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サイ 屋敷勤め

 洗濯場で働くにはサイは幼過ぎたので、専らボーについて雑用の更に下働きをした。

 サイの目付となったボーも、一人前の洗濯女となるには早過ぎる年齢であった。


 二人は洗濯女たちの邪魔にならないようにしながら、彼女らの休み場所を居心地よく整えたり、彼女らの使い走りをしたり、彼女らを始めとする使用人の制服を洗濯するのを手伝ったり、時には小物干しの手伝いをした。


 定められた仕事をこなすだけでも精一杯なのに、下働きは本職よりも楽をしていると思い込まれ、次から次へと新たな臨時の用を言いつけられた。

 朝起きてから夜床につくまで、しばしば食事を忘れるくらい、まさに目の回るような忙しさであった。


 孤児院にいた頃と違い、文字を学ぶ機会もなく、朝晩の挨拶と「はい、わかりました」あるいは、「すみませんでした」以外の言葉を発音する機会すらほとんどなかった。


 唯一の例外は週に一度行われる礼拝の時間で、領主が信仰するワ教の熱心な信者であるソオンの命により、召使いも敷地内にある教会へ礼拝する事になっていた。


 サイやボーのように半人前の召使いは、数に含まれなかった。

 召使いの中には、ヨ教を始めとする他宗教の信者もいる。また、召使には常に仕事がある。それ故、全員が屋敷を空にする事はなかった。

 それでも雑用を言いつける人が減って、サイは少しばかり息抜きができた。


 迷路のようなソオンの屋敷を普段よりゆっくり歩くと、新たに気付く事も多かった。

 由緒ある家柄であるソオンの屋敷には、至るところに先祖伝来の美術品が飾られていた。それらは彫刻にしろ絵画にしろ陶磁器にしろ、孤児院で見かけた物よりも一層派手派手しかった。


 中でもサイは、とある部屋に飾られた肖像画を気に入った。それはワ教の唯一絶対の存在である神を描き表した絵で、教義に定められた通りの衣服を纏い、定められた背景の前にこちらを見つめていた。


 よく見かける他の絵と異なり、この絵においてワ教の神は、男性とも女性とも受け取れるような顔立ちをしていた。その部屋はソオンの跡継ぎ息子の部屋で、彼は都へ留学していることから、サイに出入りする機会はほとんど与えられなかった。


 ごく稀にしか見ることのできない絵を、サイは尊く感じた。

 こうした息抜き以外の時間、サイはボーの見よう見まねで仕事をこなし、毎晩泥に沈むようにして眠った。眠った途端に起こされることもまた、頻繁にあった。



 ソオンの屋敷で働く大勢の召使いの一人に、チャという娘がいた。

 やはり孤児院から貰われてきて洗濯女をしていたのを、目端(めはし)が利くというので、小間使いに取り立てられたのである。そのため、洗濯女達からは妬まれ、初めから小間使いとして働く者達からは軽んじられ、話し相手もなく小間使いの下働きのような仕事をさせられていた。


 チャとサイはそれぞれ異なる孤児院で育ったものの、同じ孤児院出ということから、彼女はサイに親近感を抱いた。互いに多忙な身であるため、すれ違い様に言葉の代わりに微笑みを交わすことで好意を示し合った。


 目端が利くだけあって、チャは忙しい仕事の合間に恋人を作った。どういう機会を捉えたものか、相手は屋敷の外の者であった。何かと工夫して、文のやりとりなどしていたところが、思うに任せぬ身の上で、一度連絡が途絶えるとそれきり音沙汰が得られなかった。チャは相談できる者もなく、日ごとにいらだちを募らせた。


 ある礼拝日、チャはサイと言葉を交わす機会を得た。


 「やっと話ができたわね。私、ずっとあんたの事を気に懸けていたのよ」

 「はい。ありがとうございます」


 サイは素直に礼を言った。その時も彼女は仕事を抱えており、決して暇を持て余してはいなかった。忙しいのは相手も同様である。

 そんな中で、わざわざ声をかけてくれた相手の好意を無にしたくない一心で、サイは耳を傾けた。チャは仕事が辛くないかとか、何か困った事があれば相談に乗るなどと口早に言った後で、改めて周囲を憚り、声を落とした。


 「ところで、あんたを信用して頼みがあるんだけど、聞いてくれる?」

 「はい」


 チャが去ると、サイの掌に一通の封書が残された。


 「ちょっとサイ、何をぼうっとしているんだよ。さっさと仕事をおし!」


 怒鳴り声に身をすくめ、彼女は慌てて走り出した。それでも封書を落とさないよう、しっかりと握り締めることを忘れなかった。



 同じ部屋にいる洗濯女達が寝入ったと確信が持てるまで、サイは辛抱強く待った。

 自身眠くてたまらなかった。何度かうたた寝したかもしれない。


 サイに限らず、下働きの女達は、寝床へ潜り込むや否やすぐ眠りに落ちるのが常であった。

 彼女はそれほど長く待つ必要はなかった。すぐ隣で寝息を立てているボーを起こさぬよう、細心の注意を払いながら床を抜け出した。


 素足がひんやりとした石の床に触れ、まず最初にどきりとした。鼓動を他の者に聞かれやしないか、と辺りを見回す。誰も起き出す気配はない。

 そろりそろりと忍び足で女達の間を通り抜ける。


 ドアの把手に手をかけると、鼓動が大きくなった。ドアを開き始めると、蝶番(ちょうつがい)がきしんで微かな音を立てた。

 再びどきりとした。心臓が早鐘を打つようだった。

 暫くじっとしていた。


 誰かが寝返りを打ったらしい。起きてくる様子はなかった。

 思い切ってドアを開け、隙間から外へ滑り出た。狭い通路を早足で進む。

 屋敷の方はいざ知らず、夜の仕事場には人っ子一人いなかった。サイは難なく洗濯場へ辿り着いた。


 ここまでは知った道である。洗濯場から外へ出る扉には鍵がかけられていた。

 彼女はチャに教わった出入り口を探した。それは正式には空気穴で、サイのような子どもでなければとても通り抜ける事ができない大きさであった。


 大きさもさることながら、穴に至るまでの高さも相当なものであった。

 サイはおっかなびっくり洗濯釜によじ上り、壁の出っ張りを伝ってどうにか穴に手をかけることができた。

 仕事中は近付いただけで火傷しそうな釜も、今はただの黒い鉄の塊に過ぎなかった。


 空気穴の外へ思い切って飛び降りたサイは、柔らかい芝生から起き上がると出て来た穴を振り返り、不安を濃くした。外から見ても空気穴は高い位置にあり、しかも手がかりがまるで見当たらなかった。


 今更引き返すことはできなかった。サイは予め教えられた通り、屋敷の裏手に向かって走った。

 ソオンの屋敷は建物の周りに手入れされた庭園があり、その敷地を石塀で囲んでいた。


 裏庭には自然の景観を再現すると称して、低木や草の茂みが点在していた。整然と区画された前庭と比べると、庭師が手抜きしている部分もあったかもしれない。


 だからこそ、サイがこれから抜け出そうとしている塀の崩れも放置されたのだろう。それは茂みの一つに隠されていた。抜けるのは呆気ないほど簡単だった。石塀の外側にも灌木の植え込みがあり、崩れた部分は表から見ても丁度よい具合に隠されていた。


 サイは孤児院を出るなり真っ直ぐにソオンの屋敷へ連れてこられて以来、屋敷のうちで暮らしてきた。

 町へ出たのは初めてであった。正に、右も左もわからない。


 夜道には人影もなかった。どこかで犬の遠吠えが聞こえた。サイはチャの言葉を懸命に思い出しながら、歩き出した。チャの相手はそう遠い所にはいなかった。すぐ隣の屋敷に勤めていた。


 勝手に出入りできない点はソオンの屋敷と同様である。サイは塀沿いに歩き続けているうちに、隣の屋敷の裏口まで来た。秘密の入り口があった筈なのを、見逃したのだ。悪い事は重なり、裏口で詰めている門番に見咎められた。


 「おい、こんな夜中に何している」


 咄嗟に逃げようとしたサイの襟首が引っ張られた。サイはほとんど宙吊りになって、武装した門番と向き合った。


 「何だよ、只のガキじゃねえか」


 奥にいたもう一人が出てきた。とても逃げられそうにない。サイは恐ろしくて口も利けなかった。


 「只のガキが今時分、うろつく訳がない。おい、答えろ」


 門番は襟首を掴んだまま、サイを揺すった。門番の腰に下げている剣ががちゃがちゃ鳴った。サイは答えられなかった。


 「まあ待てよ。そんなに脅し付けちゃあ、答えるものも答えられねえよ。ちょっと下ろしてやれ」

 「逃げるなよ」


 渋々サイを下ろした門番は、彼女を睨みつけて油断なく構えた。サイはとうに観念していた。

 サイは門番に、人に頼まれて、ここで働くホウという人宛に手紙を預かった、と話した。

 すると、門番達の顔つきがみるみる緩み、話が終わらないうちからにやにやと笑い出した。


 「ホウに手紙だと? 奴め、こんな年端もいかないガキにまで手を出していたとは」

 「こいつも大したませガキだぜ。真夜中にまで、ご苦労なことだ」


 サイには話が飲み込めなかった。急に態度を変えた彼らを、不安な面持ちで見上げていた。門番達はひとしきりホウの女癖を肴にした後、思い出したようにサイを見、行き先をわかりやすく教えてくれた。


 「あいつめ、今日もまた他の女を引っ張り込んでいるかもしれないぞ」

 「修羅場になるかもな、ふへへ」

 「いひひ」


 教えられた方向へ歩き出したサイの耳に、門番達の浮かれた声が届いた。サイは振り返らずにどんどん先へ進んだ。


 隣の屋敷には、彫刻がやたらとあって、道を過たずにいられるのはありがたいことであったが、一方で夜中に白く浮かび上がる人物像の間を通って行くのは気味の悪いことでもあった。サイはなるべく彫刻を見ないようにしたかったが、見ないと迷子になるので、もどかしく思いながら足を早めた。


 門番達の道案内は正しくサイをホウの元へ導いた。

 ホウは、屋敷に勤めるその他大勢の召使いと寝食を共にしていた。入り口付近に寝床を持つ仲間に叩き起こされ、不機嫌な顔つきで外へ出てきた。


 サイとは初対面である。彼女の姿を見てホウは怪訝な様子になった。サイはチャに託された手紙を差し出した。常夜灯に照らしながら読むうちに、彼の機嫌は治るどころか、却って悪くなった。

 読み終えるなり、手紙をびりびりに細かく裂いて辺りへばらまいた。そのまま中へ戻ろうとする。


 「あの、お返事を」


 おずおずとしたサイの声に、初めて存在に気付いたような驚き方で振り向いた。その姿を見て、チッと舌打ちをした。


 「待っていろ」


 ホウは大あくびをしながら立ち去った。サイは外で待っていた。何もせずに待つ時間は、長く感じる。ホウはなかなか戻らなかった。サイはじっと待った。ホウは戻らない。

 やがてサイは、眠ってしまった。

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