サイ 師の死
「いやはや、それにしてもシュウ様の結婚式は盛大だったな」
「新婦は何て言ったっけ。ジュウから嫁いだって聞いたけど」
「確か、ランとか言ったと思うな。貿易商の娘だろ」
人びとの話題は専ら、先頃行われたアン領主の息子の結婚披露宴であった。
一週間も続いた長い祝宴は、昨日漸く幕を閉じた。
押し寄せた群衆は潮が引くように家路を辿ったが、港町コンの賑わいは衰えない。
その人出を見込んだ担当司教の依頼で、サイたちはアン地方へ布教の応援に駆け付けたのであった。
残念ながら、期待に応えることはできなかった。
お祭り騒ぎをしに来た人々に、ヨ教ならまだしも、ワ教への改宗を期待するのは、土台無理な話である。
現在のアン領主シュイはヨ教信者であり、彼の住むコンには、ヨ教を象徴する巨岩がある。
サイたちの相手は、ほとんどがヨ教信者であった。
彼らは説教に耳を傾けはするものの、宴芸の一種と思っている節があった。
ごく稀に真剣な面持ちで聞く者があれば、それは正真正銘のワ教信者である。
イル教徒らしき信者も、見つけることはできなかった。
「やはり、我々の布教活動に恐れをなして、他の地方へ退散したのでしょうな」
サイに問われたアン担当の司教は、自信満々に答えたものであった。この司教は、ワ教の教会でも信者の家でもなく、シュイの館に滞在していた。
確かにコンにある教会は、ほとんど礼拝室に毛の生えた程度の広さしかなかった。
ただ、少し離れたドンまで行けば、修道院まで併設された立派な教会がある。彼は不便を厭い、そこを避けたらしかった。
担当司教を差し置いてドン教会の世話になる訳にもいかず、シュイの館に滞在もしかねて、サイたちはメンを拠点に連日通うはめになった。
「ああ、サイ司教。やっと船が戻ってきましたよ」
マオがはしゃぐ。一行は、コンの岩を見物する船を待っていた。
マオが大層熱心にサイを掻き口説いた上に、アンの司教が見聞を広めることの大切さを説いたからであった。
岩の形は、サイも既に知識として知っていた。男女の性器が接合した形である。
ハルワ国におけるヨ教の最大拠点である。
もしワ教の聖地にそれが出現していたら、恐らく破壊されたことであろう。
何世代か前、ワ教の地元指導者が岩を削り、形を変えようと試みたことがあった。
すると、急に大波が押し寄せ、岩に取り付いた人夫を呑み込んだばかりか、沿岸の町までも浸水する被害を及ぼした。
指導者は、災難にも周囲の非難にもめげず再度挑戦を命じたが、肝心の人夫がどうしても集まらずに断念したという。
後に判明したところでは、当時、海の向こうで地震が起きていた。
その影響で大波が発生したに過ぎず、決して岩の祟りではない、という主張は当時もなされたが、人夫を集めるには至らなかった。
ヨ教信者の間では、そもそも地震が起きたことが祟りである、と信じられた。
町の記録にも残る史実である。爾来、岩に手を加えようと試みる者はない。
ワ教修道士の中には、あれは唯一絶対神が人間の始祖に対し、子孫の増やし方を教示するためにお造りになった物、との説を唱える者もあった。
岩をワ教の産物と関連付け、平和な共存を目指した考えである。ただし、異端ぎりぎりの傍流であった。
ヨ教の聖地としての歴史もあり、コンの重要な観光資源でもある。
大方のワ教関係者は、黙殺している。
船は、見物客を満載して出航した。
サイにとっては、船に乗るのも海を見るのも、今回の旅が初めての経験であった。
踏みしめた足元が常に揺れる不安定さと、見渡す限り続く海は、彼女を落ち着かない気分にさせた。
マオも彼女と同様、船も海も初体験であるが、彼は平気そうに見えた。
「サイ司教、大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが」
シャオが尋ねた。彼は既に経験済みであった。
彼女の決定に反対こそしなかったものの、乗り気でないことが、その言動から窺えた。
「ありがとう。心配ありません。船酔いしたのかもしれません」
「船縁へ出て潮風に当たれば、気分がすっきりしますよ」
船縁に近付けば、海に落ちるのではないか、という心配が頭を持ち上げる。
サイは不安を隠して礼を言い、彼の助言に従った。しかし、縁に近付くことはできなかった。
より近くで岩を拝もうと、見物客らが既に人垣を作っていた。それでも海の風に当たると、確かに彼女の気分は軽くなった。
「あっ。あれだ!」
乗客の目が、一斉に声の指し示す方を向いた。始めはただの岩と見えたそれは、人びとの歓呼に応え、たちまち全貌を曝け出した。
おおっ、とため息とも賛嘆ともつかぬ声が上がる。
見物客の反応は、様々であった。はしゃぎ出す者、やに下がる者、拝む者、両手を差し出して叫ぶ者。
いずれの目も、それに釘付けであった。
サイもまた、目を離す事ができなかった。
その巨大な神の被造物を前にすると、人間の卑小さが際立って感じられた。
「うほーっ。こ、こりゃあ、凄過ぎる」
前方から、マオの興奮した声が聞こえてきた。最前列にかぶりついているかもしれない。
隣に立つ、二人連れの会話が耳に入った。年配の商人と思しき男性が、連れの若い女性にしきりと話しかけていた。
「ほれ。おまえのここに持っている奴と、わしのここに持っている奴が、あんな風にくっつくんだぞ」
「あら。いやだわ」
女性は顔を背けつつも、目だけはしっかりと岩に貼付けている。
彼らの会話が不意に意味を持ち、サイは不快感を覚えた。これまで単なる知識として蓄えられていた事柄が、思いがけず生身の感覚に迫ったのだった。
「奥へ戻って座りませんか? 本当に、顔色が悪いですよ」
再びシャオが声をかけた。
サイは、今度も彼の助言に従った。
見物客の歓声は続き、彼らの高揚に応えて、船の揺れも心なしか大きくなった。
アン地方から戻ると、サイはトウ元司祭と念願の再会を果たすため、ホン地区を訪問した。
異端の罪に問われたリイの幽閉先である。彼女を刺激しないため、という建前で、サイたちのホン地区訪問は、常に地味な形で行われていた。
実際には、世間の耳目を集めて彼女の不在を明らかにしないためであった。
リイと接する国境警備隊の兵士たちが異端に染まらないよう、彼女の逃走以前から、ワ教関係者が城下から定期的に派遣されていた。
一通りサパ領のイル教徒を確認した後、サイたちもシフトに組み込まれた。
ホン地区のイル教徒の数は、意外に多かった。熱心なワ教信者の転向が主な点は、他地区と変わりない。
不思議なのは、近年増えたというよそ者には、イル教徒がほとんど見られないことである。
これでは、イル教徒のよそ者が、サパへ流れ着いて信仰を広めた、という仮説は成り立たない。
つまり、誰かが純粋な信仰心とは別の目的で、意図的にイル教を流布した、と考えることもできた。
その心根を思うと、非常に不快である。事実ならばイル教徒は、被害者と言えるだろう。
サイは、彼らをワ教に立ち返らせる決意を、改めて固めるのであった。
サイは国境警備隊へ向かう前に、予めユアンから聞いていた家を訪ねた。
トウの隠居先は、山肌に貼り付くようにして建つ小屋であった。
入口と思しき板を叩くと、すぐ内側から大声で返事があり、荒い足音が床板をきしませるのが、一足毎にはっきりと聞こえた。
「誰だい、戸を叩いたのは?」
扉を開けたのは、痩せ枯れた老婆であった。トウよりも遥かに年上と見えた。
彼女は、サイがトウの弟子だったと名乗ると、言葉付きがやや丁寧になった。
「ああ、トウさんのお知り合い。あの人なら、ついこの間亡くなりましたよ」
すうっと足元が沈むような感覚から、サイは船に乗った時のことを連想した。
老婆は、彼女の様子に気付かない。
小屋には他に、誰もいなかった。一目で隅々まで見渡せる広さだった。物置である。
老婆は小屋から出ると、後ろ手に扉を荒く閉め、歩き出す。
サイは後を追った。
「可哀想に。ずっと寝たきりでしてねえ。最期の方ではうなされてばかりで、全然体が休まっていなかったんじゃないかと思いますよ。何しろ、こっちまでが気分の悪くなるような声でしてねえ」
「うちの子なんか、近頃は羊を追う時に金物の音が聞こえた、なんて言い出して、てっきりトウさんの声を毎晩聞いているうちに、頭がやられちまったんじゃないかと心配しましたよ」
「ただ、亡くなった時に、昔お世話になった誰かが、看取りのお礼を包んでくださって、そのお陰で大分調子もよくなりましたがねえ」
大声で喋り散らしながら案内された先は、トウが寝泊まりしていた納屋であった。
常に必要最小限の生活をしていた彼らしく、住まいは片付いていた。
「うちも子どもが大きくなるから、早く片付けようと思うけど、忙しくてなかなか手がつかないんですよ」
老婆は耳元で話し続けた。祖末な寝台の枕元に、ワ教の本が数冊あった。
サイは彼女に幾ばくかの礼を渡し、本を貰い受けた。形見のつもりであった。
老婆は喜んで礼を受けた。
サイはその足で、ホン地区にあるワ教の教会を訪れた。小さな教会には、更に小さな修道院と孤児院が付いていた。
サイの幼少時には、なかった建物である。もし当時から存在していれば、彼女はここに預けられた筈であり、その後の人生も違っていたかもしれない。
教会を訪ねてみると司祭は不在で、若い修道士が応対した。
「ああ。この間亡くなった方ですね」
彼は、サイに愛想よく墓標を教えたが、死者の人となりは、まるで知らないようであった。
彼女がこの辺りで生まれたことも、知らないに違いない。
「あの方のことは、よく知りません。亡くなられた際、ユアン様がいろいろお心を砕いてくださいました。城の教会にいらしたころは、ご立派な仕事をなさったのでしょうが、何分、例の件がございましたので」
やはりトウは、リイの異端の責任をとって引退したのであった。
サイは、修道院に依頼しておいた花輪を手にして、トウの墓前に立った。
墓地は静かだった。彼女は花輪を真新しい墓石に捧げて跪き、祈った。