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リイ 仕掛け

 アン地方におけるワ教の拠点としてドン地区が選ばれたのは、海域から離れているためであった。


 海に面した地域は、古くから町をなして利権が複雑に入り組んでおり、聖堂や修道院のような大きな建造物を造る余地がまるでなかった。

 その上、権利の所有者は海神教や水神教、ヨ教の信奉者で既に満杯状態だった。唯一絶対神が割り込む隙もない。


 海神教には海、ヨ教にはコンの岩が(かなめ)である。従って、アン地方においては、内陸へ進むほど土地を得やすかった。

 海から離れるほど、海神教や水神教の信者が減った。まず、住人そのものが少なかった。


 ワ教の教会が建設された後も、状況は変わらなかった。増えた住人は、そのまま教会関係者であった。


 コンの町などに住むワ教信者が教会の側へ引っ越してくることもなく、先祖代々住み着くヨ教信者が改宗する例もほとんどなかった。


 教会一帯は、さながら陸の孤島であった。


 初期には、厳しい生活に耐えかねた若年の修道士が海神教に走った、という噂さえ残っていた。

 ただし、公式な記録はない。


 ジンがイル派の拠点としたのも、そうした環境に目を付けたと思われた。

 ドンの教会は、異郷の地に立つ砦のように、周囲から隔絶(かくぜつ)されていた。

 ジンは口舌(くぜつ)を巧みに使い、ヨウやスイのような立場の者までも、イル派に落とし込んだのであった。


 残されたリイにも、彼らの持つ知識と権力は頼りになった。

 彼女がジンと別れて二年と経たぬうちに、アン地方のワ教施設は全てイル派の勢力下に収まった。


 (もっと)も、アン地方には元々ワ教の施設が少なかった。ヨ教徒などの異教徒に囲まれて日々を送る数少ないワ教信者は、異なる考えを受け入れることにも日頃から寛容であった。

 最後に残ったのは、一人の司教であった。


 イル派を抑えるために派遣されたチュウは、未だアン地方に留まっていた。彼はドン地区の寂寥(せきりょう)(いと)い、もっともらしい理屈をこねて、領主シュイの館に滞在していた。


 お陰でリイたちの活動の邪魔にもならなかった代わりに、味方に引き入れることもできず、現在に至る。



 ジンが去った後、彼女はサパへ戻ることも可能であった。


 幽閉場所を出たのはジンに(さら)われたからで、その後は国外で監禁されていた、と説明すれば、処分は免れないとしても、言い訳は立つ。

 まるきりの嘘でもない。


 イル派の活動について、ドゥオ国が目論(もくろん)んだらしい、と話してもよい。

 イル派の考えは、リイの異端事由に酷似している。だが、これだけ賛同が広がったところを見ても、彼女だけの特別な考えと決めつけることは出来まい。


 リイが、イル派の拡大運動に積極的に関わった証拠はない。彼女は人前ではイルとして、常に男装していた。

 本物のリイは、サパのホン地区に幽閉されたままである。


 というのも、サパから一向にリイ行方不明の話が聞こえてこない。

 異端者が消えた、しかもそれが元領主の娘であれば、大騒ぎになる筈である。リイが当初、ジンにさしたる抵抗をしなかったのも、早期の捜索が念頭にあったからである。


 しかるに、噂も立たず、密かに探す様子もなく、今に至っていた。

 何らかの理由で、サパはリイが消えたことを伏せているのだ。

 

 イルとリイが同一人物と知るのは、ジンとジアだけである。恐らくは二人とも、表に立てる人間ではない。

 だから、リイがイルの仮面を捨ててサパへ戻っても、公式に訴えることは出来ないだろう。

 サパもまた、リイの失踪を隠していた弱みがある。彼女をイルとして告発することは出来まい。


 「あたしはジンを愛してる」


 彼が去った直後、先の見通しを尋ねたリイに、ジアは宣言した。


 「だからあたしは、これから先も、彼が望むようにするわ」


 彼女はリイを見据えた。逃げたら只では置かない、と目が語っていた。

 (おど)しの方はともかく、彼に捨てられたも同然で、二度と会えなくとも、なお忠誠を誓う彼女のひたむきさに、リイの心が多少動かされたことは、事実である。


 しかし、リイがこの地に残った大部分の理由は、別にあった。


 彼女は、石もて領主の座を追われた身である。

 正確には次期領主の座であるが、大した違いはない。


 ジンに付いて活動する中で、リイは彼女の考えに賛同する人びとを目の当たりにし、その考えを形にして広めた責任を感じたのである。

 領主となる道を失った彼女に、唯一絶対神が新たな道を指し示したとも思われた。


 熟考の末に留まった筈であるが、落ち着いたところで改めて(かえり)みると、間違った道を進んでいるような気がすることもあるのだった。



 「アン地方を掌握(しょうあく)したからには、次はサパかピセにも拠点を築きたいものですな」


 スイが言った。リイは今後の活動方針を定めるため、修道院長のスイや教会司祭のヨウ、アン地方の主だった司祭とドンの教会に寄り集まっていた。


 「サパは辺境ですが、元領主の娘が異端と断罪されて以来、法王の締め付けが厳しくなり、主な教会や修道院の司祭は、ハルワティアンから赴任しているそうですよ」


 リイは自責の感情を、(おもて)に表さないよう苦労した。

 同席者たちは、誰もリイの正体を知らない。彼らにとって、彼女はイルの名を持つ男性であった。


 ジアがいなかったら、とても隠し仰せることはできなかった。彼女は女性に見えるが、実は男性である。

 ジンが彼らに何と紹介したものか、今は熱心な信者かつイルの忠実な召使いとして、修道院内に住むことを黙認されていた。

 この会合には、彼女の席がない。


 「ピセ地方には、我々に賛同する貴族がいるらしい。既に何らかの拠点を作っているかもしれない」


 「ロポ地方はどうだろう。ジュウ国と接しているし、我々の考えを受け入れやすい土壌がありはしないか」


 リイの心中を知る(よし)もなく、司祭たちは話を続けた。


 「それより、チュウ司教の扱いはどうしますか」


 ヤオが言った。彼はコンの町にある教会の司祭である。ここの孤児院で育ち、修道院を出た後、司祭となった。

 いわば生え抜きである。

 アン地方全域のワ教教会をイル派に置き換えるには、彼に負うところが多かった。

 

 チュウは領主の館に寝泊まりする身とはいえ、お膝元であるヤオとの接触機会は当然多い。

 そして、イル派対策の将である。

 ヤオは、自派勢力を外へ広げる夢を語るよりも先に、足元を固めよ、とさりげなく主張したのであった。


 ヨウとスイも、年若い彼に一目置いている。一同は、彼の意に従って議題を変えた。


 「司教を味方につけられれば、大いに力になるだろう」

 「相手は司教だ。味方に引き入れるのは難しい」

 「時期尚早ですな」


 「かといって、放っておく訳にもいくまい。ハルワティアンは、これを機会に司教を常駐させるつもりかもしれない。アン地方の布教は長年の懸案だからね」


 「イル様ならば、彼を転向させることがお出来になるのではありませんか」


 話が曖昧な雑談に落ち着きかけた時、リイを熱心に見つめていたヤオがとうとう思いを口に出した。座がどよめき、視線が彼女に集まった。


 「彼らは強大な権力の庇護(ひご)下にある。正面から当たっても、砕けるばかりだ。何か、考えはあるのか?」


 リイは(おもむろ)に全員を見渡した後、ヤオに目を向けた。彼は、はっと面を伏せた。


 「それは」


 後に沈黙が続いた。続けば続くほど、その重みは耐え難くなる。

 彼女はふと異端審問の場を思い出した。目の前の光景と重なり、彼が気の毒に感じられた。


 「引き続き考えてみよう。慌てる必要はないが、失敗は許されないのだ」


 「はい」


 彼の肩から、明らかに力が抜けた。話題は他へ移った。

 リイは司祭たちの会話に耳を傾ける一方で、あれこれと司教の転向策を考え始めた。



 チュウが辻説法をしながら、まばらな聴衆の頭越しに、ちらちらと目を走らせた。

 視線の先には、聴衆から離れて遠慮がちに(たたず)むジアの姿があった。もう、かれこれ二月ばかりになる。


 司教が説法を始めて野次馬が集まり出すと姿を現し、終わる直前に姿を消す。

 彼は三、四回目くらいからジアの存在に気づき、今では彼女が気に懸かって仕方がない様子であった。彼女が姿を見せない回には、説法の冴えが心なしか落ちるほどであった。


 そして今回、ジアは彼の説法を最後まで聞き通した。


 「ご婦人。いつも辻説法にわざわざお出でになってくださるとは、この辺りでは見上げた信仰心ですなあ」


 野次馬然とした聴衆もどきを蹴散らさんばかり、ほとんど走るようにして近付いたチュウは、息を(はず)ませていた。

 彼とジアは領主の息子の披露宴で顔を合わせた可能性があったが、こうして間近にしても見覚えのない様子であった。

 当時、披露宴で踊り子に(ふん)したジアは、ここでは見事に商人の妻を装っていた。


 「勿体(もったい)ないお言葉でございます。私、お偉い司教様がいらっしゃると伺いまして、せめてお姿だけでも拝見したいと思いまして、夫の目を盗んで参りました」


 チュウは身振りも大仰に驚いてみせた。


 「ご主人の目を盗んで、とは、どのような意味でしょうか。まさか、奥さんが偉大なる唯一絶対神の教えを聞きたがるのに、ご主人が否やとは言わないでしょう」


 「それが実は、夫はヨ教の信者なのでございます。アン地方は領主様もヨ教を信奉なさっておいでですし、堅苦しいワ教などよりも、商売がしやすいなどと申しまして。私、本当に悲しゅうございます」


 (つつ)ましく(なげ)くジアに彼は同情し、危うく手を触れなんとするところを、彼女がさりげなく避けた。


 「司教様のような高貴な方のお言葉なれば、夫の固い頭でも聞き入れるのではないか、と(はかな)い希望を持ちましたものの、私ごときの身分から厚かましくお願いすべきでもなく、こうして遠くからお祈り申し上げましたら、司教様を通じて神様に届くのではないかと、そればかり念じておりました」


 「まさにこれが唯一絶対神のお導きというものでしょう。今度折りをみて、私がお話ししてみましょう。長年の信仰ですから、すぐに曇りを晴らすのは難しいかもしれませんが、奥さんの心の平安に微力ながら役立つことは出来ると思います」


 「本当に、ありがたいお導きでございます。司教様。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」


 ジアは潤んだ瞳を向けながら、手袋を嵌めた手でチュウの手に触れた。司教は微かに震えたようであった。


 「よろしい」


 ジアと御者に扮した孤児院の下男から報告を受けて、リイは頷いた。

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