ユアン その出自
納屋を改造した粗末な部屋で、元司祭のトウは、すっかり床に就いていた。
リイが異端と断じられた責任を取って、引退したのだが、体調を崩したのは、彼女が失踪してからのことだった。
漏れ聞いたところによると、ワ教の取り調べが峻烈で、ほとんど拷問の様相を呈したらしい。
身内のような立場で、異端を出した責任者でもあり、その上異端者を逃がすために近くへ居を構えた、と疑われた末のことだった。
ユアンには、トウが異端を示唆したとも、ましてリイを逃したとも考え難かった。彼はリイの犠牲者とも言える。
夫として責任を感じたユアンは、人を介して彼に援助を続けてきた。
顔を合わせるのは、彼の引退以来である。彼は、昔馴染みの家の一隅に寄居していた。
「起き上がるのが辛いようで、食事もほとんど召し上がりません」
案内した老女が言った。彼女は部屋の扉を開けるまで、のべつまくなしに喋り続けた。恐らくは、ユアンが領主と気付いていない。
「トウさんも気の毒ですが、あの山の上の方に住んでいるご夫婦もね、急に井戸が涸れたとかで、大騒ぎですよ。先祖代々使ってきて、初めてのことなんですって。新しく井戸を掘る最中で、水が出るまでは、ここまで水を汲みに来ているんです」
「うちの子も手伝わせてはいますけれど、一回往復したらへとへと。洗濯は、沢の方で済ませているって言うから、飲み水も汲めば良いのにって言ったら、昔は平気で飲んでいたけれども、今はお腹を壊すからだめだって奥さんが言うんです」
「そう言えば、うちで飼っている羊も、昔は喜んで食べていた草場に、突然近寄りもしなくなったことがありましてね。土や水が変わるのか、羊や人が変わるのかわかりませんが、困ったものですよ」
老女はユアンを部屋に押し込むと、あっさりと立ち去った。急に静寂が訪れた。
トウは始め、眠っていた。
かけ布の下で息付く薄い体や、尋常でない顔のやつれ具合が、取り調べの苛烈さを示していた。
ユアンが見守るうちに、落窪んだ目蓋が、ぴくぴくと震えた。
「ユ、ユアン様」
トウは、きしんだ声を出した。起き上がろうとして、力が入らない。
ユアンはそのままで構わないと告げ、無沙汰を詫びた。
「とんでもない。こちらこそ、お礼も申し上げず」
言いかけてトウが咳き込んだので、ユアンは水差しを取り上げ、椀に注いで口元へ持っていった。
体の下に腕を差し入れ、水を少しずつ流し込む。
彼の体は枯れ木のようであった。水を含んだトウの目に、涙が滲んだ。
「申し訳ございません」
やや滑らかになった声で、何度も謝った。ユアンは彼の気を引き立てようと、明るい話題を探した。
「そうそう。サイ殿を覚えているか。彼女が司教となって、サパへ戻った」
トウに喜色が浮かんだ。
「おお、サイが。それはよかった。では、身元を明らかになさったのですか?」
「いや。私は何も」
思わぬ矛先を向けられて、ユアンは戸惑いながら頭を振った。
トウが言うのは、サイが亡母の形見として持つ首飾りに、ユアンの父の紋章が刻まれていたことを指す。
ユアンは、それが父からある女性に贈られたことを知っていた。
つまり、サイの母がそれを買うか盗むかしたのでない限り、彼女はユアンの母の仇であり、サイは彼の異母妹となる。
他に何の証拠も見つからず、その話は二人の間に留まっていた。トウの弱った視力は、彼の表情を汲み取れなかったらしい。嬉しげに頬を緩めたままである。
「ではハルワティアンにいる間に、母方の親戚が見出したのでしょう。よかった」
芯から聖職者であるトウは、偶然誕生に立ち会った彼女が同じ道を歩むことになり、その行く末を気に掛けていた。
体は衰えていても、記憶はしっかりしている。身動きのままならぬ状態であるからこそ、過去が鮮やかに蘇るのかもしれない。
「サイには会えるでしょうか?」
「南から順に布教している。彼女には、あなたの居場所を教えておく。いずれ来るだろう」
「間に合うとよいのですが」
トウは不吉な物言いをした。否定しようとするユアンを遮って続ける。
「私はもう長くありません。サイと会うことは、唯一絶対神に仕える者として、最期の務めでもあるのです」
「早目に来るよう、伝える」
話し疲れた様子のトウに暇を告げ、ユアンは部屋から出た。
サイの司教就任に、出自が関係しているのではないか、という説は、ユアンも考えたことである。
ただそれが真実か確かめる術もなく、仮に真実として、どこから調べがついたのか、については、考えてこなかった。
正直なところ、余り考えたくない問題であった。
トウは、母方の親戚に見出された、と考えていた。サイがカアンの紋章を持ちながら、長い間放置されてきた事を思えば、その考えには頷ける。
ユアンは、父が首飾りを贈った相手の出自を知らなかった。だから、サイの背後にいるかもしれないその相手が、サパの敵か味方か、測りようもなかった。
帰りの馬車の中、ユアンは景色も見ず、考えに沈んだ。
「最近お悩みのようですね」
クインが話しかけた。定時の祈祷で、修道士の他に、出席者はユアン一人であった。
彼は微笑した。リイの行方は一向に知れず、サパが狙われている話の真偽も掴めない。
確かに、悩みは多かった。
「私が赴任してから、一度も告解をなさいませんね。告解もまた、信者にとって大事な務めですよ」
クインは対抗するように、殊更笑顔を作って見せた。
ユアンも告解をしたいのはやまやまである。しかし、当の相手に疑いを打ち明ける訳にはいかない。
トウと異なり、彼は法王のために躊躇わず告解の秘密を犯すだろう。
法王は、唯一絶対神に最も近い存在とされる。その意に沿うならば、聖職者が信者との取り決めを破っても罪に問われない。
何故なら、聖職者は信者よりも上位にあるからである。知られざるワ教の法則である。
ハルワに長く住み、大貴族カアンの長子として教育を受けたユアンには、ハルワティアンの論理が体に染み込んでいた。
「ご承知の通り、礼拝の時間を作るのが精一杯だ」
「まあ、そう言わず、まずおかけになってください」
クインは手近な席に腰を下ろし、着席を促した。法王から催促でもあったものか。
ユアンも側の席へ腰掛けた。片付けをしていた修道士たちは、すっかり姿を消していた。
「リイ様の行方は掴めませんか?」
前置きもなく、彼は用件を切り出した。考えるまでもなく、それが二人の間の最大の懸案だった。
「全く。イル教対策で大変な時に、ご心痛の種を増やし、法王にも申し訳なく思う」
「イル教対策には、ご協力をいただき、私どもも感謝しております。ところで」
クインは辺りを憚る様子を見せた。礼拝堂に人影はない。
「お気を悪くされるかもしれませんが、リイ様が既に亡くなられた、という可能性はございませんか?」
その可能性は、常にあった。
彼女の不在が発覚した直後、警備隊はまっ先に自殺、次に事故を疑い、周囲を捜索した。世間には、誘拐に失敗して殺された例もある。
どうやら脱走らしい、と判定された後も、慣れぬ道行きで落命した可能性を考慮し、身元不明の遺体を定期的に確認している。
「幸か不幸かわからぬが、彼女は生きていると思う」
話の方向が見えず、ユアンは控えめに答えた。生存を力説し、あらぬ疑いをかけられても面倒である。
彼の答えを聞いても、クインの表情は変わらない。
「このまま領主をお務めになられても、跡継ぎがいらっしゃらなければ、ユアン様もお寂しく、領民も先行きに不安を持つでしょう」
「心配はいらない。サパには、クィアン殿やソオン殿がおられる。二人とも、当地の事情には私以上に通じている。ヨオン殿もいる。彼は身を固めたばかりだが、そのうち跡継ぎに恵まれるだろう」
他の者、例えば法王が引き継ぐにしても、現在の状況の方が好ましかろう、とユアンは思ったが、口には出さなかった。
クインは探る目つきをした。
「リイ様が戻られても、恩赦はありませんよ」
「覚悟している。改めて私の責任を問われることもあろう」
彼の答えが意外であったのか、クインがやや慌てた。
「いや。リイ様が逃走した責任を、ユアン様が負うことはないでしょう。それにしても、仰るようにサパには優秀な方々が幾人もいらっしゃるとはいえ、領主の交代が頻繁となれば、どうしても政情は不安定になります」
「やはり、故ライ様の婿殿であるユアン様の血筋で続くことが、領民の動揺も最も少ないところでしょう。そこで、差し出がましくはありますが、このままリイ様が見つからない場合、特例として法王に再婚の許可を願い出てはいかがでしょうか」
「近隣でも、ジュウ国に先例があります。確か、妻が行方不明となって五年を過ぎた貴族でした。今回の件でも、許可が下りる可能性は大いにあります。一つお考えいただきたいものです」
「お気遣いはありがたいが、私自身にその気がない」
ユアンは困惑して言った。クインにも一理あるが、彼自身はソオンに譲れば大過ないと考えていた。
息子のヨオンも、そのつもりで結婚を急いだに違いない。
法王を含め、サパの領主候補は全てワ教信者である。クインにとっては、次の領主が誰であっても構わない筈である。彼の意図が読めない。
「今すぐとは申しません。私は、サパ領主の司祭として、サパの将来を思って申し上げているのです。時には私情を捨てることが、唯一絶対神の御心にも適う行いとなります」
彼の戸惑いをよそに、クインは最後まで生真面目な表情を保った。
ユアンが自ら後継者を作ると認められれば、法王がサパに付け入る隙を見出すのは難しくなる。法王の意を受けて動くと思われる彼が、自ら不利な提案をするであろうか。
すると国王の話は偽りで、父の話こそが真なのか。
国王が、サパに法王を追い込むために活動する様子は見られない一方、サパ領内には怪しい動きが確かにあった。
あるいは、いずれの説も間違っており、ユアンは重大な見落としをしているのかもしれなかった。
ライが存命であれば、あるいはリイが健在でいてくれたら、とユアンは思わずにいられなかった。




