リイ 隣国
ジンの言われるままに出てきたものの、リイに具体的な考えはなかった。
今になって思い起こせば、そもそも何故出奔を決めたのかすら、曖昧であった。
異端審問以来、リイはまともに眠ったことがなかった。
この旅で、倒れるまで体を動かした後、結果的に十分な睡眠を取ることになった。食事についても、同様である。
食欲がないまま、用意された食事に手をつけない生活を続けていたのが、逃亡によって体力を使い、空腹を感じるようになったのだ。
体に必要な滋養と睡眠を得たことで、リイの頭から、靄が薄れたようだった。
部屋を勝手に抜け出したのは、早まったかもしれない。書き置きぐらい残しておけばよかった。
それにしても、ジンは彼女をどこへ連れて行くつもりだろうか。
「食わねえのか」
リイの視線に気付いたジンが尋ねた。彼女が記憶を反芻する間に、彼はあの代物を腹へ納めてしまったらしい。心なしか、彼女の手つかずのぼろ鞠を物欲しげに見ているような気がする。
「水が欲しいの。食欲ないから、それ食べてもいいわ」
「そうか。ありがとよ。俺も今はいらないから、しまっておくぜ。また腹が減ることもあらあな」
ジンはぼろ鞠と引き換えに、水筒を取り出した。グラスを待ったが一向差し出す様子がないので、リイは仕方なく筒に直接口をつけて飲んだ。水筒を返すと、彼が口をつけて残りの水を飲んだ。
彼女は上陸するまで喉が渇かないよう、祈った。
「わたくしたちは、どこへ行くの?」
「思いっきり飛ばしているから、あと三回か四回も眠ったら着くだろう」
リイはぎょっとした。
「そんなにかかるの? トイレやお風呂はどこにあるの?」
「トイレはそこ。風呂に入らなくたって、人間死にやしねえ。王様じゃあるめえし、こんな船に風呂なんかねえよ」
ジンが指したトイレは、ただの壷だった。仕切りも何もない。
大波で船が傾いたら、中身がばらまかれるのではないかと想像し、彼女は目眩がした。
騙された、大変なことをしでかした、という思いが湧き上がる。相次ぐ不幸に気落ちしたところへつけ込まれた。しかし逃げようにも、船の上では逃げ場がない。
海へ飛び込んだとしても、陸まで泳ぎつける保証はない。
「なあ、あんた。玉座にふんぞり返ってさえいれば何でもできるってな考えは、間違いもいいところで、パンでも服でも、手足を使って作る人間がいるから食ったり着たりできるんだぜ。あんたのところの立派な礼拝堂だって、俺みたいな奴が汗水垂らして一つ一つ石を積み上げなけりゃあ、今でもぼろいまんまだろ」
「それで」
急に説教臭い話を持ち出したジンを、リイは改めて見つめた。
彼はそれまで彼女を観察して、気持ちの変化に気付いたらしかった。彼女の視線を受け、僅かに視線をずらしたが、顔を背けはしなかった。
「あんたの気が変わって戻りたくなったんなら、戻りゃいい。綺麗な服着て、旨い物食って、サパが滅びるのを眺めていりゃあいい。決めるのはあんただ」
思いのほか穏やかな話しぶりを聞くうちに、彼女の心は落ち着きを取り戻した。
このまま戻ったところで、脱走の汚名を着せられるばかりである。
誰にも知られずに、リイを脱出させたジンの腕前は、相当なものだ。彼の存在を認めてもらえるかも怪しいが、もし信じてもらえたとしても、みすみす縄にかかるような人間ではない。
どうせなら、サパに迫る危機が本当か否か、確かめてからの方が、幾分ましである。
「さっきのあれ、食べるわ」
言葉にした途端、リイは本当に空腹を覚えた。ジンはむすっとした顔つきで、先ほどのぼろ鞠を取り出した。
「そうか。腹ごしらえは大事だからな」
受け取った物は、よく噛んでみるとパンだった。見た目からして城で供される品とはまるで別物であったが、新種の食べ物と思えば、空腹の身にはそれなりに味わい深かった。
船が接岸したのは、見知らぬ入り江であった。リイは目を覚ます度に、寒さが増すように感じていたが、船外へ出てたちまち船内が恋しくなった。
上陸しても、寒風に晒されることには変わりなかった。そこには港の賑わいも、生活感も何もなかった。
ただ一つ、ぽつねんと地味な馬車が待っていた。
馬車から出てきた無愛想な男が、携えた毛皮の外套をリイに差し出した。
ドゥオ国産の上質で希少な種類の毛皮であった。
男はまた、船長に金袋を渡した。受け取った船長は、ジンと簡単に挨拶を交わすと船へ戻った。
ジンは、リイと共に後へ残った。船はすぐに出帆した。船が動き出すや否や、男が声をかけた。
「こちらも出発しましょう」
意外にも、上品な口調であった。
地味な馬車の内側は厚い布張りで、座席にはやはり毛皮の敷物があった。窓ガラスは寒風を通さず、厚手のカーテンまで下がっていた。
毛皮にくるまり身の温まったリイは、男に話しかけた。
「どちらへ案内してくださるの?」
「着いてみなけりゃ、わからんだろ」
答えたのはジンだった。無愛想な男は無言のまま、答える気もなさそうである。
船旅の後では、馬車の揺れが馴染み深く感じられた。
リイが景色を見ようとカーテンに手を伸ばすと、男が素早く手で制した。彼女は再び試みなかった。ちらりと見えた限りでは、人気のない山道を走っているようであった。
足元が固い地面である、と思うだけで安心した。逃げようと思えばいつでも逃げられる。
整った蹄の音、規則正しく車輪の回る音を耳に、箱の中では大人三人が、顔を突き合わせて沈黙の競り合いを続けるのであった。
リイは眠気を催した。金具の触れ合う音が、いつしかガル大聖堂の司祭の説教に変わった。最後に彼の説教を聞いたのは、いつのことだったか。
リイは、はっと目を覚ました。どのくらい眠ったか、ジンも男も、寸分違わぬ姿勢で沈黙を守っていた。
車内の温度が高すぎるような気がして、彼女は半ば無意識にカーテンへ手をかけた。
今度は、男も制止しなかった。窓は白く曇っていた。手で擦ると、白黒からなる景色が出現した。
「これ、何かしら?」
「雪。あんた知らねえのか」
やはり答えたのは、ジンだった。リイとて雪ぐらい知っていた。これほど大量の雪を見るのが初めてだっただけである。
道端に積もるばかりでなく、枝と思しき部分や幹にも雪が付き、まるで別の物体に見える。
寒いのも道理であった。目を凝らして観察するうちに、林の中を進んでいる、と見当をつけた。
整然と並び立つ木々の列の間にも、真っ直ぐな道にも、ひと気はまるきり感じられない。
馬車が向きを変えた。宮殿とも呼び得る豪壮な建物が目に飛び込んだ。
屋根の上も、壁も雪で覆われていた。パッと見ただけでも、サパの貴族の屋敷より大きいことがわかる。桁違いであった。
鎧戸で覆われた窓の隙間から、細い光がいく筋も流れ出ている。大量の雪にこぼれ落ちる光は、とても暖かそうに見えた。
これまで通った林の道は、既に敷地の内であったらしい。建物にふさわしく、敷地もまた広大であった。
馬車が屋根付きの玄関に止まると同時に、重厚な扉が開き、召使いが綺麗に列をなして迎え出た。
馬車から建物へ入る僅かな間に、リイは外の冷気を存分に味わった。顔がピリピリと痛い。息まで凍りそうだった。
建物の内は、期待に違わず暖かかった。そして、凝った内装とあちこちに飾られた美術品がリイの目を射た。
ハルワ国王の居城に匹敵する豪華さに、しばしリイは状況を忘れて見入った。
外套を預けて我に返ると、無愛想な男もジンも見当たらない。
リイは一人応接間に案内された。部屋にも誰もいない。
ここにもまた上質な毛皮が、ふんだんにあしらわれている。内装の豪華さも、美術品の数も同様である。
静かな建物であった。部屋の外からも、人の気配が感じられない。暖炉の薪がぱちぱちはぜる音が、ひどく大きく聞こえた。
湧き上がる不安を顔に出さないよう努めつつ、勢いよく燃える炎を眺めていると、再び扉が開いた。
「これは凛々しいことだ。あなたは、男に生まれてもよかったのに」
外套を見たときから予想はしていた。リイは、相手の顔を見て確信した。
リイが到着したのはドゥオ国であった。
ハルワの北方に位置するドゥオ国は、サパと国境を接している。厳しい気候と聞いてはいたものの、実際目にした迫力は想像以上だった。
あの険しい山々を境にして、こうも異なるものか、彼女は改めて、サパの温暖な気候を有り難く思った。
「ツァオ殿、ご無沙汰しております。ご健勝にいらっしゃるようで、何よりです」
「リイ殿は痩せましたね。ご難続きの上に慣れぬ旅で、さぞかし疲れたでしょう」
ツァオは何気ない態度でリイを迎えた。
彼はドゥオ国の貴族で、サパを訪れたことがある。亡きライやリイとも顔を合わせていた。
状況からして彼女の身に起きた事柄もここへ来た経緯も承知の筈であるが、彼はそれらがもたらす深刻さを微塵も感じさせなかった。
「外は随分寒うございましたが、家族の皆様は如何お過ごしでしょうか?」
「妻子は避寒にでかけております。地元の者でも、この寒さは辛く感じます」
一別以来、彼は妻を娶り子までなしていた。
リイも夫を迎えはしたが、子は得られなかった。同じ歳月を経た互いの境遇の差に、彼女は物思いに沈みかけた。
三たび、今度は別の扉が開いた。
「ご主人様、食事の支度が整いました」
ツァオは召使いに頷くと、彼女に微笑みかけた。
「では、続きはあちらにて話しましょう。美味しい食事を用意しました。長旅の疲れを癒してください」