き合わされた格好になった。


 「ふう。やっと眠ってくれたわ。普段はすぐ泣き止むのに、やっぱり見慣れない人がいたから緊張していたのね」


 ワンが赤子と一緒に戻って来た。揺りかごに寝かしつけてから、半ば独り言のように呟く。


 「近くで見ると、カアン様はユアン様とさほど似ておられませんね。きっと、ユアン様はお母様似なのですね」


 サイは曖昧な返事をした。ユアンの母を知らぬ彼女には、答えようがなかった。

 それよりも、クィアンの紹介を受ける前から部屋を後にするまで、カアンの強い視線を感じ続けたことが気に懸かった。

 それは決して(こころよ)い感覚ではなく、彼女は漠然とした不安を抱いた。



 翌日、サイは早朝から起き出して礼拝堂へ向かった。

 日の昇りきらない庭は、澄んだ気に満ちて、彼女の目を開かせた。


 礼拝堂は小さくも独立した棟として建っており、地味ながら堅実な造りで、内省するにも唯一絶対神と対話するにもふさわしい静謐(せいひつ)を備えていた。


 彼女は通路の最前列まで進み、(ひざまず)くと形見の首飾りを取り出した。組み合わせた両手の間に挟み込み、いつもの祈りを捧げた。

 祈っても、不安は(ぬぐ)えなかった。

 そのうち、朝食の支度が整った、とワンが呼びに来たが、彼女は断った。


 「食欲がないの。戻るまで、一人にしておいてちょうだい」

 「朝ご飯を召し上がらないと、お体に(さわ)りますよ」


 サイが忠告を聞き入れないので、ワンはご機嫌斜めのまま引き下がった。

 残った彼女は祈りを続けた。終いに、覚えた祈祷を片端から唱え始めた。幾つも唱えないうちに、背後で扉が開閉する気配を感じた。

 彼女は敢えて無視した。重々しい足音が近付き、すぐ脇まで来て止まった。


 「お勤めの邪魔をするようだが、こちらも急ぎの身だ。質問に答えて欲しい」


 予期せぬ声音にサイは目蓋(まぶた)を引き上げ、慌てて身を起こした。

 足音の主はカアンであった。


 首飾りが掌から滑り落ちる。鎖がひっかかり、宙に留まった。彼の視線も一緒に下がった。


 「それを、見せてもらえないかね」


 言われるままに首飾りを渡したサイは、明るいとは言えない堂内で品物を吟味(ぎんみ)するカアンの真剣な表情に、既視感を覚えた。


 「これは、ユアンからの贈り物かな」


 記憶をたどる彼女は、質問の意図を計りかね、考える間もなく素直に答える。


 「いいえ。母の形見です」

 「既に亡くなられたのか。名前は何という」

 「ナイと申しましたそうです」


 親の名を告げるにしては曖昧な言い方になったのは、一度も会うことなく長い年月を経た後に名前だけを人から聞かされて、実感を伴わないためであった。

 奇妙な言い回しに案の定、カアンは眉をひそめた。


 「ナイとな。はて、タイとか言ったような気もするが。まあよい。召使いの名なぞ、いちいち覚えきれぬ。いずれにしても、亡くなったのは確かか」


 彼はぶつぶつ呟きながら小首を傾げ、質問を重ねた。

 問答の最後がどこへ行き着くのか、彼女には未だに予測がつかない。


 「はい。私を産んですぐに」

 「何。それはいつ頃のことかね」


 答えながら、目の前に立つ男の怖いほど真剣な表情が記憶の残像と重なり、彼女はどきりとした。

 昔、同じ品を前にして同じ表情をしたのは、ユアンであったことを、思い出したのである。


 ユアンはサイに身元の判明を告げた時、明らかになった理由を全く説明しなかった。

 その際首飾りについて問われたことから、彼女はそれがクィアンかヨオンに関係する物である、と思い込んでいた。

 この父子の反応を見るに、どうやら母の形見は彼らに繋がる品であるらしかった。ユアンが説明しなかったのは、彼にとって自明のことだったからであろう。


 「あなたは、ユアンと愛人関係にあるようだが」


 浮かんだ疑問に囚われていたサイは、彼の言葉で我に返った。

 ユアンが打ち明けたのか、あるいはクィアンが話したのか。いずれにしても彼は、二人の関係を知っていた。


 「確かにあなたは若い。クィアン殿とは祖父と孫ほども年が離れている。だが、定められた主人に生涯仕えるのがワ教の教えであろう。たとえ正式な妻でなくとも」


 疑念が一つ解消したつもりになっていたサイは、カアンの言葉でたちまち足元を(すく)われた。

 彼は彼女をクィアンの妻妾と勘違いしている。ならば、ユアンとの関係をどのようにして知ったのか。


 昨日、庭を散歩しているところを見られたのかもしれない。不謹慎にもユアンの感触を思い出し、彼女は顔に血が上るのを感じて慌てた。


 「あ。あの、私は」


 口を開いたものの、何から説明したものか。サイは言葉を途切れさせた。

 カアンは、彼女の話を聞く気がなかった。ぱちり、と固い音がした。


 「ここにある紋章は、私の物だ」


 彼はまだ首飾りを手にしていた。開いた蓋の内側がサイを見つめる。

 彼女は、返して欲しいと言うことができなかった。言葉の意味するところを理解できないにもかかわらず、それが既に彼女の持ち物ではないような気がした。


 「つまりお前は、私の娘ということになる。従って、ユアンはお前にとって母の異なる兄に当たる」


 カアンの言葉はサイの耳を、異様に滑らかに通り過ぎた。

 では、ヨオンとの関係は?


 だが、カアンの態度には、相手に一分の疑いも許さない威厳があった。

 目の前にいる筈のカアンが、遠ざかる。彼の声が、耳障(みみざわ)りなほど大きく反響して聞こえた。


 「ゆゆしき事態だ。この大事な時期に、我が息子が開発担当者の愛人と通じ、しかもその女が私の娘で近親相姦まで犯しているとは。知らずに犯したとしても、罪の重さは変わらない。私は父親の権限で、お前の身柄を預かることにする」


 「クィアン殿には、後でしかるべく話をつける。いずれユアンにも言って聞かせねばなるまいが、一応領主の職にあるからには、時期を選ぶ。できることから手を打つしかない。まず、お前を私が厳重に監督して教育し直すことから始めるのだ」

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