リイ 奇岩祈願
リイの視察は、少しずつ距離を伸ばした。そして、サパ領外へ赴く機会が訪れた。
アン領主シュイの在位二十周年記念となる誕生祝いに招かれたライが、ユアンとリイに代理で出席するよう依頼したのである。
ライはシュイと格別親しい間柄でもなく、リイの気分転換になれば、という親心であった。
もう一つ、ワ教信者としては表立って認める訳にはいかない、アン地方の名物に、僅かな望みを託したのかもしれない。リイは気付いていたが、触れずに済ませるだけの分別は持っていた。
アン地方は、ハルワ国の南端に位置し、南方がチュン海に面している。
塩、魚介類、海草類といった海産物が特産で、海外との交易を一手に引き受ける。
経済規模は、ハルワに次ぐ。
アン領主は代々、貿易商人の代表が就く習わしである。ここ二代は、アンで最大の貿易商を営むシュイ家から続けて輩出した。
アンの貿易商人は海神教信者が多い中、シュイ家はヨ教を信奉する。熱心なワ教信者である国王やライが関係を保ちつつも距離を置くには、こうした背景があった。
「ようこそ、アン地方へお出でくださいました。お初にお目にかかれまして、光栄です」
シュイの館は、チュン海に面したアン地方最大の町、コンの高台にあった。
さりげなく手間をかけた趣味の良い造りでありながら、いざとなれば、城塞としても充分に機能しそうであった。
リイは初対面のアン領主を、興味深く観察した。
海辺の産らしく日焼けした肌色に、上品な目鼻立ちを持ち、物腰も洗練されている。ヨオンと年が近い筈であるが、濃い艶を放つ肌が、彼を若々しく見せていた。妻はハルワの出身で、ユアンによると、名門貴族の家柄であった。
館からは海が見渡せる。サパ育ちのリイにとって、海は常に惹き付けられる存在であった。
「案内人を用意しました。お好きな場所を観光なさってください。明日の宴で、感想を伺いましょう」
シュイの言を受けて、ユアンがリイの意向を尋ねた。
リイは、海を見たかった。
案内人に要望を告げ、馬車へ乗り込んだ。高台を下るにつれ、潮の臭いが強まった。
コンの町は、色鮮やかな賑わいであった。見た目も服装も異なる人同士が、それぞれ異なった言葉で言葉を交わす。彼らが出入りするのは、異国風の建物である。
港に、大小の船舶が何隻も停泊していた。大荷物を担いだ半裸の男が、しなる板を身軽に渡る。
生臭さと嗅ぎ慣れぬ臭いが入り交じり、鼻腔を刺激する。カモメが騒がしく飛び回る。船縁から猫が覗く。
案内人は、ある桟橋へ二人を導いた。
「ここから船に乗れば、コンの岩をご覧になれます」
ユアンがリイの表情を窺った。
アン地方の巨岩コンについては、リイにも知識があった。敢えて説明すれば、男女が交わる瞬間の局部を、切り取って拡大したような形、である。
ヨ教では、授産の神として崇められている。あまりに奇異な形なので、ヨ教信者に限らず、観光がてら訪れる者の数は多い。
それは、チュン海沿岸に突き出すようにして、存在した。陸地から見ても、ただの岩である。案内人の言う通り、船に乗って海上から見て初めて、その真価を知ることが可能なのだ。
きっと、これも唯一絶対神のお導きであろう。
リウにコンの岩詣でを命じられたら、リイは決して船に乗りはしなかった。
実際コンの岩観光を勧めたのは、シュイに命じられた案内人だった。それで、リイはユアンと共に乗船した。
船はコンの岩観光専用で、他にも市井の人々が数多く乗っていた。リイとユアンは船の係員に、一段高い場所へ案内された。
そこには、見るからに富裕な見物客が数組いた。特等席らしかった。
リイは横に停泊していた船の舳先が見えるまで、出航に気付かなかった。静かな船出だった。
観光船は帆を備えていたが、雑多な船が行き来する港内では、複数の小型船に曳航された。
視界が開けると同時に、潮風がリイの体を吹き抜けた。港の臭いとは異なる、混じりけなしの潮の香りであった。
広がる海は眩しく光り、遠くで空と繋がっていた。空の色までが、より明るく見えた。
リイは手すりから身を乗り出し、海面を見た。
海は青々として、船に掻き分けられては、白波を泡立たせて抵抗した。白波は至る所にあった。同じく常に流れる川とも、動きが違う。
それでいて、眺め続けると吸い込まれそうな気持ちになる点は、同じだった。
リイは軽く目眩を起こしたところで、無事ユアンに引き戻された。
「具合が悪いようだね」
「いいえ。具合はとてもよいの。普段見ることのない海に来て、ついはしゃいでしまっただけ。心配ないわ」
ユアンは簡単に心配を解かなかった。一緒に乗船した従者が早々に船酔いを起こし、役立たずの状態だったこともある。
夫の心情を汲んで、リイは船縁から離れることにした。
下方で人々がざわつき出した。いよいよ巨岩コンが、その姿を現そうとしていた。
帆が忙しく調整される。船は速度を落とし、旋回しつつあった。
リイもユアンと寄り添って、不思議な景観の登場を見守った。
「おおっ」
乗船客から、一斉に声が漏れた。驚愕、感嘆、歓喜、狂喜、羞恥、とそれぞれの感情が入り交じったどよめきであった。
リイはその全てを感じた。さすがに平静ではいられなかった。開いた口を塞ぐ手の動作が、一拍遅れるほどの衝撃を受けた。
それでも周囲にいた何人かの婦人のように、顔を背けはしなかった。彼女たちも、連れに勧められたり、連れの目を盗んだりして、再び巨岩の真の姿へと目を向けていた。
「うおお。こりゃ凄い」
船酔いだった従者が、猛然と船縁にかぶりついた。
コンの巨岩は、リイの耳学問をひと突きで打ち崩した。彼女とてリンの母である。巨岩の示す人間の印はよく知っている。
しかし、それが白日のもとに堂々と、辺りを払うほどの偉容で存在する事実を目の当たりにしては、何の感慨も持たぬとはいかなかった。
それは大きさを別にすれば、形といい色といい、実物を連想せずにはおれなかった。
「一体、神はどのような御意図を以て、このような奇跡をなされたのだろう」
二人の近くにいた、富裕な男性が誰にともなく呟いた。それはリイも知りたいところであったが、誰も答えを出さなかった。
下にいる乗客は、より直截な表現で感動を言い表していた。
船は暫く停泊した後、少しずつ針路を変え舳先を港へ向けた。
リイに新しい考えが取り付いたのは、それから間もなくのことであった。
アン領への旅行が刺激となったのは、間違いない。それは、雷に打たれたように訪れたものではなく、リイの心の中に少しずつ積み上がった考えであった。
リンを失ったリイにとって、その考えは一定の慰めとなった。
そこで彼女は、亡き娘への名付けを拒否されて以来、遠のきがちだった教会へ、再び通い始めた。
リイは、程なくトウ司祭と二人きりで話す機会を得た。
司祭は礼拝堂の会衆席にリイを座らせ、自らも近くへ腰を据えた。これまでリイは、こうした時、リンへの哀惜を繰り返し吐露していた。
立場上、ユアンよりも距離をおいた形ではあったが、トウ司祭もまた、永遠の苦行にも似たリイの話を、根気よく聞き続けた。
「これまでトウ司祭は、わたくしのくどくどしい繰り言を、親身に聞いてくださいました。今でも同じ思いが、わたくしの心を巡り歩いております。しかし近頃、別の声が加わったように感じられます」
リイは、自分でも思ってもみなかった話を、始めようとしていた。司祭は普段と変わらぬ顔つきで傾聴する。
「それというのも、あの子が流産でもなく、生まれてから命を落としたのでもなく、死んで生まれたことに、意味があるように思われるのです」
「人には分というものがある。わたくしは、サパの領主となる身にあります。わたくしの分では、領主の地位と子を産むことを同時になし得ない。そのことを唯一絶対神が明白にお示しなさるために、あの子に大きな犠牲を払わせたのではないか、との考えが浮かぶのです。もしそれを確信することができるならば、悲しみが薄れることはなくとも、あの子の死が無意味でないと慰めを得ることができます」
「しかしながら、わたくしがよき領主となるために、我が子を諦めねばならないとしても、領主を諦めるとしても、次の領主を用意せねばなりません。それにはまず夫の協力を仰がねばならないのに、わたくしには話をする勇気が出ない。どうか、わたくしが唯一絶対神の御心に添えるよう、助言をください」
トウ司祭は最後まで聴き終えると、ふっと天井を見上げた。リイもつられて上を向いた。
礼拝堂の天井は高く、さらに高く見えるよう工夫が凝らされた結果、ともすると見上げる者に天上まで続く道があるような錯覚を起こさせた。
今も、彼女の目にはそれが映った。司祭が頭を戻した。
「己の分を見誤るな、身の丈に合った生活を心がけよ、とは私もよく民に言い聞かせました。リイ様のようなご身分の方が、そのようにお考えになるのは、稀なことです」
「リイ様は、ご自分が領主と母を兼ねることができないとお考えですね。しかしながら、今回の一件は、リイ様ではなく亡くなったお子の分によるものではありませんか。あの子はこの世に生を受ける分を持たなかったにもかかわらず、どうしてもリイ様に顔を見てもらいたくて、生まれてきたのでしょう。リイ様がお産みになるであろう、次のお子に領主の地位を確実に譲るため、自ら犠牲になったのかもしれません」
「唯一絶対神の御心は広大です。必ずしも、誰にも明瞭な形で示されるとは限りません。ですから、次の領主様については、急いで結論を出さず、保留なさっては如何でしょう。例えば養子を取るとしても、お二人ともお若くいらっしゃいます。すぐ決めなくとも、充分間に合うと思いませんか」
トウ司祭の言葉に、リイは霧が晴れたような思いがした。
リンが、リイに顔を見せるために、精一杯努力した、という考えは、これまで浮かばなかった。
思い返すまでもなく、リイのお腹の中で、娘は一生懸命生きていた。話しかければ応えもした。
母である自分が、娘の頑張りを認めずして、他の誰が認めるというのだろう。
リンが生きていたことを、忘れてはいけない。
司祭との会話は、娘が死んだ悲しみを減らしはしなくとも、リイの心から重しを削り取る作用があった。
その夜、彼女はユアンに体を許した。夫婦にとって、久々の営みであった。