ユアン 陰謀の気配
修道女から司教に出世しても、サイの印象は変わらなかった。
ユアンは、彼女と初めて対面した時を思い出した。あれからトウは引退し、ライは亡くなり、リウはほとんど寝たきりである。
リイは死産し、異端宣告を受けた挙げ句に行方不明である。ユアン自身は、領主の婿からサパ領主となった。
流れた歳月と、その間の環境の激変にも変わらない彼女の姿は、サパの純朴な領民を思わせた。
ユアンの脳裡には、国王と父カアンの言葉があった。サパ領主就任の挨拶に上京した際、彼は両者からそれぞれ異なる話を聞かされたのである。
現ハルワ国王は、ウェンという。嗣子はとうに結婚し子も儲けたのに、譲位などはなから頭にない。それだけの力を持った人物であった。
「この度は、ご苦労だった。予も昔リイ殿に会ったが、利発そうな娘だった。とてもあのような、大それた罪をしでかすとは、見えなかった。ユアン殿に累が及ばず、領主を継げたことで、カアン殿も胸を撫で下ろしたろう」
ウェンは祝辞もそこそこに、サパを見舞った災難に言い及んだ。後継者問題で内紛が起きれば、国政にも影響する。ユアンは頭を下げるしかなかった。
「だがな、それも罠だったかもしれないのだぞ」
急に王は声を潜め、側へ寄るよう手真似で示した。
「実はな、法王が、サパ地方の統治を望んでいる、という話がある」
ユアンの顔に浮かぶ疑問を読み取ったのだろう。王は首を振った。
「あんな辺鄙な土地を何で欲しがるのか、予にもさっぱり見当がつかない。ああ。これは失礼をした。もちろん、サパ地方は我がハルワ国の大切な領土だ。ところでユアン殿には、何か思い当たることが?」
口調と裏腹に真剣な王の眼差しを受け、ユアンは改めてサパの資源と産業について考えた。
言われたように、サパには、これという特産物がなかった。強いて挙げれば、食料である。
彼の言葉には、王も頷いた。
「そうだろう。だが、銀細工が優れている、と聞いた覚えがあるな。銀砂でも採れるのか?」
「いいえ。あれは、アン地方から材料を仕入れて作るのです」
「ああそう。とにかく、教会の動きには注意しなさい。気になることは、すぐ知らせるように。予もそのうち、サパを視察するかもしれない」
ウェンは彼の言を鵜呑みにせず、言外に調べよと仄めかした。
ハルワ滞在中、ユアンはカアンの屋敷に逗留した。
いつの間にか、室内装飾から庭の造作まで、建物以外、すっかり継母の好みに変わっていた。
口出しするつもりはないが、生家でありながら、他家に居候する気分となるのは、如何ともし難かった。
ユアンが国王からの警告を話すと、父は怪訝な顔をした。
「私が聞いたのは、ウェン王が法王をサパに閉じ込めたがっている、という話だ」
父によれば、国王は、ワ教の勢力が強くなり過ぎた、と考えている。
例えば異端狩りで見られるように、法王麾下の修道士が兵士のような活動を行う。それは国王が持つ軍事力と同様の価値がある。いずれ、国王の権限をも侵害しかねない。
辺境のサパに押し込めれば、万が一争う事態になっても、ハルワは時間を稼げる。都で睨み合うよりはましである。
真偽はわからぬままである。そしていずれの話が真実であっても、サパ地方の平和が脅かされることに、変わりはない。
就任早々、幸先の悪い報せであった。
ほどなく、ガル大聖堂の司祭が急死し、同時にガルの修道院長が引退を表明した。
新しく赴任したのは、それぞれハルワやピセから来たことになっているが、二人ともハルワティアンに長く在籍し、司教であってもおかしくない人物であった。
それだけならば、異端の罪で幽閉したリイの逃亡を警戒した、と考えることもできた。
今度は、異端改宗と称し、司教まで派遣してきたのである。その司教がサイなのだ。
法王の動向は、ウェン王の説を裏書きするように見える。
ユアンは、ハルワ生まれのハルワ育ちである。そこですら、女性の司教も、司祭も、見た事がなかった。
ワ教の教義でも、女性は男性より下に位置付けられる。身分の上下も厳格だ。教義に従えば、最初の女性司教は貴族から誕生するべきであった。
サイは、生まれながらの孤児である。それとも、彼女の出自が明らかになったのであろうか。
ユアンは、彼女が下げていた形見の首飾りを思い起こした。そこに刻まれた紋章が表す意味を、彼は知っている。
彼女が貴族の意向を受けて動くのか、法王の意を受けて動くのか、それとも権力とは無関係なのか、無口な彼女から探ることは難しかった。
加えて、他により怪しむべき人物が存在した。
司教補のシャオである。貴族の出の彼が、さほど歳の変わらない女性司教の下についている。
本来なら、シャオが司教、サイが付き添いを務めるのが通例である。彼女は名目上の任務を果たすための囮で、彼こそが真の任務の責任者と考えた方が、筋が通る。
彼は、リイの異端騒動をきっかけにハルワティアンから赴任したクインとも親しい仲だった。
シャオの動向には、注意する必要があった。
だから、法王からの協力要請は、渡りに船であった。
ハルワで聞いた噂は、大臣たちにも報せていない。
重臣ヨオンの妻は、クインと旧知の間柄である。意図せず利用されるかもしれない。
ユアンは一人で事に当たらねばならなかった。
サイたちが城へ引っ越して間もなく、ユアンはアン地方へ出張した。
アン地方はチュン海に面している。ハルワ国の海の玄関である。
多くの船舶が出入りする。一定以上の大きさを持つ船を港に繋留する場合、船主はアン領主に決められた金額を支払う。
サパ地方には海がなく、海洋を航行できる大きさの船が通れる河川もない。
しかし貴族たちは、サパでは手に入らない品を欲しがった。
自前で船を持てば、維持費が嵩む。
サパでは以前、領主が船を所有し、共同で品物を輸入していた。
それが城の礼拝堂改築の際、経費節減のため、船を処分した。
以後、欲しい品物がある時は、各自アン地方の商人と契約を結び輸入している。
わざわざ海路で取り寄せたい品物は滅多にないようで、特に不都合もなく現在に至る。
表向きは、船舶を用いた輸入契約条件に関する検討会、という事になっている。
改めてリイ探索に協力を依頼することが本来の目的であると、大臣たちは了解していた。
しかしユアンには、更に秘めた目的があった。
アン領主のシュイは、港町コンを見下ろす丘の上に屋敷を構えていた。サパ領主就任の挨拶に訪れて以来の再会である。
彼の執務室は、海を臨む明るく広々とした部屋であった。
「コンの岩は、今回ご覧になりませんね。何度でも見たがる客人がおられるものですから、念の為」
シュイは冗談めかして言ったが、リイと見た記憶が蘇り、ユアンの胸が微かに痛む。
アン領主は窓へ面した椅子へ誘い、腰を下ろした。部下は遠い壁際に立ち、大声で呼ばわらない限り、こちらの話す内容は聞き取れない。
彼は、ユアンの訪れた理由を、少なくとも一つは察していた。
「奥方の行方は、まだ掴めませんか」
港湾使用の資料の用意を部下に命じた後、殊更に笑顔を作って訊く。表情から話の内容を悟られないためである。
ユアンも笑顔で返した。
「いいえ。皆目分かりません」
当初は誘拐の線も考えた。しかし、犯人からの要求がなく、脱獄と結論付けた。
誘拐にしろ脱獄にしろ、理由を掴めば、居所を知る手がかりとなり得る。
ユアンは、リイの幽閉場所や城の居室を徹底的に探した。原因となりそうな物は、何も発見できなかった。
自身でも随分と考えたが、未だに確信できるほどの理由は思いつかない。
「お手数ですが、引き続きご協力をお願いします」
「当然です。隣人は助け合わねばなりません。それにしても、ユアン殿は次から次へと苦労を背負いますね」
シュイの言に、ユアンは真に苦笑した。彼が、法王や国王の狙いを知るとは思えなかった。
話が変わったついでに、彼は尋ねた。
「ところでシュイ殿は、ヨ教信者でありながら、ワ教信者のウェン王からも厚い信頼を得ておられます。是非とも秘訣を教わりたいものです」
法王や国王から領地を狙われている、とは言えない。シュイがくすくす笑った。
「厚い信頼など得られませんよ。互いの利害を一致させているだけです。私たちはアン地方を守るために、持てる力の全てを注いでいます。ワ教の国王が統治する国で他の宗教を信仰するのは、確かに有利とは言えません」
「細かい苦労を沢山しなければなりません。その代わり、大きな危険を避けられます。何事も一つに頼り過ぎると、それが崩れた時に、取り返しのつかない甚大な損害を被る危険が増えます」
シュイはにこにこと笑みを絶やさず、大胆な発言をした。仮にも、ワ教が滅びるかもしれない、と言ったのである。
法王の前であったら、異教徒でも、何らかの処分は免れまい。
「しかしながら、唯一で絶対の神を信じておられるならば、他の生き方を選択すること自体、難しいでしょうね」
彼はすぐに付け加えた。これもワ教のくびきから自由な身であるからこそ言えるのである。
悩むユアンには羨ましくもあったが、ワ教以外に救いを求める気持ちにもなれない。
領地を守るには、信じる神を裏切らねばならないのか。
「そういえば、近年金の流通が増えたように感じますが、お気付きですか?」
ユアンの笑顔が曇りつつあるのを気にしてか、シュイが話題を切り替えた。
「サパではアンに比べて人も物も出入りが少なく、見落としておりました」
彼は我に返って、笑顔を取り戻した。
「採掘量を増やしたとも、新たな金鉱を発見したとも聞かないのに、不思議なことです。経済を不安定にさせる動きは歓迎できません。もしも、そちらで原因がわかりましたら、教えてください」
「はい」
流通量が増えたことにすら気付かないのに、原因を究明できるとは、シュイも信じていまい。
つまりは、リイの探索に期待するな、という意味にも取れる。
心中とは裏腹に、彼は終始笑顔のまま、アン地方を後にした。