サイ 遺された言葉
ホン地区から戻ったサイは、仕事の合間にトウの形見を眺めた。
唯一絶対神の教えを書き記した聖書と、歴代法王の箴言集である。
どちらも手ずれの跡がつくほど、よく使い込まれていた。
至るところに丁寧な文字で、単語の解釈や例示が書き込まれていた。そのまま教科書として使えるほどであった。
これほど熱心に道を究めようとした人を側に置きながら、何故リイが異端に陥ったのかと、サイは胸の詰まるのを覚えた。
懐かしい筆跡にのめり込んで頁をめくるうちに、これまでと異なる乱れた字に行き当たった。
「我が愛弟子のサイへ」
本文と関係なく、余白いっぱいに埋め尽くされた文字を、彼女は判読に苦労しながら読み進めた。
死期を悟ったトウが、彼女宛に残した遺書であった。
恐らくは、死後にサイの手に渡るよう伝言も残したであろうが、あの老婆の様子では、聞き流されてしまったのだろう。
こうしてサイの手に渡ったのは、唯一絶対神の恩寵である。彼女は神に感謝し、更に先を読んだ。
トウは切れ切れの文章で、リイが人生に絶望しないよう、サイが手助けして欲しい、と書いていた。
彼は最期まで司祭であり続けたのだった。
サイは改めて尊敬の念に打たれた。
彼女は師の筆跡を求めて、何度もその部分を読み返した。
トウは、リイが異端とされた理由についても、簡単に書き残していた。
生まれて一年に満たず死んだ娘、すなわち洗礼前の子に勝手に名前をつけた罪。
決して軽くはないが、例えば法王暗殺未遂ほどの重罪でもない。彼女が次期領主でなかったら、より穏便に事が運ばれたかもしれなかった。
何かがひっかかっていた。
洗礼前の子ども。女性のワ教信者。
サイは立ち上がった。
トウの遺言が残された本を握り締めたまま、部屋を出た。
窓の外は既に暗くなっていたが、彼女は躊躇わずにユアンの執務室へ向かった。
彼もまだ仕事を続けていた。彼女を見ると、意外そうな表情を作った。
「これは珍しい。しかも、このような時間にお出でとは。どうしましたか?」
その表情にも言葉にも、軽い非難が混じっていることに、サイは気付いた。常日頃であれば、畏まって引き下がる場面であった。そもそも非難されるような行動を、自ら起こしはしない。
しかし今の彼女は、彼の婉曲な表現を聞き流した。トウの死と、師が遺した言葉から受けた衝撃が、彼女を動かしていた。
「リイ様が異端とされた罪の内容を、私は今日初めて知りました。洗礼前の子どもについても、洗礼後の魂と同様に扱うという考え方。これは、イル教の教義に酷似しています。性差の上下を区別しない考え方も、あの方が女性ながらにして次期領主であられた立場から、自然に導き出されるでしょう」
「イル教徒の活動が目立ち始めた時期は、あの方が消えた時期とほぼ一致します。何より、イルという名は、リイ様の名と同じ要素で構成されています。ユアン様は、あの方の罪を詳しくご存知です。少なくとも、私がイル教についてご説明申し上げた時には、これらの点にお気付きになった筈です」
彼女が一気に話す間、ユアンは始め眉を軽く顰め、それから後はまるっきり平静な顔で聞き終えた。
「なるほど。お話は理解しました。参考までに尋ねますが、今話されたことのほかに、彼女とイル教を結ぶ具体的な証拠をお持ちですか?」
サイは我に返った。失敗した。それも、大失敗だった。
「いえ」
出直したい気持ちを堪え、言葉少なに答えた。自然と目を伏せる。ユアンの視線が、顔に突き刺さるのを感じた。
「ご指摘通り、そういう点があることは認めます。しかし、あなたが証拠を持たないように、私も確証は持っていません。あなた方ワ教の皆さんは、逃走した異端者の彼女を捕らえようとし、一方でイル教の教祖を突き止めようとしています。私たちは、彼女の行方を全く掴んでいません。ですから、彼女がイル教と何らかの関係があろうとなかろうと、状況は変わらないのです」
ユアンの口調は冷たく、ますますサイの気を滅入らせた。目を上げる気力が起こらない。
「もちろん、あなたが法王に報告するのを、止めることはできません。ただ、代々ワ教を信奉し、今も最大限の支援を行うサパの領主としては、証拠のない推測で無闇に大ごとにすることがないよう、願うばかりです」
「はい。よく考えてみたいと思います」
彼女は精一杯平静な声を作って答えた。
法王に報告することなど思いも及ばなかったが、立場上、軽はずみな約束もできない。
「ところで、何故そのようなことを思いついたのですか? 今日は確か、ホン地区を訪ねたと聞きましたが」
ユアンは打って変わって、柔らかい口調で尋ねた。
サイは思わず彼の顔を見た。彼は話に区切りをつけると同時に、感情も素早く切り替えたようであった。
彼ほど自在になれない彼女は、戸惑いから問われるままに、トウの死去や形見に記された遺言について話した。
今度は彼は、始めから終いまで同情のこもった眼差しを注いでいた。
「彼は、何処にあっても模範的な生活を貫きました。理想の聖職者でした」
ユアンの誠実な口ぶりは、聞く者に心からの言葉と思わせた。
サイは、不意にこみ上げてきた涙を必死に堪え、早々に退散した。
自室へ戻った彼女は、反省する。
リイとイル教の関係について、具体的な証拠もないうちから、ユアンに話をすべきではなかった。
ユアンも言ったように、彼の置かれた状況では、手の打ちようがなかった。更に悪い事に、もし彼までもが異端者であれば、警戒させることになる。
イル教の尻尾を掴むのは、ますます難しくなるだろう。ユアンは、サイよりはよほど年上ではあるが、まだ若者の部類であった。
それなのに、彼には老獪と言っていいほどの落ち着きがあった。
彼が敵に回ったら、彼女にはとても太刀打ちできない。彼女は自分の失策に頭を抱え、どうか彼がイル教の魔の手に絡めとられないように、と唯一絶対神に祈った。
司教補のシャオが、ハルワティアンへ召還されることとなった。
聖職者一同の尽力が功を奏し、イル教徒の勢力は後退しつつあるので、今回手薄となったハルワティアンを建て直す人材が必要、とのことであった。
他方、残存勢力一掃のため、サイとマオは引き続きサパに留まるよう命ぜられた。
辞令を受けたシャオは、嬉しさを隠しきれなかった。ハルワの都で育った彼には、辺境と称されるサパが肌に合わなかったと見える。
サイはしばしば彼から、そうした雰囲気を感じ取っていた。
残留組のマオは、シャオを羨んだ。
ピセ地方出身である彼の場合、サパ暮らしにというよりも、自分だけ残ることに不満を抱いたようであった。
出かける先々で、サイやシャオの供をする彼は丁重に扱われ、様々な恩恵を受けてきた。ハルワティアンの一修道士では味わえない体験であった。
彼もいずれ、サパを離れる身には違いない。
サイ自身は、ハルワティアンへ戻りたいとも、トウ亡き後のサパへ残りたいとも考えていなかった。ただ、サパ滞在が長期にわたるならば、いつまでも領主の城に厄介になるのは気詰まりであった。
確かに、イル教徒は一時期と比べて勢いを失った。未だ組織も拠点も把握していないが、日々活動する中で、感じることはあった。
彼らの勢力が水準を下回ったのであれば、日常の活動に上乗せする形で監視を続ければ済む。
もともと城へ居を構えたのは、リイの異端の件も絡んでいた。
法王は、イル教徒の掃討にめどがついたので、逃亡した異端者の捜索に本腰を入れるつもりなのだろうか。
今回、シャオの帰還以外に明確な指示は与えられなかった。追って指示を待つか、根回しをした上でこちらから伺いを立てるか。
サイはそうした政治的配慮を要する判断が苦手であった。彼女は旅立つシャオに、それとなくハルワティアンの情勢を知らせるよう頼んだが、心底から当てにはしなかった。
彼を見送った後、サイは同じく並んで見送りに出たクインを掴まえた。
「実はご相談がありまして、少し、お時間をいただきたいのですが」
「喜んで。司教からご相談に預かるとは光栄です」
彼は愛想よく請け合い、夕食後に時間をとってくれた。
夜の礼拝堂には、修道女のころにも入った記憶がほとんどない。
サイは思い切って礼拝堂に足を踏み入れた。鑞の溶ける臭いが、鼻を突いた。数えきれない蝋燭の灯りに照らし出された堂の内部は陰影に富み、太陽の下で見た建物と別物に思われた。
揺らめく火影が、壁画や彫刻にかりそめの息吹を与えていた。
「懐かしいでしょう。普段は真っ暗です。若い修道士は恐がりますが、祈りに集中できます。節約にもなりますしね」
クインが姿を現した。その若い笑顔にも影が落ち、彼の顔を見慣れないものにしていた。
二人は信者席の真ん中辺りに、向かい合うようにして腰掛けた。
「シャオ殿が去って、寂しくなりましたね。イル教徒の活動が弱まってきたのは目出度いことですが、まだ完全に駆逐したとは信じられません。油断は大敵です。お力になれることがあれば、遠慮せずに仰ってください」
彼はサイの気後れを感じたのか、普段より気さくな調子で話しかけた。
その気遣いが却って、彼女に深刻な問題を打ち明けさせることを躊躇わせた。
いつまでも黙っている訳にもいかない。彼女は、言葉を選びながら口を開いた。
「ありがとうございます。イル教徒の活動については、私も同意見です。こちらの人員も減りましたから、改めて対策を練らなければなりません」
「そこでまずはこの城を出て、ガルなど町中の修道院へ住まわせてもらった方が、イル教徒の動向も掴みやすく素早い対応も可能となります。ただ、わざわざ城へ移るよう指示があったことを思うと、迷いが生じます」
「なるほど。サイ司教は、リイ様の件をお考えですね」
クインは核心をずばり突いた。サイは頷いた。
「その件は私の仕事でもありますが、やはり法王から指示はありませんでした。こちらはまるで進展が見られません。ですから、多少ご不便を感じるとしても、当面はこれまで通り城に留まって活動するのが、法王のお考えに添うことと思います」
彼は既に、この問題について考えを固めていたと見える。
間を置かず、すらすらと口をついて出た意見は、納得のいくものであった。
サイは同意した。




