リイ 懐妊
トウ司祭が、リイをわざわざ訪ねてきたのは、あの嫉妬の説教から間もない頃であった。
前日も、リイはユアンと礼拝に出席したが、彼は何の仄めかしもしなかった。
用向きを聞いて、彼女にも納得がいった。
「実は、サイの異動にお力添えを頂きたいと存じまして、お願いに上がりました。お気づきでしょうが、礼拝堂では見物騒ぎもようやく一段落しまして、本来の姿を取り戻しつつあります」
「ご婦人への応接のため、サイを呼び寄せましたが、リウ様もリイ様も、彼女によるお世話は不要とのことで、お役御免にございます。ただ、ガル修道院へ戻すと、世間に降格と受け取られて、外聞が悪うございます。他の修道士の心情にも悪影響が及びます」
「ハルワの修道院へ送り出せば、他の者の励みにもなり、いずれ教会の格も上がるのではないかと存じます。しかしながら、サパ地方から修道女を都へ送り込むなどは、前例のないことですので、何卒お口添えを願いたく存じます」
他の修道士がいる教会では、しにくい話であった。若輩の修道女に先を越された、と考える者もいるかもしれない。
リイは検討することだけ約して、司祭を帰した。サイを教会から出すことについては、彼女にも異論がなかった。
良い折りに、都合の良い話が転がり込んできたものである。これも、教会を建てた功徳であろうか。
現在、城に部屋と人を付けてまで、修道女を置く理由は見当たらない。
但し、元の修道院へ戻せば降格とみなされる、という司祭の考えには、賛同できなかった。彼女は出世により、ここへ赴任したのではない。
しかし、ハルワへ人材を送り込む利点はあった。たとえ彼女が修道院から一歩も出ないとしても、そこへ駒を置くことは、意味がある。
サパ出身の修道女が、都で名を挙げる可能性もなきにしもあらず、そうなればサパの格も上がる、というものである。
何より、サイを遠く離れた地へ移す、格好の口実となる。
問題は、実行するに当たり、リイにも中央への伝手がないことであった。
「そこで、トウ司祭を見かけた。彼がここまで来るのは、珍しいね。何か問題でも?」
考え込むところへ、ユアンが姿を見せた。リイは、早速に司祭の考えを伝えた。
彼は聞き終えると、あっさり賛成した。
「それなら、私から父に話して、手を回してもらおう。どうせなら、ハルワティアンにすればよい。トウ司祭が正式に手続きさえすれば、通るようにする」
あまりに簡単に承知したので、リイは冗談かと思った。サイを教会から出すことに、夫は反対する気がしていた。
彼は本気であった。早速、依頼の手紙を書こうと出て行くのを、リイは思わず引き留めた。
「待って。ヨオン殿の意見を聞いてからでも、遅くはないでしょう」
振り向いたユアンからは、表情が消えていた。
「彼は反対するよ。そうしたら、止める?」
「止めないわ。反対するなら、なおさら彼抜きで進められない。でも、どうして彼が反対すると思うの?」
ユアンの顔に、迷いが生じた。それも、一瞬だった。
「花が、教えてくれたから」
「花?」
問い返したが、ユアンは答えずに去った。
リイは、彼の言葉について考えてみたが、思い当たる節がなかった。ヨオンがサイに執着している、と初めに言い出したのは、夫である。それも、リイが夫に疑念を抱いた時であった。
ユアンが賛意を示したのは、幸いである。真実、サイに執着するのが誰であろうとも、原因を取り去るのが最適解には違いない。
彼女は、ヨオンに使いを出すと、他の仕事を片付けにかかった。
近頃ライは、対外的な仕事を除き、ほぼリイに仕事を任せていた。
サパのような平和な地方でも、細々とした日常の政務は山とある。些細なこと、と疎かにすると、大きな禍となって戻ってくる。
ライが歴史を引き合いに口酸っぱく説いた忠告を、リイは今のところ、守ることができている。
実際の政務に当たり、リイは、父の教えが悉く正しいことを再認識した。
ヨオンがやってきた時には、リイはあらかた仕事を終えていた。
異動の話をする側から、彼の表情が強張るのを目の当たりにして、リイはユアンの予言を思い出さずにはいられなかった。
「なるほど。お説はごもっともです。しかしながら、ハルワへ送り出さねばならぬ必然性が、今ひとつ理解できかねます。元の修道院へ戻ることが外聞に障るというならば、サパの他の修道院へ異動させれば、問題ないのではありませんか?」
彼は、リイがトウ司祭の話を聞いて引っかかった点を突いてきた。彼女は、答えを用意していた。
「その辺りの事情は、トウ司祭の方がご存知です。サイ殿は、サパで最大のガル修道院に属していました。領内では、他のどの修道院へ異動しても、格下げに見られることは免れません」
「そんなものでしょうか」
ヨオンは引き下がった。明確に反対の意を示さなかったことが、却ってユアンの説を裏付けているように思われた。
リイは彼が了解したものとして、サイの異動申請を進めた。サイを確実にハルワへ動かすため、ユアンだけでなく、ライにも頼み、父の名前でその筋に手を回してもらった。
ヨオンはトウ司祭とも話をしたようであるが、最後まで表立って反対を口にすることはなかった。
こうしてサイは、ハルワティアンへ異動が決まり、城から去った。
サイ付きのムウとワンは、以前の仕事に戻した。
しばらくして、リイは妊娠した。
最初に気付いたのは、リイの乳母であった。
リイ自身は、指摘されるまで全く自覚がなかった。
待望の、跡継ぎ懐妊である。ユアンと両親はもちろんのこと、城内一同、双手を上げて喜んだ。
トウ司祭は、赤子が無事誕生するよう、早々に毎日の特別祈祷を決めた。
大事を取って、出産直前まで領民には知らせないことにした筈が、噂はすぐに広まった。
予定日まで先は長いのに、町は早くも歓迎一色となった。
目端の利く輩が、妊婦を模した菓子やパンを作って売り出すと、即座に品切れした。
これまでと同じ品であっても、懐妊クッキー、子宝パンといった、いかにも目出度そうな名前を付ければ、途端に飛ぶように売れた。
一見して俄作りと知れる、護符の類いも、雨後の雑草並みに出現した。
身につければ子宝に恵まれるとか、恋人が得られるとか、効能は様々でも、ありふれた形は同じであった。
ワ教には、護符が存在しない。護符に頼らずとも、唯一絶対神の加護を求めれば足りる、という見解である。
護符が多いのは、ワ教に次ぐ宗教のヨ教である。あらゆる物を拝むと言われるヨ教には、神々の象徴とは別に、神々毎の護符、それも効能別に異なる護符があった。
ヨ教信者には、それら多岐にわたる護符を取り揃え、まとめて腰にぶら下げる者もあった。
ただし、今回出回った俄作りの護符は、主として他の小宗教によるものらしかった。
リイたちワ教信者は当然、護符など手にしないが、領民の間で、宗派を問わず流行するのを、否応なしに知ることとなった。
彼らは、これみよがしに、そうした護符を下げているのだった。
リイの懐妊騒ぎは、長い間禁忌の話題として息を潜めていた分、一気に爆発した感があった。
城もまた、領民から煽られるように、盛り上がりを見せてきた。
ソオンやクィアンを始め、主立った貴族や修道院から、続々と祝いを述べる挨拶の使いが訪れる。
その応対で、リイは仕事もままならぬ状態に陥った。
ライは娘の身を気遣って仕事に復帰し、娘を煩わしい人付き合いから遠ざけるとともに、政務からも離れさせた。
半隠居状態から急には以前のように働けないライは、政務をユアンに補佐させた。
ユアンは初めての仕事にも臆せず、例によって卒なく淡々と仕事をこなした。
リイが政治から脱落しても、サパの統治は滞りなく行われた。
領民に迷惑をかけずに済んだことはありがたいものの、正直なところ、リイは面白くなかった。
ちょうど悪阻の時期にかかり、これまで無意識にしてきたことが、できなくなっていた。
妙に臭いが気になったり、食欲がまるで失せたり、何もする気が起きなかったりの毎日が、延々と続く。
リウは忙しい合間を縫って、不機嫌な娘を慰めた。彼女もまた、自分の仕事に加え、リイの仕事を肩代わりしていた。
「わたくしがあなたを身ごもった時には、もっと寛いでいましたよ。跡継ぎを産むことも、大事なお務めです。気を楽にしておいでなさい。庭などを散歩すれば、気分が変わります」
楽にしたくとも出来ないから、リイは悩んでいるのであった。
リウが妊娠した当時とは立場が異なるせいか、悪阻の影響か、母の話はリイの気持ちに添わないことが多かった。
さほど食べてもいないのに太るのは仕方ないとしても、吹き出物で荒れた肌を見る度に、気が滅入った。
ユアンはリイの美しさが微塵も損なわれていないような態度で接していたが、普段から卒のない夫のことである。内心知れたものではない。
巷で聞くところによれば、妻の妊娠中が最も夫に浮気されやすいと言う。
現にユアンの父はそのようにした、と彼自身語っていた。
内心はともかく、ユアンが浮気やお手つきをする気配だけは、疑心暗鬼のリイですら全く感じられなかった。
その一点だけでも安心を得られるのは、リイにとって実にありがたいことであった。
無論、跡継ぎを身ごもったことは嬉しい。周囲の誰よりも、リイは懐妊を渇望していた、と断言できる。
初めて妊娠を知った時には、世界中の幸せがひとつところ、自分のお腹に凝縮され、そこから世界を照らす光を放ったように感じた。
見るもの見るものに歓喜し、汲めども汲めども尽きない力が、湧き出すようにも感じたものであった。
それがいつから、落ち着かない気持ちに置き換わったのか。
これは単に、妊娠がもたらす影響に過ぎない。と、いくら人から言われても、自分で確信が持てなければ、不安は解消されなかった。