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リイ 陥穽

 間もなくリイは、チュウを夕食に招待した。

 コンの町中にある集合住宅の一室である。この町では限られた土地に大勢の人が住む。館に住めるのは、領主などごく限られた階層であった。


 リイの家が館でないという理由で、チュウの疑いを招く恐れはなかった。

 もちろん、居宅は彼女の持ち物ではない。イル派信者の協力を得て、調度品から召使いに至るまでまるごと借りていた。


 彼女は今回の試みの間、身内の聖職者を遠ざけた。相手は、ハルワティアンから直に派遣された司教である。

 失敗する気はないものの、万が一の策は必要であった。最悪でもドンの教会に害が及ばないよう、配慮したのである。


 調度品を片端から褒め、愛想良く振る舞うチュウからは、ひと欠片(かけら)の疑念も感じられない。


 「シュイ様のお館に滞在なさっておられるそうですな。たまには粗食も口直しになるでしょう。体に良いものですよ」


 リイはチュウに料理を勧めた。凝った料理は出せないが、素材だけは念を入れて吟味(ぎんみ)してある。


 「毎日、御領主と同じ食事を摂る訳ではありませんよ。習慣の違いもありますからな。なるほど。自然の美味ですな。奥方の心尽くしをも感じます」


 チュウはリイの背後に控えるジアを見ながら料理を褒めた。彼女がどのような表情で応えたかは、リイには分からない。

 せいぜい馬鹿な亭主のふりをして、喜んでみせ、酒を浴びるほど飲ませた。


 「これはまた珍しい味わいですな」


 食中酒を口に含んだチュウの言葉に、リイはやや緊張しながら、遠国の産だと曖昧(あいまい)に説明した。

 実は、ドンの修道院で作った葡萄酒に、あれこれ混ぜ物をした、いわば彼のための酒であった。


 幼い頃から一流の品に囲まれて育った者であれば、酒の産地から時には混ぜ物まで当てる能力を身につけている。

 チュウは、その筋ではないらしく、彼女の説明に納得して相好(そうごう)を崩した。


 食事の間はジュウ国やシュイの館、アン地方一般の話をして終わり、連れ立って部屋を移った。別室には、わざと酒以外の飲み物を用意させなかった。

 リイもジアもしきりに酒を勧めた。


 「ところでご主人は、ヨ教をご信仰だそうですな」


 話を切り出したのは、チュウからであった。ジアの表情から、催促を感じ取ったのだろう。

 リイは、わざとらしく声を上げて笑った。


 「ははっ。良い気分の時に、宗教と政治の話は止めましょう。(いさか)いの元ですよ」


 案の定、相手はむきになった。


 「いや、そう(おっしゃ)らずに。今日初めてお会いして、ご主人があまりによい方であるからこそ、敢えてお話しするのです。どうでもいい人が何を信じようが、それも唯一絶対神のお定めでしょう」


 「私は、あなたのような方がヨ教を信仰なさっていることを、あまりに勿体(もったい)ないと、心から残念に思うのです。素晴らしい奥方もいらっしゃる。みすみす完全な幸福を、掴み損ねているようなものです」


 「私は充分幸せですよ。商売も順調ですし、愛する妻が傍らにおりますし、これ以上何かを望む必要もないくらいです」


 リイは、隣りに腰掛けていたジアを、これ見よがしに抱き寄せた。彼女は、されるがままである。

 こうした動きが、全て練習を重ねた結果であるとは、チュウも思うまい。

 彼は目のやり場に困って咳払いした。


 「生きている間の幸せなど、かりそめに過ぎません。人はいつか必ず死にます。死して後に得られる幸せが、真実永遠のものなのです」


 いよいよ始まった。弛緩(しかん)した笑顔の裏で、リイは必死に感覚を研ぎ澄ませた。

 始めから注意して、酒量を最小限に抑えていた。ただし、相手にも同様の可能性はあった。


 「ああ。その手の話を始めると、際限がなくなりますよ。チュウ殿がワ教の真摯な信者であることは承知しておりますが、幸か不幸か私には別の考えがあります。どうか今宵は私たち夫婦のためにも、その話は胸にお納め下さい」


 リイは一旦緩めた腕に、再び力を入れた。多分ジアは、困惑の表情を浮かべたに違いない。

 差し向かいに座るチュウに、強い感情がちらりと面差(おもざ)した。


 「ご夫妻のためとあらば、なおさら避ける訳にはまいりませんな」


 「信心を強制することはできません。人は、信じたい物だけを信じる存在です」


 「それは物を知らぬ民の場合です。眼前に真実が存在するにもかかわらず、聡明な方がそれを認めないのは、単なる欺瞞(ぎまん)です」


 チュウは笑顔を保ち、リイと微笑み合う形を取っていた。彼女はジアを離した。


 「思い切ったお言葉ですな。あなたが仰る事実とは何か、教えてもらえませんか?」


 「神は唯一絶対の存在である、ということです」


 リイは笑みを口元に貼付けたまま、軽く目を伏せた。

 室内に沈黙が落ちたが、チュウは礼儀正しく待っていた。彼は、未だ理性の手綱(たづな)を握っていた。


 「ヨ教において、神はあらゆる自然の事物に偏在(へんざい)します。あなたがたの神が、それらの上位にある存在か、あるいは偏在できる能力を持つ唯一の存在である、と仮定するにはやぶさかではありません。神が人を超える存在であるという意味では、いずれも同じですからね」


 リイの言葉を、彼は存外に驚いた様子で聞いていた。


 「そこまでご理解しておられるならば、入信なさったも同然でしょう。何故、奥方を安心させてあげないのです?」


 「一旦ワ教に入ってしまったら、あそこにもここにも神がいる、などという考えを抱くことは許されないからです。ヨ教ならば、そのような心配は要りません。あなた方の宗教は、随分戒律が厳しいそうですね。少しでも教会の解釈と異なれば、異端と弾劾(だんがい)され、火あぶりにされるとか」


 彼女は、なるべく冗談めかして聞こえるように気を配った。難しい仕事であった。

 台詞(せりふ)の間中、異端審問の情景が脳裡(のうり)にちらついた。


 「そんなことはありません。とかく噂は大袈裟(おおげさ)になりがちですからね。やはり、きちんと話を聞いていただかなければ、誤解が広がるばかりのようです。全く、今日は誤解を解くためにも、よい機会ですな」


 チュウは口を閉じると、胸元で小さく印を切った。このような機会を与えたもうた唯一絶対神に感謝したのだろう。

 じりじりと彼の側へ移動していたジアが、空のグラスに強い酒を注いだ。それを援護(えんご)と捉えたか、一気に飲み干した彼の顔は、勢い付いていた。


 「私はアン領主の館に滞在しておりますが、ご承知のとおり、シュイ様はヨ教の信奉者です。もし、ご主人が仰るほど私たちの戒律が厳しければ、許されないことでしょう。コンの町にも礼拝堂はありますし、ドン地区まで足を伸ばせば、立派な修道院まであるのです。ご存知でしたか?」


 最後はジアに向かって問う。彼女は小首を傾げた。


 「でも、ドン地区までは、随分遠うございますわ」


 チュウは、我が意を得たり、と大きく頷いた。


 「そうです。遠すぎるのです。私の使命は、ワ教を広めることにあります。あちらに住まえば、毎日の往復に費やす時間が勿体ないし、その都度あちらに負担をかけさせることになります。それに引き換え、コンの町はアン地方の要で、領主の館はその中心です」


 「同じ屋根の下で寝起きすれば、互いに気心を通じ合えます。異教徒の地においては特に、領主の協力を得ることが非常に重要です。改宗の機会も得られます。ワ教にも、このぐらいの柔軟性はありますよ」


 相手を改宗する希望は抱いても、自分が改宗される心配は全くしていないらしい。

 リイの頬に浮かんだ微笑を同意と受け取ったのか、彼は余裕の笑みを返した。


 「あなた方の仰る柔軟性が、私の信ずる宗教の柔軟性と呼応するかどうかは、実際入ってみないとわからないでしょうね」


 「ええ。実際入信すれば、真の素晴らしさを見出されること間違いありません」


 チュウは自信満々に言い切った。これほどまでに信じなければ、司教にはなれないのであろう。

 リイは、無垢な子どものようにワ教を信じる彼を、(ねた)ましく思った。


 「信じる対象を変えるのは、大層難しい。丁度、養子と知らずに育った子が、生みの親の存在を知らされた時に(たと)えることができます。生みの親と暮らせるに越した事はない、と言いますが、実際暮らしてみなければ、本当のところはわかりません」


 「そして一度選択すると、間違いであったとしても容易に戻せない、という点で両者は似ています。間違いを減らすためには、選択を行う前に、出来る限り多くを知らねばなりません。ひとつ、素人(しろうと)の私にも理解できるように、ワ教のあらましをお話しいただけませんか?」


 「簡単にお話しするにしても、お休みの時間を削るくらいはかかりますよ。ご主人の明日のお仕事に差し支えませんか?」


 口ぶりとは対照的に、チュウは嬉しそうな顔をした。おのが神を、存分に語れる機会を得た嬉しさと見えた。


 「私どもは一向に構いません。お泊まりいただくよう、部屋も用意しております。シュイ様の方へは、使いを出しましょう」


 リイは召使いを先に眠らせるよう、ジアに言いつけた。

 部屋から下がる彼女を、チュウの目が名残惜しげに追う。リイは酒を飲むふりをした。


 「重複する点もありますが、唯一絶対神の位置付けからお話しします」


 彼が語るワ教は、リイがかつて教わったとおりの正当なものであった。いささかの揺るぎもない。

 彼女は好意的にも受け取れる曖昧な相槌(あいづち)を打ちながら、彼が滔々(とうとう)と語り続けるに任せた。


 ジアが去った後、部屋は徐々に薄暗くなった。蝋燭(ろうそく)が燃え尽きても替え手がいないためである。全て計算済みのことであった。

 互いに相手の表情がどうにか読み取れる程度の明るさを保つよう、本数や長さを調整していた。


 およそ数時間も話させ続けたであろうか。説教慣れした司教にも、疲れが見え始めた。


 リイは頃合いを見計らい、相槌を否定的に変化させた。(しばら)く続けるうちにチュウも考えの不一致に気付き、苛立ちながらも自制する様子であった。勢い、話を続けざるを得なくなる。


 「それにしても、ワ教では法王も神のように(あが)めるところが、納得いきません。ワ教の神が唯一絶対の存在というならば、それ以外の存在に上下をつけるのは矛盾しませんか。法王も人間には変わりないでしょうに」


 チュウが話を諦めかけたところで、リイはやにわに疑問をぶつけた。

 先ほどからしきりに目をしばたたかせていた彼は、瞬時目が冴えたようであった。


 「いやいや。それは違います」

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