リイ 不穏な示唆
食卓には、二人分の席が設えてあった。
磨き上げられた銀食器が、ろうそくの光を受けて煌めく。
暗い船室での食事に慣れかけたリイには、幻想じみて見えた。
前菜からチーズや肉が盛りだくさんであった。
スープにも野菜や肉がごろごろ入り、パンにまで肉がぎっしり詰まっていた。
そのパンはふかふかと柔らかく、パンの噛み過ぎで顎が凝っていたリイには、歯がなくとも食べられそうに思えた。
味付けは濃厚で、酒も芳醇であった。葡萄酒とは別物である。
喉が焼けるような強さで、濃い味付けの料理によく合った。
ドゥオ国は合議制で、ツァオは畜産を担当する貴族である。
ツァオは、水を飲むように次々とグラスを干した。リイもつられて飲んだ。
最後は、甘い生クリームを冷やして練り上げた菓子に木の実と栗クリームを添えた品で、これもまた濃厚な味であった。部屋の中は、暑いくらいに温まっていた。菓子の冷たさは、舌に心地よかった。
「さて。リイ殿はお疲れでしょう。お話は明日ゆっくりするとして、今夜はお休みなさるとよいでしょう」
応接室へ戻ったところで、ツァオが言った。食事の間中、彼はリイの死産から異端審問、ライの死といった身の上話に水を向け、自らは聞き手に終始した。
他方で質問を巧みにかわし、彼女は未だにここへ来た理由を知らなかった。
彼女をここへ導いたジンは、姿を消していた。
「ご配慮いただき、ありがとうございます。こちらへ参ります前に、充分休みました。わたくしがはるばるこちらまで伺いましたのは、サパに迫る危機がどのようなものか知るためです。お話しくださるまで、とても眠ることなどできません」
本当のところ、強すぎる酒のせいで、リイは頭痛を感じ始めていた。
「わかりました」
ツァオは承諾すると、徐に壁に沿って歩き出した。彼は扉を開け閉めしたり、分厚いカーテンをめくりなどして、遂に部屋を一周した。
彼女は、じりじりしながら待った。
「まず御了解いただきたいのは、これからお話しすることに、明確な証拠が存在しないということです。しかし、様々な状況から、私は確信しております」
ツァオはリイにソファを勧めると、向かい合って座った。
彼女は手で先を促した。頷くと、頭痛が悪化しそうだった。
「ワ教の法王が、サパ地方の領有を画策する動きがあります」
「まさか。理由がないでしょう」
リイが目眩を覚えたのは、酒のせいばかりではなかった。
「ワ教は、ハルワ国の都を拠点として発展を遂げました。この宗教は、法王を頂点とした厳然たる階級を守ることが、信仰の大きな柱です。出世と信仰心が比例する、と言っても良いでしょう」
「ところでハルワ国は、ここ数世代に内紛もなく、近隣諸国との間にも平和が続いています。人びとの寿命も延びました。その結果、聖職者が増え過ぎた。手持ちの土地から上がる収益は彼らを養うに足りず、信者の寄附で賄うにも、限界があります。収益を増やすには、新たな土地を得るのが手っ取り早い」
ここへ来て、ワ教の講義を聞かされるとは思わなかった。ドゥオ国では、ドゥオ国教が信仰されており、ワ教信者はほとんど存在しないとされている。
「ハルワティアンの内情が苦しいのは理解できました。それにしても、何故サパが出てくるのか、わかりません。それこそ、どこか未開の地を探検させればよいではありませんか。土地を奪うとしても、ハルワと隣接するピセやロボを取り込む方が簡単でしょうに」
リイは迫り上がる胸焼けと闘いながら、質問した。あの強い酒が遂に、濃厚な料理に膝を屈したようであった。
「私の知る限り、未開の地というものは、存在しません。どの土地も、誰かが所有しています。他国の土地が欲しければ、戦争を起こすことになります。大義名分のない戦を支持する国は、皆無です。土地を欲して戦争を起こせば、ワ教の威信は地に落ちます。ワ教の聖地を看板に掲げる小国ハルワ国の存続も危うい。彼らは、あくまでも平和裡に土地を増やしたいのです」
「ハルワと接するピセ地方は開発が進み過ぎました。ワ教の入り込む余地はありません。そしてジュウ国に隣接するロポ地方には炭坑があります。この地の支配権を一領主からワ教法王に変えることは、ハルワ国王も隣国も望まないでしょう。一方、サパ地方は我がドゥオ国と境を接しているとはいえ、あの険しい山々です。容易に越えられません。また、辺境であるが故に、これといった特産物がない」
「裏返せば、開発の余地が多いと言えます。加えて、人口に比して立派過ぎるほど大きなワ教の教会が三つも存在し、信仰の下地が充分にあります。ここの住民ならば、法王の直轄領となることに抵抗は少ない。城の礼拝堂も実に素晴らしいそうではありませんか。高位の聖職者の居城としても、お誂え向きです。しかも、ハルワ国内で唯一ワ教の勢力が弱い、アン地方にも接しています。この地における地盤を確立することが、長年にわたるワ教の課題であるのは、リイ殿もご存知でしょう?」
「でも、国王が許さないわ」
ツァオの話は、如何せん長過ぎた。
隣国の貴族がハルワ国の現状に大層詳しいことに感心しつつも、酔いの回った頭と胸焼けを抱えては、まともな反論もできなかった。
「収益を増やしたいのは、ハルワ国王も同じです。ただし、収入さえ確保できれば、土地の所有に必ずしもこだわりはしません。金でも埋まっていれば別ですが。サパ地方ならば、法王直轄の方が増収を見込め、王にも都合がよい。王が欲しいのは、アン地方です」
「ここは外海とつながり、国防上も経済上も重要な拠点であるにもかかわらず、王の臣下ではなく商人が治めています。しかも彼らはヨ教信者です。少なくともワ教信者が治めるようになれば、意を通しやすくなる、とハルワ国王は考えているのでしょう。そのための布石としても、隣接するサパ地方がワ教の法王の手に渡ることは好ましいのです。恐らく両者は今後、サパ地方とアン地方についての協定を結ぶでしょう」
リイの問いに、ツァオは充分過ぎるほど丁寧に回答した。リイの集中力が途切れた。彼女は視線をさまよわせ、手の届く場所に水差しを見つけた。早速グラスに注いで飲み干し、口の中が乾いていたことに気付いた。
「何故、ツァオ殿がそれをわたくしに教えるのですか?」
ツァオは破顔した。リイより遥かに大量の酒を飲んだのに、彼の顔も態度も、食事前とまるで変わらない。胸焼けも感じていない様子である。
「単なる好意、と言っても信じないでしょうね。当然、我が国の利害に関わるからです。いくら険しい山岳に遮られているとて、隣接地の統治者がワ教信者からワ教の法王に交替するのは、見逃せないほど重大な変化です。法王は、他教徒に対して、リイ殿ほどには寛容になれないでしょう」
「大量の難民が発生します。ヨ教信者を始め多くはアン地方へ流れ込むでしょうが、全員を受け入れる余地はないと思います。残念ながら、我が国にも難民の受け入れ体制が整っているとは言い難い。我々の信仰するドゥオ国教は、ワ教よりよほど内心の自由を認めています。そして近い将来、法王が信仰を通じて我が国の体制を脅かすという予測も、現実味を帯びる訳です」
リイの解釈では、ドゥオ国教は国の体制そのものであり、宗教と位置づけるには抵抗があった。しかし今は、そこにこだわっている場合ではない。
「法王と国王が本気でサパとアンを領したいならば、ワ教信者としても、王の臣下としても逆らうことはできません。その上、わたくしは異端と断罪され、領主になる芽は潰えました。領主に直接お話しくだされば、より有効な手段を編み出せるのではありませんか」
「ライ殿には、よい折りがあったので、お話ししましたよ。お父上は生前、ワ教か国王の勢力を弱めるような手立てを講じられたのではありませんか?」
ツァオの言葉に、リイは、はっとした。かつて城の礼拝堂を建て直したのは、ライや大臣たちが彼の話に信憑性を認めて、ガル大聖堂の権勢を弱め、ひいては法王の影響を薄めるためではなかったか、と思いついたのである。
「異教徒の我々が正面から動けば、相手に攻撃の口実を与えてしまいます。それにユアン殿はハルワ出身です。既に、法王か国王に加担しているかもしれないと思いました。リイ殿が急に異端扱いされたのも、彼が地盤を固めたと確信したからではないでしょうか」
彼は次から次へと意外な話を持ち出して、リイに考える暇を与えなかった。
ユアンが裏切り者かもしれないという説は、彼女に衝撃を与えた。
考えもしなかった。
しかし、一旦考え始めると、納得のいくような気もした。
リイが異端を認めるきっかけとなったリンの存在。彼女が寝言で口走ったとすれば、それを聞く機会が最も多くあったのは、夫のユアンであった。
否定したかったが、彼女が重い体を動かすより先に、彼が身を乗り出した。急に二人の間に濃密な何かが入り込んだように感じられ、彼女は息苦しくなった。
「わたくしに、何ができるというのですか?」
「そこが問題です。あなたがサパ地方の統治権を取り戻し、ワ教法王にもハルワ国王にも強い姿勢で臨めれば簡単ですが、それが困難な上に、相手は強大です。私も、戦さは避けたい。戦争は土地も人心も荒廃させます。荒れたそれらを回復する手間も考えれば、戦争とは時間と資力の無駄遣いです。残る方法は一つ。サパ地方を手に入れなければならない理由を失わせることです。例えば、ハルワの聖職者を減らすような事態を起こせれば、法王も急いで新たな土地を求める必要がなくなります。あなたは、サパ地方の正当な後継者です。領民を救う義務があります」
彼の顔から笑みが消え、息苦しさがますます強まった。彼女は返事をするにも力を振り絞らねばならなかった。
「考えさせてください」
「あまり時間はありませんよ」
ツァオの話は、リイの予想以上に厄介だった。
内容をまとめようとするだけでも、頭痛が酷くなった。
彼女は漸くのことでソファから立ち上がり、召使いに部屋へ案内された。
寝室までの道のりは遠く、屋敷の広さが恨めしかった。
辿り着いた部屋には陶製の立派なトイレがあり、湯気の立つ風呂も用意されていたが、リイは喜ぶ気力をも使い果たしていた。
彼女は召使いを下がらせると、衣服を脱ぐ手間さえ惜しみ、寝台へ倒れ込んだ。