リイ 異端審問会
事態は、ユアンの予告通りに推移した。
ほどなくして、リイの異端審問会を開くため、ハルワティアンから司教たちが派遣されるとの報が、ライの元へもたらされた。
その動きの早さから考えるに、ガル修道院長は、領主と法王へ同時に投書したものらしかった。
ユアンはガルの動きを逐一ライに報告していたが、ライはリウにその事実を伏せていた。
妻が、日頃から修道院へ慈善活動に赴いていたことを、考慮したのである。
それに加えて、事態を楽観視していた。
まさか、領主の娘、しかも次期領主と決まった人物に対し、審問会が開かれるとは、思ってもみなかった。
ここに至って初めて事情を知らされたリウは、衝撃のあまり、その場に卒倒したのである。
母の心配を鎮めるためにも、自らの潔白を証明するためにも、リイはワ教の教義を改めて学び直すことにした。
指導役は、トウ司祭が引き受けてくれた。司祭は、日課の他は、食事の時間も惜しんでリイの学びに付き添った。
この頃には、城外からの礼拝客はなく、名実共に領主一家の教会となっていた。
毎日のように通い詰めていたヨオンも、いつの間にか足が途絶えていた。
トウ司祭の教え方は丁寧であった。
そうして学ぶ教義は、いちいち理に適っており、改めてリイにワ教信者の自覚を促した。
問題は、ハルワティアンが何をもってリイを異端と断じたのか、はっきりしないことだった。
いくら学び直しても、自分が骨の髄までワ教信者である、と再確認するばかりである。
にも関わらず、ハルワティアンは審問会の開催を必要と判断したのである。
ガル修道院長は、領主宛と法王宛の手紙で、随分と差をつけたようであった。
「それについては、ユアン様も随分と手を尽くされたようですが、厳重に秘されておるようです」
愚痴をこぼしたリイに、トウ司祭は同情的だった。
「私が見る限り、リイ様は立派なワ教信者であらせられます。後は、唯一絶対神のご判断に委ねるしかありません」
司祭はその上で、異端審問会の想定問答をも作成してくれた。問題が明かされない中、手探りの状態である。
「気休め程度です。最後は、リイ様のお心にかかっています」
不安を抱えるリイに、司祭の心遣いは嬉しかった。教えぶりも人格も、ガルの修道院長より、よほど優れている。
リイは、心の中で皮肉った。
審問会自体は、さほど珍しくもない。
サパ領においても、数年に一度ぐらいは開かれる。
大抵は、寄付金の使い込みなど、聖職者らしからぬ振る舞いを咎めるためである。審問自体非公開の事も多い。
ただ、聖職から追放されると、その事由と共に教会の入り口へ張り出されるため、領民の知るところとなる。
慣例的に、領主へも報告が届けられていた。
異端と正統の争いは、ワ教成立から勢力拡大までの初期に集中しており、近年では聞いたことがない。
ハルワ国では、国王も領主もワ教信者が圧倒的多数を占めるものの、正式に国教と定めてはいなかった。
国民の信教は自由である。そして、世の中には様々な宗教が存在している。
ワ教の考えが合わなければ、宗旨替えをすれば良いだけだ。教会は、無理に引き留めはしない。
従って、異端は存在し得ない、というのが、ワ教の立場である。
そのため、結果としてワ教は、異端に厳しい態度をとることになった。
異端者が出た場合、裏切り者は唯一絶対神に代わって教会が厳重に罰する。それにより、信者の信仰心と結束を高めるのである。
審問を非公開としたいライの要請を、ハルワティアンが退けたのも、前例に則ったまでである。
ただ、教会が課すことのできる罰は限られている。
ハルワにおいては、教会で対応しきれない罪人の身柄を国王や領主が引き取り、代わりに罰を与える仕組みとなっていた。
彼らは、前日から町に先触れを派遣した。審問会の開催と異端被疑者は、多くサパ領民の知るところとなった。
会場は、城の礼拝堂と指定された。そこに庶民が立ち入ることはできなかった。
リイが無遠慮な野次馬の視線から逃れ得たのは、父カアンを通したユアンの手が功を奏したためであった。
それでも、ソオンとヨオン、クィアンといった、主だった貴族の列席を拒むことはできなかった。
ワ教関係者ばかりの密室で審問会を行うことを想像すれば、部外者の存在はむしろリイに有利と考えられた。
ガル、シ、への司祭と修道院長も顔を揃えた。ガルの修道院長は、告発の狼煙を上げた張本人とは思えぬ澄まし顔で、席に収まった。
審問司教は、三人だった。うち二人は、カアンに縁のある人物であった。
筆頭の司教だけが、ユアンの全く知らない人物であった。
ワ教側の体面も考えれば、ハルワの大貴族カアンへの配慮も、これが限界だったと思われた。
トウ司祭は、参考人としての出席である。
貴族たちを両側に従え、領主にして父のライが見守る。リウは体調を崩し、自室にこもっていた。
ユアンは出入り口付近に席を取った。
リイは、ただ一人で彼らに相対した。
「これより、審問会を始める」
筆頭司教が開会を宣言した。右に座す司教が告発文を読み上げた。
法王への告発は、ガル、へ、シ聖堂の三司祭連名で行われていた。これは、リイの初めて知る事実である。
次に、告発されたリイ本人が間違いなくこの場にいるかどうか、確かめるための質問がなされた。
続いて、ガルの司祭が予め提出した、リイの洗礼記録が示された。ワ教信者の証である。
リイが真実を述べる宣誓を行った後、いよいよ審問は本題に入った。列席者は咳一つせず、神妙に傾聴する。
「汝、ワ教信者にありながら、異端の考えを抱いたとは、真か」
問いは筆頭司教の口から出た。リイは即座に否定した。
筆頭司教は、被疑者が罪状を否認するのはよくあることだと言わんばかりに、わざとらしく眉を吊り上げて見せた。
修道院長たちが、口元に手を当てながら囁き交わし、左に座した司教から注意を受けた。
「ならば、ワ教の聖職者が華美に過ぎる、との批判をなしたについては如何」
「事実ではございません。唯一絶対神を讃えるため、新たに建てましたこの礼拝堂をご覧になれば、わたくしが、現在ある教会やそこで働く人々が華美に過ぎる、とは決して考える筈もないことが明らかでしょう」
リイは落ち着き払って答えた。告発者の過ちを婉曲にも持ち出さず、反論を最小限に留めるとは、トウ司祭やユアンとの協議で決めた方針である。
揚げ足取りや、やぶ蛇を避けるためだ。
筆頭司教はワ教の教義について幾つか質問し、リイは澱みなく正しい答えを返した。
審問は、大体トウ司祭が予想した具合に進んでいた。場の空気が緩み始めた。修道院長たちが再び私語を交わし、司教にたしなめられた。
その質問は、唐突に発せられた。
「されば、未洗礼の死者に対し、密かに名をつけて呼び習わすについては如何」
リイは思わず息を呑んだ。聴衆がざわついた。
司教たちの表情は変わらなかったが、彼女の反応をしっかり記憶に刻み込んだことは、読み取れた。
筆頭司教は、人々の注意を引くように、すっと手を挙げた。
「教義によれば、生まれ出でたる者、齢一年にして洗礼を施されるまでは人の形をなすとて人にあらず。唯一絶対神の承認のもと、洗礼の後、教会から名を授かり初めて人となる。それ以前に死を得たとしても、幼い魂は神の御元へ赴き、しかるべき時を経て再びこの世へ生を受ける」
「すなわち、未洗礼の赤子に名をつけるとは、幼い魂を私欲から我が元へ留め、再生の機会を奪う行為に他ならない。死してなお、赤子に不幸をもたらす行為はまた、教会への不敬を通り越し神への冒涜と看做す。汝にかかる嫌疑、真偽のほど如何」
聴衆は、筆頭司教に気圧されて、水を打ったように静まり返った。
リイは、即答できなかった。
リンのことは、ユアンにも秘密にしていた。トウ司祭にも、両親にも打ち明けてはいない。司教の指摘通り、それが教義に反することは、彼女も重々承知していた。
故に、違背の後ろめたさよりも、漏洩の原因の方が気になった。
混乱した時期に我知らず独り言を漏らしたものか、寝言を聞かれたものか。いずれにしても、召使いの裏切りしか思い当たらない。
彼がワ教の熱心な信者であれば、リイこそが裏切り者、という理屈になる。
どのような証言が飛び出すか、ひとまず否認する手段もあった。
しかし彼女は、先ほど宣誓をしていた。
これほどの危機に陥っても、彼女は次期領主である前に、ワ教信者であった。
嘘をつくことはできなかった。そして彼女はリンの母親でもあった。その場限りの嘘であっても、我が子を名付けたことを否定すれば、リンを見捨てたことになると思った。
リイの回答は、決まっていた。
「事実に相違ありません」
礼拝堂が人声で満たされた。指弾した当の修道院長さえも、驚いた様子であった。
三人の司教たちは手早く質疑問答を終わらせると、その場でひそひそと相談し始めた。
ざわめきは止まない。リイは審問官たちに視線を固定した。
心配する父や夫の顔を見たくもなければ、自らの恐らくは不安を滲ませた顔を見せたくもなかった。
協議は存外、短時間に終わった。筆頭司教が、聴衆に静粛を求めた。さえずりが消えた。
「汝を異端とする」
前後の細部は、耳に入らなかった。結論さえ知れば充分であった。
リイは天井を見上げた。
過剰な装飾が、重くのしかかるようであった。天空に伸びる道は、まるで見えなかった。
視界の外で、どよめきが起こった。
彼女は音の方を見た。意識朦朧となったライが、周囲に抱えられていた。




