リイ 激震
シュイは酒瓶から手を離さず、微笑を浮かべながら悲しげな表情を作る、という離れ業をやってのけた。
「もし次の領主にシュウが就くとすると、同じ家から三代続けて領主を輩出することになります。私が父から領主を譲り受けた時にも問題となりましたが、この度はより大きな波紋を呼び起こすに違いありません。ご承知のように、日頃から当地方はワ教を奉じる者が少なく、ハルワ国王の覚えも目出度くありません」
「アン地方は海に面していることから、隣国に限らず、多方面からの脅威をも考慮に入れて舵取りをする必要があります。後継問題で不和を起こしている暇はないのです。揉めるぐらいなら他家の者に譲りたいのは山々ですが、代わりに任せられるほどの適当な人物も、見当たらないように思います」
「結局息子に継がせることになるかもしれませんが、いずれにせよ余力があるうちに引退して、領主を補佐する傍ら他の後継者も育てて行こうと、遅まきながら考えた次第です」
表向き、シュイはアン地方の公正な運営に腐心する領主の役柄を、忠実に演じた。
彼が世襲の誹りに悩むのは、単に三代続けて領主を輩出することのみならず、跡継ぎと目される息子の資質も一因に違いない。
リイから見ても、シュウは大人しすぎる感が否めなかった。若年の故かもしれないが、晩餐の間も彼は、専ら聞き手に終始していた。酒にも弱そうであった。
領主、特にアン領主は善良だけで務まる職ではない。商人もまた然りであろう。
シュイが本心で息子を跡継ぎに推したくとも、ひいき目にも器が不十分となれば、あれこれ策を講じざるを得ない。
親の苦労は尽きないものである。
リイはふと、サパに残した母リウの身を案じた。母は、今でも彼女の帰りを待っているであろうか。
「私たちは、どのような候補であろうと、ワ教を奉じていないからという一事を以て、領主に不適当と判断しはしませんよ。能力はもちろんのこと、その地方独自の事情に即した人物を選ぶのは、ハルワ国のためにも当然のことです。それに、結局のところ、決めるのは国王です」
ヨウが陽気な調子で言った。冗談めかしてはいるが、ワ教の上層部がハルワの政治に介入する力を持っている、と匂わせていた。
事実としても、口にすべきではない。ヨウもまた、酒を過ごしていた。
リイは、アン領主を窺った。
果たしてシュイは、領内にあるワ教の拠点が全てリイたちの支配下に置かれ、その本部がドン地区にあることまで承知しているのであろうか。
この招待は、息子の地位と引き換えに、彼女たちを国王へ売る罠ではないか。
シュイの表情からは、何も読み取れない。
彼女は、敢えて話の軸をずらしてみた。
「全くです。平和は大切ですからね」
彼は戸惑いもせずに頷いた。
「本当に、戦争は嫌なものです。商人は儲けるために戦争をしたがる、という連中がいますが、とんでもありません。儲けるのは、戦勝国の支配階級ですよ。商人なんて、掛け売りでさんざん物資を供出させられた挙げ句に、命が助かれば御の字とばかり、お代を踏み倒されても呑み込まなければならないんです」
「中には新しい支配者に取り入って、損を取り返そうと試みる者もおりますが、政治が新しくなるときには物入りで、赤字を重ねるばかり。取り返す前に潰れてしまう場合がほとんどです。戦争になれば、どれほどお金を積もうとも、絶対安全ということはあり得ない。我が身一人を救うことも困難な時、家族を同じように守ることは、不可能です」
意外としみじみした調子で、シュイは反戦を唱えた。やはり彼は、リイたちがワ教イル派であるのを知っていて、無闇と争いを仕掛けないよう、牽制しているのかもしれなかった。
そう考えると、彼女はますます落ち着かない心持ちがした。
「お隣のサパにも色々あって、なかなか落ち着きませんが、戦に繋がらないと良いですねえ」
シュイは彼女の不安をも見通したように、更に言葉を継いだ。彼が、リイがどこから来たのか知っていても不思議はないのだ。
前回の対面でリイは名乗らなかったが、あの時彼は、旅芸人風情には過ぎた相手を紹介したのであった。
「私ども、とんと世俗に疎いもので、お話が呑み込めませんが、何か不穏な噂でもありましたか?」
素直に反応したのは、ヨウであった。今後、リイたちの勢力を域外へ伸ばして行こう、という矢先である。酔った頭にも、聞き捨てならなかったのだ。
「近頃サパは、北方の開発に動いているようですね。ドゥオ国との境です。あの険しい山々が不毛の地、とまでは言いませんが、いずれにせよ隣国は気に入らないでしょうな」
アン領主の見解に、一同は頷いた。
リイはドゥオ国貴族のツァオが、法王にサパを委ねたくない、と言っていたことを思い出した。
国境付近を開発する話が本当ならば、隣国が毛を逆立てるのも無理はない。
その工事に駆り出された筈の人員が、いつの間にか境を超えて兵士に変わっている、という悪夢を恐れているのだ。
サパへ行かねばならない、とリイは思った。正体を見破られることを、気にしている場合ではない。
結局は正当な理由を得て郷愁が負けただけなのかもしれないが、名目はどうでも、サパの現状をこの目で確かめずにはいられなかった。
間もなく一行はシュイの館を辞した。
スイはへべれけに酔っ払い、館の召使いの手を借りても馬車へ乗せるのに難儀した。ヨウの目を盗んでまたぞろ酒に手を伸ばしたらしい。
リイは酒の物珍しさとシュイの話に注意を奪われ、彼を酒から遠ざける事をすっかり忘れてしまっていた。
サパの町は、特に変わったように見えなかった。著しく発展もしなければ、寂れもしなかった。
ユアンはリイの記憶にある性格通り、堅実に領主の仕事を行っているようであった。
リイは束の間、領主の心持ちで町を眺めた。久々に見るサパ城下の町並みは、期待していたよりも平凡な田舎の景色であった。そこに懐旧のよすがはない。
異端として排斥され、姿が消えても探しもしない故郷を、リイの心が捨てたのであろうか。
彼女はサパで領主の城に住んでいた。町は常に見下ろす存在であった。城を出る時は特別仕立ての馬車に乗り、目的地まで降りることはなかった。
その時、町は窓の外を流れ行く景色の一部に過ぎなかった。
初めから、リイはサパの町を見ていなかったのだ。
こうして領民と同じようにして町を歩くと、何も理解していなかった、という想いが苦くこみ上げる。
ジュウ国でもアン地方でも、人びとに紛れてさんざん歩き回っていたのに、サパの地を踏むまで気付かなかった。
少し歩くうちに、リイは町が常にない様子であることに気がついた。
祭りのような飾りはない。お触れが回るでも、告知文が掲げられるでもない。領民は一見、普段通りの生活を送っていた。
しかし、気をつけて観察すれば、行き交う町の人びとに見られる表情は、確かに浮ついていた。誰も彼もが当然見知っている理由を、自分だけ知らない、という不公平は、彼女の心を苛立たせた。
町の高揚めいた気分は、宿屋にも波及していた。
どこもかしこも、一行を泊めるだけの空き部屋を持たなかった。リイたちは、宿を求めて端から歩き回らねばならなかった。
漸く一軒の宿屋に腰を落ち着け、早速彼らは情報収集に散った。
リイ自身は、休息の名目で宿に留まらされた。宿の一階は、よくある酒場であった。
泊まり客に限らず、様々な人が集まる場所である。
彼女は階下へ行き、酒とつまみを注文した。酒場は賑わっていた。
給仕も忙しく働いていた。
それでも注文の品は、なかなか届かない。素面の彼女は酔漢に話しかける気力もなく、手持ち無沙汰に待っていた。
ざわめきに耳を傾ける。酔客同士の会話を聞き取るのは難しかった。
こちらの話を聞けば、あちらで酔漢の奇声に邪魔をされ、あちらの話を聞けば、こちらで食器のぶつかる音に邪魔される。
「ユアン様に」
懐かしい名が、耳に飛び込んだ。リイは思わず声のした方を振り向いた。目の前に、酒とつまみが、ぬっと突き出された。
「へい。待たせたね」
給仕の体で、視界は塞がった。彼女は勘定をしながら、思い切って尋ねてみた。
「どうも、町がいつもと違う感じだけれど、何かあったのかい?」
「おや。こいつを知らないとは、もぐりだね、旦那」
「さっき、町に着いたばかりだから」
彼女の言い訳は聞き流された。給仕は、教える喜びを顔に表していた。
「領主のユアン様に、お子様がお生まれになったのさ。きっと、リイ様が反省なさったのを、唯一絶対神様がお許しなさったのだろうね。ユアン様も、リイ様をお見捨てにならず、慈悲深い方だよ。もうワ教の洗礼も済ませたっていうから、リウ様も安心してお亡くなりになったというものだな」
「おうい、兄ちゃん。豚焼追加!」
「こっちも、酒のお代わりをくれよ!」
「へいよ!」
忙しく給仕が立ち去ったのは、幸いだった。リイは、自分の顔から血の気が引く音を聞いた。
にわかに息苦しさを感じた。
周囲の人声、足音、食器の触れ合う音の全てが耳を圧し、更に頭の中へ突き刺さるように侵入してきた。
人目に立たないよう、体の向きを変えるのが精一杯だった。
母の死と、夫に子ができたこと、しかも自分が産んだことになっていること。
一つ一つの出来事が、致命傷を負わせるだけの衝撃を持っていた。その全ての痛打をいちどきに浴びせられたのだ。
雷に打たれたように、その場で絶命してもおかしくなかった。だが、リイは生きている。
彼女は混乱した心で、三つの出来事の間に、因果関係を見いだそうと躍起になった。
これほど酷い裏切りが一度に起こるからには、何か意味がある筈だった。
いつか街角で目撃した、ユアンの馬車に乗った女性の顔が、ぼんやりと浮かび上がった。それは知った顔であった。
彼女はぐらぐらする頭を抱えた。
静かな場所へ逃れたかった。しかし、体が言うことを聞かなかった。