サイ 特別司教
サイは、目の前に居並ぶ人々を、順繰りに見つめた。
ワ教において、法王に次ぐ高位とされる大司教が、勢揃いしていた。
彼らのうち誰一人として、彼女と近しく言葉を交わした者はない。
定められた法衣が、彼らの身分を示していた。
計算された逆光により、彼女の位置から彼らの表情を読み取ることは、不可能であった。
大司教が並ぶ背後の一段高い場所に、紗で覆われた玉座があった。
そこに、法王が座している筈であった。光に射られた彼女にも、その人影は判別できた。
「これ、サイ修道女。返事をしなさい」
最も近い席にあった大司教が、促した。大司教は、誰も彼も年老いていた。
俗世にあらば、サイと同じ年頃の孫、更にひ孫がいても、おかしくない。法王の顔は見えないが、彼女の蓄えた知識によれば、まず間違いなく大司教たちよりも年長であった。
「はい。唯一絶対神のお導きのままに、謹んで承ります」
サイの口が動いたのは、習慣によるものであった。
身寄りのない彼女は、生まれた時から命令に慣れていた。希望の披瀝も頼み事も命令も、彼女には等しく聞こえた。
それらに逆らうことが命を絶つに等しかった幼年時代から、修道女となり修行に励む現在まで、彼女の習慣は変わらなかった。
サイの返答を耳にした大司教たちからは、安堵の息が次々と漏れた。
「そうか。引き受けてくれるか」
「よかったよかった」
「若いのに、よく決心したものだ」
「困難な仕事になるぞ」
彼らは、答えを強いておきながら、承諾したサイに無責任な感想を放った。彼女は退出を促されるまで、黙して動かなかった。
評議室を出ると、修道女のシェンがいた。サイの顔を見て、気落ちと心配の入り交じった表情になった。修道女が上位の聖職者に近付いてはならない、という不文律は、古株の彼女には適用されないらしかった。
彼女が口を開いたのは、サイを招き入れた自室の扉を閉めた後である。
「どんなお話だったの?」
「特別司教に任命されることになりました」
「ああ」
薬草茶を入れるシェンの手が、一瞬だけ止まる。
「すごいわ。修道女が司教に任命されるのは、ワ教史上初めてのことよ。しかも、司祭も司教補も飛び越していきなり。同じ修道女として、サパ所縁の者として、二重に誇らしいことだわ」
修道女は修道院にいる限り、修道女以外の者にはなれなかった。神父にも司祭にも女性はいない。
司教補とは、司祭と司教の間の位である。主にハルワティアンで修行を積み、地方での経験が少ない修道士がなる。一見司教には足りない修行を補う制度のようであるが、実際には司教補を経験した聖職者の方が、位階を上るのが早い。
これもやはり、修道女から任命された例はない。修道女が得られる宗教上の最高位は、ハルワティアンの教職か、地方の副修道院長がせいぜいである。それも男性が多く、狭き門であった。
シェンもサイが初めてハルワティアンを訪れた時からの古参で、今は院の修道女をとりまとめる役にあるが、身分としては修道女のままである。
「はい。でも、特別司教ですから」
特別司教というのは、ある特定の任務を遂行するため、限定的に任じられる位である。任務完了後は、元の身分に戻る、と定められている。
サイはそうした地位があることを、此の度初めて知った。
「司教には変わりないでしょう。それだけ、唯一絶対神への帰依が認められたということ。きっと、あなたの異教研究が評価されたのよ。素直に喜びなさい」
シェンはサイに茶を差し出し、彼女と差し向かいに腰掛けた。
「はい。ありがとうございます。ただ、より司教にふさわしい方が、他に大勢いらっしゃる、と思うと心苦しく感じます」
サイはハルワティアンで時折、若い修道女に講義する機会を持ったが、正式の教職を任ぜられた訳ではなかった。
そのせいか、面と向かって棘のある言葉を投げつける者がいた。
聖職を志す人びとにおいて、シェンのように淡々と職務をこなす者は、案外多くなかった。
「妬気に駆られるほどに、神より遠ざかる」
教典の一節を誦し、シェンは器に口をつけた。煎じられた薬草の香りが、部屋に漂った。
「イル教徒を、相手にしなければならないのでしょう? サイさんが、大変な仕事を任されたのは、誰でもわかるわ。余計な心配より、任務を成し遂げることを考えた方がいいわよ」
「はい」
サイは薬草茶を飲んだ。舌に、ほんのりとした甘みが感じられた。
イル教とは、世間に流布する呼び名からワ教側が名付けたもので、宗教や教団の正式名称ではない。
彼らは新宗教としての名乗りを上げず、従って組織の大きさも不明であった。
ワ教の聖職者以外の人びとは、ワ教イル派と呼んでいる。
まずそれが、法王の注意を惹いた。
ワ教に分派は存在しない。唯一絶対神に最も近い法王を頂点とし、上から下まで樅の木のように一本の幹が立つ。下へ行くほど枝葉は増えても、元を辿れば全てが一に収斂される。
にもかかわらず、何故、ワ教の分派と目されるのか。
ワ教との共通点が、幾つもあることが原因である。それも、ワ教から剽窃したとしか考えられない内容であった。
これまでに、唯一絶対神を崇め、法王の権威を認める点などが、確認されていた。
一方で、ワ教とは相容れない考えも主張する。
人は生まれながらにして既に人であり、教会の洗礼は儀式に過ぎない。唯一絶対神への距離は、年齢や性別によって差別されず、ただ信仰心のみによって計られる。
こうした主張を聞いて、民衆がワ教の一派と誤解するのも、無理からぬ話であった。
発生時期や、イルの現す意味も不明である。
急速に支持を広げたのは、ここ一年ばかりのことと見られた。
一般に、天変地異などの災厄が起きた年には、新しい信仰が出現しやすい。
過去には、迷信に基づくもの、神の啓示を受けたと称する人物の出現例がある。
これらは、ある日突然、爆発的に流行し、大抵はたちまち終息する。
流行が一段落した後も生き残り、新たな宗教として認知されるのは、ごく僅かである。
従って、既存の宗教に対する影響力は皆無である。
イル教の動きは、これら泡沫宗教と異なっていた。
ここ数年にわたり、ハルワ国内及び近隣諸国では、さしたる災害は起こらなかった。
イル教信者は、流行の熱狂によらず、日常の平静の中で信仰を獲得していた。
しかも、真面目なワ教信者であった者の転向が、多く見られた。
イル教は、明らかにワ教の教義を下敷きにしている。
ワ教信者に警戒心を抱かせず、いつの間にかイル教に取り込んでしまう。
ヨ教信者がイル教へ鞍替えするのは、容認できる。そこから、ワ教の信仰に目覚めるかもしれない。
ところが、目につくのは、ワ教信者の相次ぐ宗旨替えであった。
抗議をしようにも、指導者が見つからない。
イル教がワ教を標的に信者を奪っている、という見方は、あながち被害妄想とは言えないのである。
ワ教がイル教を特に敵視するに至ったのは、こうした事情によるものであった。
法王は各地に司教を派遣し、正統なワ教の布教に努めるとともに、イル教の撲滅を決めた。
ところが、派遣に必要な司教の数が足りず、特別司教を仕立てる仕儀となった。
そして、サイも司教に任命されたのである。
特別司教となったサイには、任務を補佐するために人がつけられた。
司教補のシャオと修道士のマオである。シャオはハルワの貴族の出で、司教補に任命されたばかり。マオは、ピセ地方の出身であった。
二人とも、幸いにサイとさして変わらぬ年齢で、サイを尊重してくれた。
修道女の中で暮らしていた彼女が、限られた期間と目的のためとはいえ、男性を使う側に立つのは、非常に気の重いことであった。
日頃、サイの身の回りの世話を担当してきたヤンを同行できることが、せめてもの慰めであった。
シャオやマオにもそれぞれお伴がつき、一行は総勢十人に上った。
一行は指示に従って、まずサパ地方へ向かった。
サパと聞けば、サイはまっ先にトウ司祭を思い浮かべた。サイの誕生に立ち会い、その後も折に触れて手を差し伸べてくれた恩人である。
城の礼拝堂で説教する姿が、まざまざと浮かんだ。続いて、ソオンの屋敷にあったダン=トンの絵を思い出した。
ハルワティアンに異動した後、サイは改めて唯一絶対神の肖像画やダン=トンの業績を調べたが、あの絵に関する記述を、どこにも見つけられなかった。
従って、絵を見るには、屋敷を訪れるしかない。
サイにとって、トウ司祭やダン=トンの絵の思い出は、彼女の人生における憩いであった。それらに再会できるかもしれない、という希望が、彼女に力を与えた。
ハルワを出た一行は、ピセ地方に入った。
ピセには、ワ教教会を含めて様々な宗教の施設が点在する。それらは、人びとの住まいに取り囲まれるようにして建ち、いずれも規模が小さい。
建物の大きさを埋め合わせるように、数だけは多かった。
少し歩けば教会に当たる。これぞイル教、と思われる建物は、見出せなかった。尤も、イル教の性質を考えると、独自に教会を持たない可能性もあった。
宿泊可能な大きな修道院もなく、一行はピセの貴族であるニャンの館に宿を求めた。
彼は、代々ワ教信者の家柄でもある。歴史ある貴族の館もまた、土地の制約を免れ得なかった。
広い庭は望むべくもない。代わりに、趣向を凝らし見栄えのする工夫がなされており、建物には細かい箇所まで手の込んだ装飾が施されていた。
館の内部は、狭い空間に豪華な作品を詰め込む装飾が目立ち、独自の迫力があった。
食堂では、先客と同席した。カオ司教は、館に拠点を置き、ピセ地方を中心に布教活動を行っていた。
ピセには他にも、法王の命により、ハルワから通う形で布教する司教が幾人もいた。
カオ司教は、彼らの取りまとめ役を務めていた。
ニャンの館では食事もまた、贅を凝らした料理が振る舞われた。
サイは、初めて口にする複雑な香味に、美味しさよりも戸惑いを感じた。どの品も、一度食べたぐらいでは再現が難しいほど、様々な香辛料が使われていた。