サイ 詭弁
すると、クインは続けて言った。
「法王は、ユアン様が異端に組することを、心配なさっておいでです。見たところ、あの方の信仰には問題なさそうです。むしろ私が心配するのは、仮にリイ様が命を落とされていた場合、ライ様の家系が完全に断たれ、サパに混乱が起こることです」
「リイ様がお亡くなりになるなんて。そのようなことは、考えられません」
咄嗟に返したのは、リイがイル教徒の黒幕ではないか、という疑惑が心底にあったためである。
クインは、サイの語調の強さに驚いたようであった。
「何故ですか? ただの領民ならば、日払いの仕事で食いつなぐこともできますが、高貴の身分の方には難しいでしょう。それがこれほど長い間、見つからずにいるのです。可能性の一つとして考慮するのは、当然です。それとも何か、心当たりでもございますか?」
「いいえ」
サイは疑惑を口に出さなかった。表情にも、出なかった筈である。
先のユアンとの対話で、充分に懲りていた。
今のところ、リイがイルである証拠を、積極的に探すほどの根拠はない。
ともかく何かしら証拠が見つかるまでは誰にも話さず、心にしまっておくつもりであった。
「司教は特別司教と聞きましたが、任務を終えた後はこちらへ残るのですか?」
幸いにも、クインは彼女を追及しなかった。彼女は新たな話題を歓迎した。
「いいえ。特に希望は提出しておりません。唯一絶対神のお導きに従って、どこへなりとも赴くつもりです」
「しかし、司教まで務めた方が、一修道女に戻るわけにもいかないでしょう。過去の例をとっても、特別司教に任命された方々は、その後それなりの地位を得ておられますよ。尤も、そのいずれも男性司祭ではありますが」
クインに指摘されても、サイには今ひとつ腑に落ちなかった。彼女は、特別司教の任を解かれた後、一修道女に戻り、これまでの研究を続けるつもりだった。
聖職者の人事の流れなど、彼女の関心の埒外であった。
「そうしたものでしょうか」
クインは重々しく頷いた。
蝋燭の炎でできた影が大きく揺れて、一瞬、彼の顔を真っ黒にした。
サイは、幼い頃に預けられた施設の、孤児院長を思い出した。
顔立ちの記憶は朧げで、怖い人、という印象が残っていた。ちょうど、今一瞬見えたクインの顔のように。
「そういうものです。そうでなければ、組織が成り立ちません」
「組織、ですか」
「ええ。組織が成り立たなければ、神を崇めることもできません。考えてご覧なさい。教会がなかったら、信者はどこで神を見いだせばよいのでしょうか。聖職者がいなかったら、信者はどのようにして自らの歩む道が神の御心に適う、と知ることができましょうか」
いつの間にか、サイは講義を受ける修道女の心持ちに返っていた。
クインもまた、彼女の教師のように熱弁をふるう。
「しかし、唯一絶対神は、人が生じる前から存在なさったのではありませんか?」
「神の存在は、証明できません」
クインは言い切った。
サイは絶句した。異端を取り締まる役目を負った、司祭の言葉である。
にわかには、自分の耳が信じられなかった。
彼は彼女の反応を楽しむ様子である。ますます件の孤児院長を連想させた。
「我々人間は、確かに存在しています。見ることもできるし、こうして話すこともできます。また、触れることもできます」
彼は手を動かし、自らの体に触れてみせた。
「しかしながら、神という存在を見たり、神と対話したり、神に触れたりすることはできません。過去にはそうした体験を持つ人もありましたが、彼らも他の人びとが納得するように、神の存在を指し示すことはできませんでした」
サイは動悸を感じ、胸に手を当てた。
母の形見が布越しに触れる。
まるで母が、彼女に助けの手を差し伸べたように感じられた。力を得た彼女は、反論する。
「見る事も聞く事も叶わぬ存在を、どうして人びとが知り得たのでしょうか。万が一神が存在しないとしたら、どうして人びとは、神という共通の認識を持つようになったのでしょうか。どこかに存在しなければ、思い及びもしないのではありませんか?」
「共通の認識など、持っていませんよ」
クインが哀れむような微笑を浮かべる。ここに至り、司教と司祭という上下関係は完全に逆転した。
「神、あるいは神のような存在を崇める宗教は、ワ教ばかりではありません。ヨ教に海神教に水神教。その他にも、無数にあります。そして、それぞれが神として崇める存在は、姿形から時に数までが、互いに異なっております」
「ワ教ですら、肖像画の数だけ、異なる神の姿が描かれています。神は、唯一絶対の存在である筈なのに、この混沌ぶりはどうしたことでしょうか。結局のところ神とは、人間が作り出した慰安装置に過ぎないのです。すなわち、神など存在しない」
クインは冷たい微笑を湛え、平静に神を否定した。サイは手足が冷たくなる心地がした。気が遠くなるのを堪えつつ、口を開いた。
この場合、沈黙は敗北である。
「では何故、クイン殿は司祭なのですか? 修道士では飽き足らず、司祭まで位階を進めてきたのは、唯一絶対神を信じ、その距離を縮めるためでしょう?」
サイの言葉は質問というよりも、希望であった。彼の微笑は消えなかった。
「ワ教は優れた組織です。愚昧な人びとを正しく導くために、ワ教ほど秩序だった構造を持つ宗教を他に知りません。人は、押し付けられた規律には逆らいがちでも、信じるものにはよく従いますからね」
「付け加えるならば、ある事象が証明可能かどうかと、その事象が真か偽かとは、別の問題です。そして、ある事象が真か偽かという問題と、その事象を信じるかどうかも、また別の問題です」
「ですから、論理的に神が存在しないからといって、私や司教が唯一絶対神への信仰を投げうつ必要はないのですよ」
クインは、最後にどんでん返しを食らわせた。
必死に理解しようと努めたサイは、急に放り出されて混乱し、物も言えなかった。
彼は、単に彼女をからかったのだろうか。それにしては、随分と迫力があった。
「このようなことをお話ししたのは、サイ司教が寄せてくださった信頼に応えたかったからです。世俗には様々な考えの人がおりまして、彼らを正しい信仰に導くためには、心服させることが肝要です。時に詭弁を弄さねばならない場合もあります。どうか、お気を悪くなさらないでください」
さすがに喋り過ぎた、と感じたのだろう。彼は再び敬虔な司祭の身分に戻った。
サイには言われるまでもなかった。
クインの話した事柄が本心であったとしても、最終的に彼は、ワ教の信仰に服すと表明したのである。信仰自体が歪められた訳ではない、と彼は主張するであろう。
それに、これは告解と同様に扱うべきであった。神のみ前で、二人きりの話である。クインも、さりげなくそのように仄めかしていた。
この調子では、彼はあらゆる結論を導き出し、しかも互いに相反する結論をも等しく繋ぐことさえできるに違いない。
サイは知らず身を震わせた。
すると、クインは語り始めた。
「唯一絶対神に最も近い私たちの世界でさえ、この程度のものなのです。真摯に道を究めんとすればするほど、司教のように清い方が受ける傷は、深まるばかりです。ワ教の堅牢な組織にこだわらずとも、神に奉仕し、近付く道は無数にあると思います」
クインは席を立ち、話が終わったことを示した。
サイもつられて席を立った。シャラン、と金属の触れ合う音がした。首飾りの鎖であった。無意識に、ロケットを布の上から握り締めていた。
その音は、静かな礼拝堂に、驚くほど大きく響いた。
「それは、母君の形見でしたか」
「はい。トウ元司祭から、そのように聞いております」
「よろしければ、拝見しても?」
サイは承知した。首飾りは、人肌に温まっていた。渡す段になって、彼女は急に羞恥を感じたが、腕はそのまま動き、クインの掌へそれを落とし込んだ。
彼は灯りの側まで進み、首飾りをかざして観察した後、速やかにロケットの蓋を開いた。そこで動きが止まる。
「これは‥‥どなたかに、お見せしたことはございますか?」
サイからは、クインの背中しか見えなかった。中に封じてある髪の毛が、落ちたりしないだろうか、と心配になる。
「トウ元司祭は、ご承知かと思います。それから、ご領主様にもお見せしたことがありました」
「何と」
クインはぱちん、と蓋を閉め、こちらへ向き直ると首飾りを差し出した。
「貴重な品を見せていただき、ありがとうございました」
背後から差す光で陰となり、彼の表情は全く見えなかった。
サイは首飾りを受け取ると、儀礼的に暇を告げ、揺らめく光と影で満たされた礼拝堂を後にした。
奥歯に物が挟まったような気分であった。
クインは敢えて衝撃的な題材を用いて、言外に何かを匂わせていた。
結局のところ、彼が何を言いたかったのか、彼女には全く推測できなかった。
自室へ戻ると、漸く呼吸が楽になった。魔窟から逃げ延びたような心境であった。
サパの大貴族ソオンの屋敷には、一族専用のワ教教会がある。そこの司祭が引退することになり、ガル大聖堂から新任者を迎えるに当たって、屋敷でお披露目の宴が催された。
城からはクインとユアンに加えて、サイも招待された。ユアンの好意で、領主の馬車に三人が同乗することとなった。
彼女は礼拝堂の一件以来、クインとろくに顔も合わせなかった。
久々に会う場所が、狭い馬車の一つ部屋と分かった時には、随分と困惑した。
彼は何事もなかったかのような態度で挨拶し、自然な距離をとった。
サイは内心で、胸を撫で下ろした。
車中では、主にクインとユアンが言葉を交わした。