表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/87

サイ 夜の使者

 その日の礼拝は、サイにとって全く満足のいくものではなかった。

 唯一絶対神に祈りを捧げる最中にも、ユアンの美しい顔が火影(ほかげ)のようにちらついた。

 サイは、ひたすらに祈った。


 リイが側へ来たことにも、すぐには気付けなかった。

 背後に付き従うのは、ユアンに違いない。

 サイは彼を視界へ入れないよう、リイを殊更(ことさら)に見つめた。


 「何か、お役に立てますでしょうか」


 喉が締め付けられる心地がした。リイは黙して首を振った。サイは、ほっとして祈りに戻った。

 その日、トウ司祭は嫉妬(しっと)の罪について説教を行った。


 ユアンの妻リイを、(うらや)ましいとは思わない。

 教会の彫刻を()でても良いならば、ユアンの美しさを愛でることも、また許されるのではなかろうか。


 理屈を並べても、心の天秤(てんびん)はごまかされなかった。どう言い(つくろ)おうと、サイがユアンに対して抱いた感情は、修道女として間違っていた。


 礼拝が終わり、人びとを見送るサイの前に、立ち止まる影があった。

 顔を上げたサイは、そこにヨオンを見出した。

 がっかりすると同時に、そのように感じた己の罪深さに、(おのの)いた。


 今朝、誰かを悪く考えたことに始まり、妻ある男性を勤めの最中に思い起こしたり、教会の擁護者(ようごしゃ)たるヨオンに失礼な感情を抱いたり、一度堕落(だらく)を始めた魂は、留まることを知らず、物が落ちるよりも早く地獄を目指すらしかった。


 「どうも、顔色が悪いようです。もしや、滋養(じよう)が足りていないのではありませんか?」


 ヨオンは人の良さそうな顔に心配を浮かべ、サイを覗き込んだ。サイは慌てて否定した。


 「いいえ。充分すぎるほどでございます。ヨオン様には、常々厚いご配慮をいただき、皆で日々感謝しております」


 「そうですか。もし他のことでも、気懸りがありましたら、どうかご遠慮なさらず、何でもお話しください」


 ヨオンの熱心な様子に、サイは連日床に落ちている花を思い出した。

 思えば、あの花を見つけて以来、悩みが増えたようでもある。


 「ありがとうございます。実は、花のことで少々お伺いしたいと存じますが」


 いざ、サイが切り出すと、ヨオンから落ち着きが減じた。困惑した様子で、さりげなく辺りを窺う。

 どうやらサイは、社交辞令を真に受けてしまったらしい。恥ずかしさで彼女は目を伏せた。


 修道院の(から)に守られて育ったサイには、未だ貴族との接し方が呑み込めない。


 「その件については、少々込み入っております‥‥そうですね、仕事が終わってから、改めて夜にでも席を(もう)けてお聞きしましょう」


 (うつむ)いていたサイは、思いがけないヨオンの返答を受けて、驚いた。

 すると、先の困惑は、サイの説明不足により、すぐには意味を()み取れなかっただけのことであろうか。

 ともかくも、相談に乗ってもらえる。サイは、礼を述べた。

 夜間、外へ出られないことを思い出した時には、人の波がすっかり引き、ヨオンの影も形も失せて久しかった。



 修道士たちと共に夕食を終えると、サイは食後の語らいには加わらず、一足先に部屋へ戻った。

 夕食にはユアンが同席して、トウ司祭らと話を弾ませた。珍しいことではない。


 ガル大聖堂を始め、サパ地方に散らばるワ教関係者は、機会さえあれば、一度ならず領主の館に併設された教会を見学したがった。時に、彼らは修道士とも食卓を共にした。


 元々は、領主一家の個人的な教会、という位置付けである。

 それ故、ライ一家の食堂に、トウ司祭を始めとした修道士全員が、招かれることもあった。そこには、サイも含まれた。

 逆に、教会の食堂に、リイやユアンが訪れて食事を共にする日もあった。


 彼らの持ち出す話題は、他の修道院に比して(こも)りがちな修道士たちの、良き慰めとなった。

 これまではサイも例に漏れなかったのだが、朝の動揺が尾を引き、今日は貴重な話の半分も耳に入らなかった。

 ユアンは常と変わらぬ態度で一同に接した。それがまた、サイの心をささくれ立たせた。


 たった一日の間に、これほど心が揺れ動く。ただ事ではなかった。

 一刻も早く、トウ司祭に告解(こっかい)を申し込むべきであった。

 他方、ヨオンが原因を取り除くことに、サイは期待した。告解は、最後の手段でもあった。


 部屋へ戻ると、ムウとワンが揃って立ち上がった。(あるじ)の予想より早い帰還(きかん)に、驚いたようであった。

 彼女たちは、きちんと仕事を済ませていた。ベッドはきちんと整い、着替えて休む主を待つばかりであった。

 サイは夜着に着替え、夜の勤めを始めた。


 (しばら)くすると、人の揉めるような物音が、サイの集中を乱した。

 音は、なかなか止まない。

 とうとうサイは、上着を羽織って寝室から出た。すると、部屋の出入り口で、ムウとワンが廊下の誰かと押し問答をしていた。ワンは傍目(はため)にも怒っていた。


 「だから、サイ様はお勤め中ですってば」

 「どうしましたか?」


 ムウとワンが、はっとして体の向きを変えた隙をついて、誰かが部屋に入り込んだ。


 見知らぬ女性だった。マントですっぽりと全身を(おお)い隠し、服装や髪型から身分を推し(はか)ることはできなかった。マントから覗く顔と手足で、かろうじて性別が窺えた。


 「お迎えに、上がりました」


 声は低い。挙措(きょそ)や言葉遣いからは、高貴な身分に仕える召使いのようでもある。


 「どなたの?」

 「サイ様がご相談なさりたいとのことで、お迎えに上がりました」


 彼女は繰り返した。相談事と聞き、サイは女性がヨオンの使いと思い当たった。

 そういえば、仕事が忙しいから、夜にするよう言われていた。

 社交辞令どころか、これほど迅速(じんそく)に対応してくれるとは、予想外であった。

 ユアンにかまけ、忘れていた後ろめたさも手伝って、サイは女性に声をかけた。


 「着替えるので、少しお待ちになってください」


 ムウとワンは、不服顔であった。主のためにした事が、あっさり(くつがえ)されたせいもあろう。


 「今から、お出かけなさいますの?」

 「こんな夜更(よふ)けに一体、どちらへ?」


 「大丈夫。心配ありませんから」


 使いの様子から、サイはヨオンの名を敢えて出さなかった。

 彼は、込み入った事情がある、と言っていた。どのみち入城の際、身元の確認を取る筈である。いずれ彼女らも知るとしても、サイから教えるのは、彼に対する裏切りのような気がした。

 告解に限らず、宗教者は信者から預かった秘密を守らねばならない。これからどのような話があるのか、まだわからないのである。


 寝室の扉を半開きにし、手早く着替える間も、ムウとワンは、代わる代わる使いを問い詰めた。

 二人とも、城に出入りする主立(おもだ)った人間は、把握していたが、彼女に見覚えはないようだった。


 ヨオンは、大貴族ソオンの息子である。サイや二人が見知らぬ召使いなど、他にも山と抱えているに違いない。

 彼女は如何に問われても、余計な口を利かなかった。


 支度を済ませたサイが出てみると、ムウもワンも女性の正体を探ることを諦め、その分だけ不安が(つの)ってきたようであった。


 「本当に、大丈夫でございますか?」

 「何かあったら、と思うと心配で‥‥」


 「きっと、それほどかからないと思います。どうか、心配しないでください」


 三人のやりとりを耳にしても、マントの女性は、何も言わなかった。


 サイは彼女について部屋を出た。彼女はどんどん足を速めて先を急ぐ。その行き先は、サイが考えていた城内とは、反対方向であった。


 サイが質問を差し挟む(いとま)を見つけられないうちに、とうとう城門まで来てしまった。

 夜のことで、大門は閉まっている。脇に(しつら)えた小門のところに、番兵がいた。サイを見て怪訝(けげん)な顔をした後、いきなり直立不動の姿勢をとった。


 「門番勤務中、異状ありません!」


 続けて小声で、先頭の女性にこぼした。


 「初めに言ってくれよ。驚くじゃないか」


 マントの女性は、兵士の言葉を聞かなかった。ばっと振り返り、ぎょっと姿勢が固まった。その視線を追って、サイも後ろを見た。


 いつの間にか、ユアンが立っていた。まるで初めから三人連れであったかのように、普段と変わらぬ笑みをたたえている。ただ、僅かに息が乱れていた。


 「ご苦労。しばし、外出する。夜明け前には戻る故、その旨リイにも伝えてくれ」

 「はっ! 承知いたしました」


 三人揃って門の外へ出ると、紋章付きの立派な馬車が待っていた。マントの女性は、困惑の(てい)であった。

 どうやら、ユアンは勘定外のようであった。すると、教会帰りに偶々(たまたま)来合わせたに違いない。

 当人は笑みを絶やさず、つらつらと馬車を眺めている。何処へ行くのか、察したようであった。


 「ユアン様。私どもは、これにて失礼致します」


 マントの女性は、意を決したように言った。ユアンは、馬車から視線を転じた。


 「ほう。修道女がしかるべき監督者なしに、夜間外出するのは禁じられているのに? しかも、サパ領主の教会から無断で連れ出すとは。如何にヨオン殿とて、どのような権限を(もっ)て行うのか。今ここで、お聞かせ願いましょう」


 口元には相変わらず微笑を浮かべ、声音は優しく、口調も丁寧であった。

 しかし、ユアンの目は冷ややかに女性を見下ろしていた。端で成り行きを見守るサイにも、突き刺さるような冷たさであった。


 サイは指摘されて、そのような規則があったことを、改めて思い出した。


 元々、城で相談するつもりであった。女性の意外な行動に驚いたものの、慌ただしい動きにつられ、止めることを失念していた。

 ユアンに射竦(いすく)められた女性は、進退(きわ)まったのか、サイに目で助けを求めた。


 「ユアン様がご一緒してくださるなら、問題ないでしょう」


 サイは言った。今朝方のこともあって、ユアンと馬車に乗るのは気が進まなかったが、罪科を避けるには、彼を同行するしか方法がない。


 しかし女性は、彼女の言葉を聞いて顔を強張らせた。ユアンが(たた)み掛ける。


 「当方は、明日、あなたのご主人が城へお越しいただいても、構いませんよ。あるいは、誘拐の嫌疑であなたを拘束することもできます」


 彼女は、細く長い息を吐き出した。


 「承知いたしました。では、お二人とも、馬車へお乗りください」


 マントの女性は、馬車の扉を開けた。その手は震えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ