リイ 初産*
リイの懐妊騒ぎがひとまず落ち着いた頃、ユアンの父カアンが、ハルワから来訪した。
息子夫婦の生活ぶりを視察すべく、招待に応じた形をとってはいたが、結婚式以来、初の訪れとあっては、リイの妊娠を言祝ぎに来たのは、明白であった。
カアンは再婚した妻子を引き連れず、数人の供回りだけの、身軽な旅であった。
それでも一行がサパの町を通ると、人びとが仕事の手を休めて眺めるだけの、洗練された華やかさが、彼らにはあった。
カアンを迎えた城では、早速歓迎の宴が開かれた。答礼の意味を含め、久々に、リイも参加した。
客人は、都から来た大貴族にして、婿の父親である。
ライもリウもサパの意地を見せ、腕によりをかけて支度を整えたことが、身内のリイには見て取れた。
このところ政務はもとより、人前からも遠ざかっていたリイには、宴席がひどく眩く映った。大きな腹を抱えた自分が酒の席に座ることに、場違いな居心地の悪さを感じる。
「二人とも仲睦まじく暮らしており、安心した。この先、子どもが増えれば、ますます幸せになるだろう」
カアンは妊婦らしい出で立ちのリイを満足げに眺め、上機嫌で話しかけた。義父を始めとして、誰もが彼女を温かい目で見守っていた。そうした態度が逆に、彼女は本来この場に居るべきではないことを示すように、リイには感じられたのである。
リイは、かろうじて儀礼的な笑みを浮かべ、相槌を打った。カアンは妻の妊娠中に浮気をした男ではあるが、夫の父でもあり、都でも大きな影響力を持っている。以前、ユアンを通じ、その力を利用させてもらった恩もある。
個人的な悪感情は、持っていなかった。
ただ、久々の社交と、慣れぬ体での宴席に疲れていた。リイは断りを入れて、早々に席を立った。
部屋へ戻っても、広間の喧噪からは逃れ得なかった。宴の賑わいは、夜更けまで続いた。
翌朝、普段は部屋で食べるリイも、カアンのため、朝食の席を共にした。
その席で、ライは彼を狩りに誘った。
「喜んでお伴します。ハルワのような場所に住んでいると、大した狩りもできません。サパのような広大な土地ならば、獲物もさぞかし大物が期待できるでしょうな」
カアンは長旅や昨夜の宴の疲れも物ともせず、快活に応じた。
ライは、ユアンも同行するよう求めた。この流れでは、当然のことである。
しかし、夫はいつになく躊躇ってから、承知したのであった。
リイはユアンとその父との間に、わだかまりを感じた。
それとなく、昨夜の様子をリウや召使いに尋ねてみたが、誰もこれといった記憶がなかった。
リウは、狩りそして帰還後に催される宴の準備に大わらわで、召使いたちもあちこち走り回らされ、思い返す暇がなかったのである。
その上、リウだけでは手が足りず、リイも準備を手伝わざるを得なかった。
顔を合わせる都度、リウは休むよう勧めたが、母一人で間に合わないからこそ、リイが動く羽目になったのである。
リイは自分でも意外なことに、忙しくした方が、奥で引きこもるよりも、余程気が紛れた。狩りに出かけた一行は、大猪や鹿を仕留め、意気揚々と凱旋した。
リイは、宴への出席を遠慮した。誰も、欠席を咎めなかった。
その夜も、遅くまで賑やかな声が風に乗って、離れた部屋にまで聞こえてきた。
彼女は、領主も大貴族も、とてつもない体力が必要な仕事である、と悟った。
カアンは一週間ほど滞在した後、無事ハルワへ戻って行った。その間、何かと口実を設けては、ほぼ連夜に渉って宴が催された。
彼はサパ領をあちこち案内され、城の教会も見学した。
「さしずめサパのハルワティアンですな。見事だ」
カアンの賛辞を得たトウ司祭は微笑で応え、ヨオンは鼻高々であった。
リイは宴にこそ出なかったが、義父の滞在中、忙しく立ち働く日々を過ごした。そして彼が帰途につくのを見送ると、いつの間にか、憂鬱な気分が晴れていたことに気付いた。
リイは、すっかり丸くなった。まず、体型が、それから性格が、丸くなった。
性格の変化については自覚がないものの、体型の変化は否応なしに自覚せざるを得ない。
今のリイは、屈めなくとも、起き上がるのが難儀でも、気に病まなかった。
お腹の子は順調に育っていた。勝手に暴れるばかりでなく、リイが話しかけるのに応えるように動くところが、また愛おしかった。
ライとリウは、早くから祖父母になったつもりで、あれもしようこれもしようと予定を立てては、期待に胸を膨らませていた。
近頃では、慎重なユアンも遂に彼らの影響を受け、リイのお腹に話しかけたり耳を当てたりしては、父親気分を味わっていた。
リイも、しばしば母親となった自分の生活を想像してみた。乳母が授乳したり、オムツを替えたりする様子を見守る。
成長すれば、家庭教師の教育が適切か監督したり、自ら領主の仕事を教えたり、と生活の想像がつくのだが、それ以前の赤ん坊に、母親としてどう接するものなのか、具体的にはなかなか思いつかない。
そんな時、悩み始めたリイの心情を察したように、腹の子は、内側から蹴りを入れて、母の注意を引くのであった。
相変わらずリイは政務から離れていたが、もはや彼女は、そのことすらほとんど忘れていた。
一方で、生まれる子のための準備は、着々と整いつつあった。
ライやリウは、食器から布団まで、ハルワ国で手に入る限り、最高の品を求めた。
入手困難な品であっても、カアンに頼めば、ほぼ確実に得ることができた。そうした依頼について、ユアンはかつてのわだかまりを全く窺わせず、喜んで仲介の労を取った。
何もかも新調した訳ではない。嬰児の寝台となる揺りかごは、かつてライも使った年代物であった。
リイもそこで眠ったというが、記憶にはない。改めて磨き上げられた丈夫な木製の寝台には、念入りな彫刻が施されており、長い年月を経た物だけが持つ艶やかさと安定感があった。
手作りの品も用意された。リウは上質の布と糸を使って、素敵なレース飾りを満載した服や帽子を作った。
リイも負けじと産着を縫ったり、子が使う物に片端から刺繍を施したり、靴下を編んだりした。
子のために特に用意された部屋で、陽の当たる場所に座り、ぴょこぴょこ動くお腹の上で無心に手を動かすと、母子で物を作り上げているような気持ちになった。
リイは思い出してお腹を擦っては、中にいる子に話しかけ、耳を澄ませ返事が聞こえたように微笑み、再び手仕事に戻るのであった。
突然、リイは違和感を覚え、お腹を押さえた。痛みが下から駆け上がり、脳天を貫いた。
彼女は手にした物を落とし、お腹に両手を当てて膝をついた。膨れた腹のせいで、踞ることができない。
「リイ様?」
「どうなさいました?」
物音で異変に気付いた侍女たちが、泡をくって駆け寄る。痛みで視界が狭まる中、リイはお腹を床につけないよう、必死に掴む場所を探した。
その腕が、誰かに取られ、彼女は引き上げられた。痛みのために、真っ直ぐ立ち上がることができない。どうしても、中腰になる。
ばたばたと周囲が騒がしく、人の声で余計に具合が悪くなった。彼女は目を閉じた。
「取上げ婆を呼んで!」
「侍医はどこだ?」
「いいから、早く湯を用意して!」
枕か何かを積んで、一方を高くした寝床へ乗せられ、口に布の巻かれた固い物を突っ込まれた。手にも何か握らされる。
痛みは、ますます激しくなるばかりである。リウや乳母などから聞かされて、予習していた状態とは全く異なっていた。
第一、予定日より、ひと月以上も早い。
「初産は、予定より早まることが多いのですよ。心配しないでください」
リイの考えを読み取ったように、新たな声が掛けられた。侍医の元で働く看護師で、産婆でもあった。
当然覚えていないが、リイを取り上げたのも、この人である。年配の、専門家らしい落ち着いた語調に、リイは痛みに苦しみながらも、僅かな安心感を得た。
下半身が、ぬめる感覚。
「破水したわ」
「布は?」
「いきんで、いきんで」
「大丈夫よ。しっかり!」
周囲のいきり立つ気配が迫った。
その勢いで、お腹の子が押し出されるような気がした。下半身が割れるほどに痛い。リイは、止めて、と叫ぼうとした。
銜えた異物が、声を出す邪魔をした。思いとは反対に、歯はきしむほどに異物を噛み締める。
彼女は歯の隙間から、唸り声を絞り出した。誰かが背中を擦り、誰かは握り締めた彼女の手を、上から包み込んでいた。
予告なしに、お腹の圧力が抜けた。一緒に生命力も、どこかへ流れ出た感じがする。手から何かが落ちた。周囲が沸く。
その様子は、彼女の気力と対照的であった。
「出た、出た」
「後産は」
「お湯っ!」
「息を!」
ぺちっ、ぺちっ。
濡れた物を叩く音。周囲を怒号や悪態が飛び交い、徐々に静まった。
遂には、物音ひとつしなくなった。
ひどく静かだった。
リイは、足音を聞かなかった。耳元に、言葉が降ってきた。
「残念ですが、お子様は死産でした。女の子でした。ご覧に、なりますか?」
リイは目を開けた。不格好な、それでも人の形をした物が、目の前に浮いていた。
その物体が、たった今、自らが産んだ存在であることを、瞬時に理解する。
それは既に死人の色をして、目を固く閉じたまま、動かない。
生命の印の欠片も宿っていなかった。
リイは気を失った。




