サイ 神父との再会
ある日、エエンがサイを連れて家へ戻ると、鍋をかき回していたバイが、興奮した面持ちで話しかけた。
「今度、姫様が結婚するんだってさ」
「それがどうした」
空腹を抱えたエエンは、バイが料理の手を休めたのが気に入らず、ぶっきらぼうに応えた。バイは夫の不満を見てとり、すかさず鍋に戻ったが、口は閉じなかった。
「領主様の一族の結婚式なんて、生きている間に何度も見られないじゃないか。しかも、お相手は都の貴族様だそうだよ。何でも、ガルの大聖堂でお式を挙げて、そのあとお城まで練り歩くんだってさ。奥方様は町に出なさる時、いつだってお菓子をくださるのだから、結婚式の時にはとんでもなくいいものをくださるかもしれない。そうでなくとも、人が大勢集まるんだ。ひと商売できるかもしれないよ」
「けっ。そんな虫のいい話があるかい。そうか。それで、やけに同じ日に掃除の仕事が集中したんだな。皆が見物でお留守の間に、せいぜい稼がせてもらうぜ。お前はお前で、いい考えがあるのなら、ひと儲けしてみせろよ」
「あたしは、あんたに金儲けの機会を教えてやったのさ。煙突掃除で稼げるなら、慣れない商売に手を出して、危ない橋を渡らなくたっていいんだよ」
エエンはふん、と鼻で笑った。その話はそれきりだった。
当日、夜中のうちから叩き起こされたサイは、領主の姫が結婚する日だ、とすぐにわかった。
「今日は、あちこちから引き合いが来ているんだ。たっぷり稼ごうぜ」
寝ぼけ眼をこするサイを追い立てるエエンは、張り切っていた。実際に掃除をするのは、サイである。
彼は、報酬の一部といえども、一度たりとも彼女に渡したことはなかった。
そもそも、改めて報酬を支払う必要がある、という考えすら、頭に浮かばなかった。
屋根のある場所で寝起きをさせ、仕事を与え、食事を摂らせるだけで、充分過ぎるほど報いた、と考えていたのである。報酬については、バイも考えを同じくしていた。
従って、良心の呵責も恥じることもなく、彼らは無賃でサイを働かせていた。
「夕食をたんまり用意しておくからね。たんまり稼ぐんだよ」
バイは半分寝ぼけながら、二人を見送ると、星空を見上げて再び寝床へ入った。彼女は、姫の結婚行列を見物するつもりでいた。
それにしても仕度をするには早すぎる、と思ったのである。
エエンはサイを引き連れて、煙突掃除する家を回った。順番の早い家では、バイのように安眠を妨げられた者もあり、文句をつけた。
「これから朝ご飯の仕度をしなくちゃいけないんだってば。掃除が済むまで待っていられないよ」
「今日は生憎順番待ちなんだよ。そんなに急ぐなら、簡単なやり方で手早く終わらせるよ。それとも、別の日にするかい? 大分先になると思うがね」
「そっちでいいよ。早い分、お代も安くなるんだろうね」
料金を値切られたエエンは、サイに手早く済ませるよう指示した。
例によってひどく汚れた煙突を、手早くきれいにすることは、サイでなくとも不可能であった。
急かされるまま、サイはかろうじて詰まりがなくなる程度までに、煤の塊を落とした。
今日はどこの家でも同じ調子で、二人は夜明けまでに数軒の煙突掃除をハシゴする羽目になった。
日が昇り気温が上がる頃には、エエンの懐もまた、常日頃よりも温まっていた。
「いやあ。値切られちまったが、まあまあ稼げたな。やっぱり数をこなすのが一番だ。さあて、今日はまだまだ仕事が入っているんだ。どんどん稼ぐぞ」
そして、煙突を掃除するのは、サイである。彼女は急ぐあまり、煤が頭にまともに落ちるのも構わず、懸命に働いた。あんまり忙しく働いたので、いつもより早く空腹を覚えた。
今日は早くから長い時間にわたり、多くの仕事量をこなしていた。元より朝晩二食の生活である。仕事を終え、帰宅するまで次の食事を取ることはできない。
他方、エエンは人気のないのをいいことに、戸棚にあったパンを一切れ失敬していた。
掃除を終えて煙突から這い出したサイが見た時には、パンがエエンの口に入って久しかった。彼の口がもごもご動く意味に気付いたサイは、一層空腹を募らせた。
「終わったか。さあ、次の家へ行くぞ」
エエンは快活に宣言した。彼の小腹は今のパンで満たされた。満ち足りた彼の心は、サイの空腹に、ついぞ気付かなかった。
彼女はおぼつかない足取りで、彼の後を追った。
通りは、やけに人が少なかった。両側に立ち並ぶ家々にも、住人の気配が薄かった。そして、どこからともなく、人びとのざわめきが伝わってくる。
エエンの足元を必死で追ううちに、サイの耳にも歓声が、はっきりと聞き取れるようになってきた。
やがて広い通りまで来てみて、すっかり事情が明らかになった。
そこには人垣ができていた。物見高い民が、領主の姫の結婚式を末代までの語り草にしようと、家を空けて道端に陣取っているのであった。
「くそっ。邪魔臭えな」
エエンは苛立ち、見物人の途切れる箇所を探した。左右共に、見通す限り、延々と連なっている。
彼は舌打ちをして諦め、代わりに、人垣を掻き分けて通りを横切ろうとした。たちまち周囲を巻き込んで、小競り合いが起きた。
「おい。俺たち朝から並んで待っているんだぜ。横から入るのは、やめろよ」
「そうだそうだ。行列が見えたら、順番に見ればいいじゃないか」
「違うんだよ。俺は」
エエンの釈明は、言い訳と捉えられた。
「何が違うんだよ。騙されねえぜ」
「さっきも誰か言いがかりつけて、特等席を陣取ろうとしていたな」
「奴はしくじったんだぜ。真似をするんなら、ちゃんと最後まで見届けてからにしろ」
「だから俺は。ええい、聞く耳持たねえ奴らだ。とにかくどけよ」
痺れを切らしたエエンが、声を荒らげた。相手方も、引きはしない。祭りのような騒ぎで、気分が高揚しているのだった。
「おうおう、力ずくでやろうってのか」
「上等だ」
「やっちまえ」
エエンの側にいたサイは、小さい上に煤に塗れて黒かったので、大人たちの視界に入っていなかったのが、喧嘩になった途端に、巻き込まれた。
エエンと一緒になって小突かれ、叩かれ、抓られ、揉みくちゃにされ、引っ掻かれた。
騒ぎに紛れ、人垣の一方が歓声に沸き出したことに、周囲の人々は気付かなかった。
その時、突き飛ばされた勢いで、サイは人垣から転がり出た。
ふっと体が楽になったかと思うと、蹄の音が無数に聞こえた。
サイは、今しも行列の差し掛かる前方へ飛び出したのだった。轢かれる。彼女は、慌てて四つ這いで人垣へ戻った。
もう人びとは、サイを弾き出そうとしなかった。
彼女が這い込んだ先が、小競り合いがあった場所と反対側であったせいもある。
何よりも、領主一族の結婚行列を見ることに夢中で、足元まで注意が向かなかったせいであった。
幸い、一行はサイの存在に気付かず行進を続けた。
気付けばサイは、エエンとはぐれてしまっていた。彼がいなければ、次の仕事先が分からない。彼女は途方に暮れて、人びとの見つめる先へ目を向けた。
ちょうど、花嫁花婿を乗せた馬車が、通るところだった。
綺麗に飾り立てられた毛並みのよい馬が、絢爛豪華な造りの馬車を、優雅に引いていた。立派な馬車の窓からは、夢のように美しい少女が、目にも綾なるドレスを身に纏い、優美な仕草で手を振っていた。
その瞳は、全ての人びとの歓呼に応えるように、輝いていた。
道端から、地に這いつくばるようにして見ていたサイにも、その美しさは心に焼きついた。
全ては一瞬で過ぎ去った。何もかも、生まれて初めて見る物ばかりであった。
人々は余韻醒めやらぬ様子で、夢幻のような情景を褒め讃えるのであった。行列の後から追いかけようとする人も多くいた。
サイはまたしても、周囲の動きに巻き込まれた。人ごみに揉まれた挙げ句、彼女は漸く人の流れから外れることができた。
人の多い大通りから逃れ、目についた路地へ入って息をつく。
「もしかして、サイかね?」
人のいないのを幸い座り込んだところで、上品な老人に話しかけられた。
彼は見覚えのある服装をしていた。それは、孤児院にいた頃よく見た感じであった。しかし、その上に載る顔には、全く見覚えがなかった。
それでも、自分の名前を呼ばれたのは間違いない。サイは素直に返事をした。すると、老人は嬉しそうな顔をした。
「やはり、そうではないかと思った。すぐにわかったよ。私のことなど、覚えていないだろうね。何しろお前は生まれたばかりで、ほんの短い間しか私の元にいなかったからね」
覚えていないのは、その通りである。サイは頷いた。
老人は、自ら種明かしした。
彼はサイが牛小屋で生まれた時、近所に住んでいた神父であった。今はガルの修道院で教職に就くトウは、そこで初めてサイの尋常でない格好に気付いた。
サイは煤に汚れて全身真っ黒であった。おまけに、担いでいた煙突掃除の道具を、知らぬ間に紛失してしまっていた。
群衆の小競り合いに巻き込まれた際、擦れて顔が若干きれいになっていなければ、トウでも見分けがつかなかったであろう。むしろ、今の状態で彼がサイに気がついたことは、奇跡的であった。
「お前はまあ、何とひどい身なりをしているのだろう。一体、どんな生活をしているのかね。いいや、道端で長話をするのも老いの体に堪える。ひとまず辻馬車を拾って、私の住まいへ行こう。別に構わないだろう?」
サイは迷った。世話になるエエンの許可なしに、出かけて良いものだろうか。しかし、これまでの間、エエンは彼女を呼びに来なかった。どのみち道具がなければ、彼女は煙突掃除ができない。きっとエエンは、サイが落とした道具を持って、次の依頼先へ出向いたのだろう。予定がいっぱい詰まっていると言っていた。彼女を待っていては、仕事が片付かない。ならば、手の空いたサイが、神父の招待に応じても問題ない筈である。
そう考えて頷くと、トウと一緒に別の通りへ出た。
トウが呼び止めた馬車は、彼がサイを乗せると告げると、御者台から薄汚れた毛布を出してきて、座席に敷いた。
「本当は、そのガキ‥‥子供は、御者台に乗ってもらいたいんですがねえ。神父さん相手じゃ、しょうがねえや」
サイが馬車に乗るのは、孤児院から出る時以来だった。彼女は窓からの景色を眺め、この先良いことがありそうな予感を抱いた。