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リイ 堕転

 彼は神と人の間について、ひとしきり熱弁を振るった。


 「唯一絶対神は、私たちの住む世界を秩序立ててお創りになられたのです。犬や馬よりも人の方が、虫よりも犬や馬の方が賢いのは、その証拠です。人はそれ自体、神に次ぐ存在である、と言うことも可能です。ただし、決して神になることはできません。それ故に、唯一絶対神に近付こうと努力する姿勢が尊ばれるのです」


 「法王が、人びとの敬意を一身に集められるのは、努力の結果なのです。以下、大司教、司教、司祭、修道士といった面々も、努力に応じた待遇を受けているに過ぎません。身分の上下が先にあるのではなく、神との距離がまず物差しとなる、とお考え下さい」


 勢いに任せて(ほとばし)らせた言葉に、(わず)かな隙が見えた。


 「しからば、チュウ殿ほどの努力家でしたら、いつ法王になられても、おかしくないでしょうに」


 彼は、急に話を自分自身に向けられ、戸惑った。リイは、相手に口を差し挟ませなかった。


 「領主からしてヨ教信者、コンの岩などという大層な物もあって、その上海外からも様々な宗派が入り込んでくるような地域で、領主の館に乗り込みまでして、熱心に布教活動をなさっている」


 「実は、私の妻も改宗者なのですよ。生まれながらのワ教信者ではありません。他宗教の信者を改宗させた功績は、ワ教の信者ばかり(つど)う都で無難に過ごす人より、よほど大きいでしょう。苦労は並大抵でない、とお察しします」


 「そうなんですよ」


 眠気と酒気と疲労の上に被さった薄暗がりが、チュウの理性を鈍らせていた。

 彼は、布教の苦労を語り始めた。相手がヨ教信者であることを、忘れてしまったようであった。

 リイも彼の誤認を正そうとしなかった。


 「アン地方は、ハルワやサパとは全く成り立ちも環境も異なるというのに、ハルワティアンでは、その違いを理解しないのです。辺境のサパにできたことが、アンでできない筈はない、と信じている」


 「私も随分と苦労しているんですよ。選ばれて派遣されたと言っても、失敗すると分かっていることの後始末のために、選ばれたように思うこともあります。せめて、唯一絶対神のお力によって、コンの岩が粉みじんにでもなれば、などと思ったりもします。あれもまた、神が造り給うた作品ですから、そんな奇跡を期待すべきではないのでしょう」


 もはやチュウは、自分でも何を言っているのか、わからないに違いない。終いの方では、彼のろれつが回っていなかった。

 その晩、二人はほぼ夜を徹した。


 「おめでとうございます」


 数週間後、ドンの修道院で、リイはヨウやスイたちと祝杯を上げた。ジアも同席している。

 チュウの姿はない。彼は、未だシュイの館に寝泊まりしていた。


 「そろそろ、我々の存在を明かしても、よいのではありませんか?」


 ヨウが言った。リイはチュウを陥落させたが、ドンがイル派の拠点となっていることは、伏せていた。

 チュウは、リイをヨ教から改宗させた、と信じている。

 リイは、修養の名目で、ドン修道院に滞在する、と彼に思わせた。


 司教は彼女の熱意に感激しつつも、払った犠牲に責任を感じているようでもあった。修道院に居る間、商売ができないとなると、妻に扮したジアの生活が気になるようだった。

 彼が勝手にジアを訪ねないよう、彼女は(しばら)く親族の元へ行く、と言い(つくろ)わねばならなかった。


 「まだ完全ではない。司教は難しい。慎重に事を進めねばならぬ。油断は禁物だ」


 リイは、チュウが純粋に思想的な転向を遂げたというよりも、ジアへの想いから考えをこちら側へ寄せたのではないか、という疑いを持っていた。ならば、転向ではなく堕落である。


 組織を大きくするためには、何かに目をつぶらねばならない時もある、と理解はしていたが、信仰のこととなると、胸に(くすぶ)る思いが残るのであった。


 彼女は折りをみて、彼にヨウたちを説得させるつもりでいた。

 ドンの今後を考えると、司教に説得された、という形をとった方が、彼を縛る意味でも効果的であった。

 この考えは、間もなく実行された。



 教会と修道院に、アン領主シュイから晩餐の招待状が届いた。

 司祭のヨウと修道院長スイに加わって、リイも招待に応じることにした。無聊(ぶりょう)(まぎ)らすため、同宿の友人にも出席を乞う旨の一文があったためである。


 領主がどこまで把握しているものか、元から油断のならない相手であった。

 彼らはそのことを敢えて話題にせず、チュウとも連絡をとらなかった。当日の夕刻、三人は馬車に乗って教会を後にした。


 コンの町は、相変わらず賑わしかった。

 夜となっても、人の姿が途切れない。足を緩めた馬車の窓から眺めると、彼らは昼間に見かける人びとと、どこか異なっていた。


 男たちは例外なく酔いの回った危うい足取りで、奇妙な動きをしていた。暗がりの中、立ち話も秘密めかして怪しげに見える。


 一人の少年が馬車へ走り寄り、飛び跳ねながら手に持つ本を窓に押し付けた。一瞬で表紙を読み取ったリイは、思わず赤面した。

 男女の交わる淫らな絵が描かれていた。馬車は止まらず、少年はたちまち後方で小さくなった。


 なお注意して見ると、街角の暗がりに、しどけない姿の女性が立っていた。男性と親密に語らう女性もいた。

 コンの岩は、陸地からその真の姿を拝むことはできないのだが、夜となった今は、海から突き出る黒い塊であった。


 リイがシュイに会うのは、息子の結婚披露宴以来であった。


 「ようこそおいでくださいました、お客人」


 彼は、年齢を重ねた者にしか身につけることのできない威厳を、身に(まと)わせていた。寄る年波さえも、彼には味方するらしかった。


 「実は、以前に、ご子息の結婚披露宴にてお目通りしたことがございます」


 直前まで初対面の()()をするかどうか迷ったリイは、自分から先の対面を打ち明けた。

 シュイは取り立てて反応を示さなかった。記憶にないか、その()()をしていた。


 「それはそれは。その節は、お祝いいただき、感謝しております」


 一行は、シュイから息子に紹介された。

 シュウは、妻ランとの間に男児をもうけていた。如才(じょさい)なく子どもの成長ぶりを話題にするスイに、シュイ父子の顔が緩み、リイの胸にも亡き娘の思い出が(よみがえ)った。

 彼女は()いて気持ちを押し殺さねばならなかった。


 客は、リイたちだけであった。

 チュウの姿はなく、リイは密かに安堵した。司教の転向をアン領主が把握しているかどうかわからぬうちに、その前で顔を合わせるのは危険であった。


 料理は贅沢であった。前菜に始まり、次から次へと供される品々は、見た目も味も、リイの記憶にあるサパの宴会料理より数段洗練されていた。

 このような食べ物を滅多に口にする機会のないヨウとスイは、我を忘れた様子で皿をきれいに平らげていた。


 食事の間、シュイは話が途切れないよう注意を払っていた。

 彼らが舌鼓を打つ事に夢中なので、自然リイが相手を務めることになった。アン領主の話は興趣(きょうしゅ)に富み、聞き飽きなかった。

 息子のシュウもまた、大人しく父の話に耳を傾けていた。


 「ドゥオ国やジュウ国よりずっと奥地には、手先の器用な人たちがいて、麦一粒の大きさに、きちんとした絵を描くことができるそうですよ。特製の書き道具を使うのですが、それも彼らの発明なのです。彼らは私たちが見たこともない物ばかり食べて暮らしているそうです。そのうち、誰かが輸入するでしょう」


 まっ先に輸入するのは、シュイに違いない。彼は有力な貿易商でもあった。


 「ここから遠いある国では、嬉しい時や悲しい時、木に登ることで、それらの感情を表現する習慣があるそうです。また別の国では、木の下にじっとしていたり、片腕を決して使わないことを修行と看做(みな)す宗教があって、人びとは彼ら修行者を、神に準じる存在として(あが)めるということです」


 「世情が不安定になると、人は神に慰安を求めたがる。普段は神の存在など忘れているのに、調子の良いことだ」


 甘味の盛り合わせに顔を埋めんばかりだったスイが、急に口を挟んだ。

 彼は晩餐の始めから、上物の葡萄酒を随分と聞こし召していた。


 リイはぎょっとした。たまたま皿を空にし終えたヨウが、彼の言を耳にした。


 「人は、日々の生活に追われて忘れているように見えますが、それでも心の中には、神が常に存在しています。ですから、必要な時に、人はいつでも神を思い出すことができるのです」


 スイは大仰に頭を揺らした。酔っ払っている。リイは、彼が失言しやしないかと、はらはらした。


 「左様。神が存在することだけは、疑いない」

 「仰るとおりです。異論はありません」


 シュイも調子を合わせて同意したので、話はそれで終わった。

 彼の家系は代々ヨ教を信奉している。いつかその時が来るとしても、今は、領主に論争を仕掛けるべきではない。


 修道院長であるスイは、料理のあまりの美味しさに、つい酒の度を過ごしたらしい。

 リイは、彼にこれ以上酒を飲ませないように留意した。


 食事を終えるとシュウは退席し、残る一同は別室へ案内された。そこには葡萄酒を除く、様々な種類の飲み物が用意されていた。

 リイがいつかドゥオ国で飲んだ、焼けるような酒もあった。


 ヨウが目敏(めざと)く葡萄酒ならぬ葡萄ジュースのグラスを掴むと、スイの手に押し付けた。

 彼は満足そうな表情で、ちびちびと口をつけた。酒と思い込んでいる。


 リイは安心して、自らの飲み物を選んだ。水を入れると白濁する酒を見つけた。面白半分に飲んでみると、案外強い酒であった。


 「実は、そろそろ引退を考えておりましてね」


 シュイは、琥珀色の酒を飲んでいた。素面ならば、驚かずにいられないところである。酒で弛緩した一同は、さしたる反応を示さなかった。


 アン領主は、代々貿易商人の代表が就任する決まりになっている。制度的には世襲でない。

 ただ、前領主はシュイの父親であった。シュイの家は、今でもアン地方最有力の貿易商人である。


 息子の妻は、隣国ジュウの有力商人の娘だ。地盤は強固になる一方である。ハルワ最強の貿易商となる日も近い。

 アン地方の決まりを杓子(しゃくし)定規にあてはめれば、次期領主の該当者はただ一人、ということになる。


 「すると、次の代はシュウ殿ですな」


 ヨウが言った。彼が飲んでいるのは、異国の果物を絞った汁であるらしい。リイもいい加減、彼に(なら)って酒を止めることにした。


 「そう思う人ばかりでは、ありません」

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