ユアン 夫の勘
近頃話題のイル教徒について、これまでユアンはほとんど知識を持たなかった。
彼自身はワ教の信者である。他の宗教には、教養程度の関心しかない。
異端者を出した家としても、異教に過度の興味を示すのは危険であった。
それに治安に害をなさない限り、異教徒という理由で、特定の領民を排斥することはできない。
ユアンは当初、イル教徒改宗を、法王がサパに関わる口実と考えていた。
ここへ来て、どうやらワ教側が各地へ司教を派遣したのは、真実らしいと知った。彼はアン地方で、布教するワ教の司教を偶然目撃したのだった。
法王が、城の一部を供するよう求めたのも、事実である。
それほど深刻な相手であれば、領主としても実態を把握したい。
ワ教への協力という目的にも適い、あわよくば法王に恩を売れる。
そこでユアンは、サイを執務室へ呼び出した。予め用向きを伝えさせたので、彼女は資料を携えて来室した。
「毎日お忙しそうですね。何か不便はありませんか?」
「いいえ。おかげさまで、何不自由なく過ごしております」
サイはユアンを真っ直ぐに見て答えた。彼は筆記具を揃えるふりをして、視線を落とした。
「今日お呼び立てしたのは、領主として、イル教の実態を把握したいからです。ご教示願えますか」
「かしこまりました」
彼女は彼の求めに応じ、説明した。
信者が目立つようになったのは、最近であること、不本意ながら、ワ教信者以外からはワ教イル派とも呼ばれていること、イルの意味は不明であること、集団を作らず個別に入信する信者が多いらしいこと、ワ教の教義と重なる点が多いと同時に、身分の上下を否定したり、性別の役割分担も認めないといった、真っ向から対立する点があることなど、サイは要領よく説明した。
資料に目を落とすことは、ほとんどなかった。
「中でも、洗礼や洗礼前の子どもに対する考え方の違いが目立ちます。女性のワ教信者が、この点に共鳴してイル教徒となった例を、しばしば見ました」
「ほう。そうですか」
ユアンは表情を変えないよう苦心した。ペンを握る手に、力がこもる。
彼は、イル教の教義に聞き覚えがあった。サイの説明が進むにつれ、それが異端とされたリイの考えと似通っていることに気付いたのである。
洗礼と子どもの関係についての考えは、決定的だった。
改めて考えれば、イル教はリイの失踪後に初めて認知された宗教である。
イルとリイは音も似ており、彼女は未だに消息が知れない。
新興宗教の中枢が彼女であると仮定しても、今のところ矛盾は生じない。
問題は、この思いつきをサイに教えるべきか否かであった。
ワ教はイル教の撲滅を目指すようであるが、敵の影すら掴んでいない。
教祖に繋がる情報は、喉から手が出るほど欲しいだろう。
ユアンとしても、彼女の居所を探すため、ワ教の協力を得られる利点がある。
「以上です。何かご質問はございますか?」
サイが説明を終えてユアンを見た。
ない、と答えると、持っていた資料の一部を抜き取り、こちらへ差し出した。説明の内容をまとめたものであった。
「大変参考になりました。お忙しいところを、ありがとう」
「どういたしまして。お役に立てて、嬉しく思います」
サイは部屋を辞した。ユアンは彼女に考えを告げなかった。
まず、リイとイル教を関連付けるに足る証拠がなかった。
証拠は措くとして、異端者が脱走した上、異教徒を率いて法王に楯突けば、即刻死刑である。
治安の面から、国王も見逃せないであろう。
リイを脱走させたユアンも、責任を問われるのは必至である。
それこそ、法王がサパ地方を直轄領とする口実にされかねない。
何よりユアンには、彼女をワ教に突き出す覚悟ができていなかった。ワ教信者としては当然の義務、露見した時の危険を思えば、サパ領主としても妥当な判断である。
しかし、こうなる前に、夫として妻に手を尽くしたと言い切れない後ろめたさが、そのまま躊躇につながっていた。
ユアンはもう一度、リイの行方を自ら検討してみる必要を感じた。
ユアンはホン地区へ出かけることにした。リイを幽閉した、国境警備隊のある地区である。
正式な訪問の形を取ると人目を引くので、お忍びで出かけた。
途中、サパの町を通った。目的地は、市場へ向かう人の流れに逆らう方向にある。道行く人の顔が、よく見えた。
人びとに、領主一家を襲った不幸の影響は感じられなかった。皆、それぞれの生活に勤しんでいる。
ユアンは仄かに喜びを感じた。彼らが安定した生活を送っていれば、領主の心配事が一つ減るというものであった。
国境警備隊は、リイの脱走後、さすがに警備が厳しくなっていた。
お忍びのため、紋章のない馬車で到着したユアンは、敷地へ入る前に早速止められた。
以前には素通りできた正門の詰め所には兵士が立ち、ユアンの顔を確認しただけでは飽き足らず、領主の紋章を見せるまで解放してくれなかった。
本部の入り口でも同じ手続きが繰り返された。更に建物へ入ったところで、武器を預けるように言われた。
「私はサパ領主だが」
内心面白がりつつ、ユアンはわざと強面を作った。警備の強化を命じたのは、彼自身であった。
「規則ですので」
威圧を真に受けて顔をこわばらせながらも、若い兵士は譲らなかった。
そこへ隊長が駆け付けた。彼が部下を叱責しようとするのを、ユアンは危うく制止した。
「大変結構」
武器を差し出す領主の笑顔に、若い兵士は気を抜かれ、受け取る手が遅れた。ここぞとばかりに隊長が叱り飛ばし、堰き止められた鬱憤を解放した。
「急なお越しで満足な出迎えもできず、失礼致しました」
今の隊長は、城で近衛を務めた経歴を持つ。
事件後、反省を示す意味合いを兼ねて、領内の警備体制を大幅に見直した。国境警備隊の人員もかなり入れ替えた。
全体として、軍備は強化された。サパが狙われている、という噂を聞く前の話である。
結果として、偶然が幸運に作用したと言える。
「いや。よく訓練されている。感心した」
「ありがとうございます」
隊長室に通されたユアンは、来訪の目的を話した。リイの居所を掴むために、今一度、現場を確かめに来たのである。
彼はリイがいた部屋への案内を乞うた。隊長は快諾し、部下に案内役を呼ぶよう命じた。
「この辺り、見知らぬ人間が徘徊するようなことは、あるだろうか?」
案内役を待つ間に、ユアンが問うと、隊長はやや驚いたような反応を示した。
「お耳まで届いていらっしゃいませんか? 決して多数ではありませんが、時折捕まえますよ。私が赴任前に抱いた印象よりも多いですし、地元の者に聞いても昔より増えた、と言います」
「どのような人間が来るのか?」
ユアンは興味を示した。イル教徒か、サパを狙う法王の手先か、いずれかであろうと思われた。
問われた隊長は席を立って、部下に何かを命じた。
「浮浪者ですよ。ハルワやピセであぶれた者が、サパのような田舎ならどうにか暮らせるだろう、と思って流れ込んで来ているのです。中には、あの山を越えようとする輩もいて、時々放置したくなります。しかしながら、兵士の訓練にもなります」
部下が書類を持って来た。隊長が受け取ってユアンに渡す。
「浮浪者の調書です。大概まとめて送り返しますが、働く気があればサパの仲介人に渡すこともあります。送り返す費用もかかるので、これ以上増え続けるようなら、別の対策を考えなければならないでしょう」
隊長の予算増額要求を聞き流し、ユアンは書類を開いた。
いずれ彼の希望に添う形になろうとも、この場で安易な同意はできない。城にいた彼も、事情は了解しているとみえ、言い募りはしなかった。
調書はよくまとめられていた。無作為に手を止めたどの調書でも、彼らは浮浪者としか思われなかった。
サイの死んだ母親のように、本当の浮浪者も、中にはいるであろう。
浮浪者の真贋をふるいにかけるには、別の手段が必要であった。もし法王の手先が紛れ込んでいるとしたら、彼らは既にサパ領内で堂々と準備を進めていることになる。
手先がイル教徒でも、同じことである。隊長の言葉を思い返し、ユアンはぞっとした。
早急に手を打たねば、文字通りサパが乗っ取られる。
書類を返すと、隊長の合図ですぐに案内役が入ってきた。話が終わるまで外で待機していたらしい。
直接の担当ではないが、リイの逃走前から勤務していた者である。
隊長は当時の状況を直接知らないので、ユアンの問いに応じられるよう選ばれたのだ。
「こちらへどうぞ」
兵士はユアンの先に立って案内した。
リイの部屋は、同じ建物の最上階の端にあった。ユアンの命令により、現在も当時のまま残されており、最上階への出入り自体制限されていた。
今いるのは、彼と案内役と二人きりである。兵士は慣れた手つきで鍵を開けた。
報告書では合鍵が使われた形跡はないというが、合鍵が作られなかった、という証拠もない。
兵士が扉を開けると、中から閉め切った部屋独特の臭いが漂い出た。
ユアンは部屋へ足を踏み入れた。
徹底して捜索したであろう跡は、見事に片付けられていた。臭いと埃を除けば、いつでも住人を迎え入れる用意ができている。
本棚、文机、小椅子、肘掛け椅子、寝椅子、寝台、鏡台、衣装箪笥、風呂桶、便器。
狭い部屋一杯に、家具が配置されていた。
ユアンは部屋を一回りした。扉は、内側から開けることができない。
窓は二つある。いずれも格子が嵌っている。リイが最上階の窓から外へ出た、とは考えられない。
箪笥や本棚に仕掛けもなく、壁に破れもない。やはり、彼女は扉から逃げたのである。
恐らくは変装したであろう。でなければ、外へ出たところを目撃した誰かが、覚えている筈である。
そして、手引きした者がいた。
衣装は全て揃っていた。当時、警備隊から盗まれたと思われた制服などは、後に全ての行き先が判明した。それらにリイが使った形跡はなかった。
彼女は、外から持ち込まれた服を着て、逃走したのである。