サイ 夜の使者
その日の礼拝は、サイにとって全く満足のいくものではなかった。
唯一絶対神に祈りを捧げる最中にも、ユアンの美しい顔が火影のようにちらついた。
サイは、ひたすらに祈った。
リイが側へ来たことにも、すぐには気付けなかった。
背後に付き従うのは、ユアンに違いない。
サイは彼を視界へ入れないよう、リイを殊更に見つめた。
「何か、お役に立てますでしょうか」
喉が締め付けられる心地がした。リイは黙して首を振った。サイは、ほっとして祈りに戻った。
その日、トウ司祭は嫉妬の罪について説教を行った。
ユアンの妻リイを、羨ましいとは思わない。
教会の彫刻を愛でても良いならば、ユアンの美しさを愛でることも、また許されるのではなかろうか。
理屈を並べても、心の天秤はごまかされなかった。どう言い繕おうと、サイがユアンに対して抱いた感情は、修道女として間違っていた。
礼拝が終わり、人びとを見送るサイの前に、立ち止まる影があった。
顔を上げたサイは、そこにヨオンを見出した。
がっかりすると同時に、そのように感じた己の罪深さに、慄いた。
今朝、誰かを悪く考えたことに始まり、妻ある男性を勤めの最中に思い起こしたり、教会の擁護者たるヨオンに失礼な感情を抱いたり、一度堕落を始めた魂は、留まることを知らず、物が落ちるよりも早く地獄を目指すらしかった。
「どうも、顔色が悪いようです。もしや、滋養が足りていないのではありませんか?」
ヨオンは人の良さそうな顔に心配を浮かべ、サイを覗き込んだ。サイは慌てて否定した。
「いいえ。充分すぎるほどでございます。ヨオン様には、常々厚いご配慮をいただき、皆で日々感謝しております」
「そうですか。もし他のことでも、気懸りがありましたら、どうかご遠慮なさらず、何でもお話しください」
ヨオンの熱心な様子に、サイは連日床に落ちている花を思い出した。
思えば、あの花を見つけて以来、悩みが増えたようでもある。
「ありがとうございます。実は、花のことで少々お伺いしたいと存じますが」
いざ、サイが切り出すと、ヨオンから落ち着きが減じた。困惑した様子で、さりげなく辺りを窺う。
どうやらサイは、社交辞令を真に受けてしまったらしい。恥ずかしさで彼女は目を伏せた。
修道院の殻に守られて育ったサイには、未だ貴族との接し方が呑み込めない。
「その件については、少々込み入っております‥‥そうですね、仕事が終わってから、改めて夜にでも席を設けてお聞きしましょう」
俯いていたサイは、思いがけないヨオンの返答を受けて、驚いた。
すると、先の困惑は、サイの説明不足により、すぐには意味を汲み取れなかっただけのことであろうか。
ともかくも、相談に乗ってもらえる。サイは、礼を述べた。
夜間、外へ出られないことを思い出した時には、人の波がすっかり引き、ヨオンの影も形も失せて久しかった。
修道士たちと共に夕食を終えると、サイは食後の語らいには加わらず、一足先に部屋へ戻った。
夕食にはユアンが同席して、トウ司祭らと話を弾ませた。珍しいことではない。
ガル大聖堂を始め、サパ地方に散らばるワ教関係者は、機会さえあれば、一度ならず領主の館に併設された教会を見学したがった。時に、彼らは修道士とも食卓を共にした。
元々は、領主一家の個人的な教会、という位置付けである。
それ故、ライ一家の食堂に、トウ司祭を始めとした修道士全員が、招かれることもあった。そこには、サイも含まれた。
逆に、教会の食堂に、リイやユアンが訪れて食事を共にする日もあった。
彼らの持ち出す話題は、他の修道院に比して籠りがちな修道士たちの、良き慰めとなった。
これまではサイも例に漏れなかったのだが、朝の動揺が尾を引き、今日は貴重な話の半分も耳に入らなかった。
ユアンは常と変わらぬ態度で一同に接した。それがまた、サイの心をささくれ立たせた。
たった一日の間に、これほど心が揺れ動く。ただ事ではなかった。
一刻も早く、トウ司祭に告解を申し込むべきであった。
他方、ヨオンが原因を取り除くことに、サイは期待した。告解は、最後の手段でもあった。
部屋へ戻ると、ムウとワンが揃って立ち上がった。主の予想より早い帰還に、驚いたようであった。
彼女たちは、きちんと仕事を済ませていた。ベッドはきちんと整い、着替えて休む主を待つばかりであった。
サイは夜着に着替え、夜の勤めを始めた。
暫くすると、人の揉めるような物音が、サイの集中を乱した。
音は、なかなか止まない。
とうとうサイは、上着を羽織って寝室から出た。すると、部屋の出入り口で、ムウとワンが廊下の誰かと押し問答をしていた。ワンは傍目にも怒っていた。
「だから、サイ様はお勤め中ですってば」
「どうしましたか?」
ムウとワンが、はっとして体の向きを変えた隙をついて、誰かが部屋に入り込んだ。
見知らぬ女性だった。マントですっぽりと全身を覆い隠し、服装や髪型から身分を推し量ることはできなかった。マントから覗く顔と手足で、かろうじて性別が窺えた。
「お迎えに、上がりました」
声は低い。挙措や言葉遣いからは、高貴な身分に仕える召使いのようでもある。
「どなたの?」
「サイ様がご相談なさりたいとのことで、お迎えに上がりました」
彼女は繰り返した。相談事と聞き、サイは女性がヨオンの使いと思い当たった。
そういえば、仕事が忙しいから、夜にするよう言われていた。
社交辞令どころか、これほど迅速に対応してくれるとは、予想外であった。
ユアンにかまけ、忘れていた後ろめたさも手伝って、サイは女性に声をかけた。
「着替えるので、少しお待ちになってください」
ムウとワンは、不服顔であった。主のためにした事が、あっさり覆されたせいもあろう。
「今から、お出かけなさいますの?」
「こんな夜更けに一体、どちらへ?」
「大丈夫。心配ありませんから」
使いの様子から、サイはヨオンの名を敢えて出さなかった。
彼は、込み入った事情がある、と言っていた。どのみち入城の際、身元の確認を取る筈である。いずれ彼女らも知るとしても、サイから教えるのは、彼に対する裏切りのような気がした。
告解に限らず、宗教者は信者から預かった秘密を守らねばならない。これからどのような話があるのか、まだわからないのである。
寝室の扉を半開きにし、手早く着替える間も、ムウとワンは、代わる代わる使いを問い詰めた。
二人とも、城に出入りする主立った人間は、把握していたが、彼女に見覚えはないようだった。
ヨオンは、大貴族ソオンの息子である。サイや二人が見知らぬ召使いなど、他にも山と抱えているに違いない。
彼女は如何に問われても、余計な口を利かなかった。
支度を済ませたサイが出てみると、ムウもワンも女性の正体を探ることを諦め、その分だけ不安が募ってきたようであった。
「本当に、大丈夫でございますか?」
「何かあったら、と思うと心配で‥‥」
「きっと、それほどかからないと思います。どうか、心配しないでください」
三人のやりとりを耳にしても、マントの女性は、何も言わなかった。
サイは彼女について部屋を出た。彼女はどんどん足を速めて先を急ぐ。その行き先は、サイが考えていた城内とは、反対方向であった。
サイが質問を差し挟む暇を見つけられないうちに、とうとう城門まで来てしまった。
夜のことで、大門は閉まっている。脇に設えた小門のところに、番兵がいた。サイを見て怪訝な顔をした後、いきなり直立不動の姿勢をとった。
「門番勤務中、異状ありません!」
続けて小声で、先頭の女性にこぼした。
「初めに言ってくれよ。驚くじゃないか」
マントの女性は、兵士の言葉を聞かなかった。ばっと振り返り、ぎょっと姿勢が固まった。その視線を追って、サイも後ろを見た。
いつの間にか、ユアンが立っていた。まるで初めから三人連れであったかのように、普段と変わらぬ笑みをたたえている。ただ、僅かに息が乱れていた。
「ご苦労。しばし、外出する。夜明け前には戻る故、その旨リイにも伝えてくれ」
「はっ! 承知いたしました」
三人揃って門の外へ出ると、紋章付きの立派な馬車が待っていた。マントの女性は、困惑の体であった。
どうやら、ユアンは勘定外のようであった。すると、教会帰りに偶々来合わせたに違いない。
当人は笑みを絶やさず、つらつらと馬車を眺めている。何処へ行くのか、察したようであった。
「ユアン様。私どもは、これにて失礼致します」
マントの女性は、意を決したように言った。ユアンは、馬車から視線を転じた。
「ほう。修道女がしかるべき監督者なしに、夜間外出するのは禁じられているのに? しかも、サパ領主の教会から無断で連れ出すとは。如何にヨオン殿とて、どのような権限を以て行うのか。今ここで、お聞かせ願いましょう」
口元には相変わらず微笑を浮かべ、声音は優しく、口調も丁寧であった。
しかし、ユアンの目は冷ややかに女性を見下ろしていた。端で成り行きを見守るサイにも、突き刺さるような冷たさであった。
サイは指摘されて、そのような規則があったことを、改めて思い出した。
元々、城で相談するつもりであった。女性の意外な行動に驚いたものの、慌ただしい動きにつられ、止めることを失念していた。
ユアンに射竦められた女性は、進退窮まったのか、サイに目で助けを求めた。
「ユアン様がご一緒してくださるなら、問題ないでしょう」
サイは言った。今朝方のこともあって、ユアンと馬車に乗るのは気が進まなかったが、罪科を避けるには、彼を同行するしか方法がない。
しかし女性は、彼女の言葉を聞いて顔を強張らせた。ユアンが畳み掛ける。
「当方は、明日、あなたのご主人が城へお越しいただいても、構いませんよ。あるいは、誘拐の嫌疑であなたを拘束することもできます」
彼女は、細く長い息を吐き出した。
「承知いたしました。では、お二人とも、馬車へお乗りください」
マントの女性は、馬車の扉を開けた。その手は震えていた。