サイ 落花
サイが小間使いに答えようとした時、背後に人の気配を感じた。ムウとワンが、驚きの表情を見せる。
振り向くと、リイとユアンが並び立っていた。部屋の入り口を額縁とした、肖像画のように美しい二人であった。
「これはこれは、リイ様にユアン様」
ヨオンが快活に話しかけた。先ほどまでの冷ややかさは、すっかり消えていた。
リイから部屋を気に入ったか、と尋ねられたサイは、丁重に礼を述べた。
「教会をご覧になりましたか?」
ユアンが尋ねた。
これからだ、とサイが答えると、ヨオンに加えてリイとユアンも、教会へ行くことになった。
自室から教会への道のりは、これから毎日往復しなければならない。サイは、目印となりそうな物をメモしながら歩いた。
「ムウに送り迎えさせます。心配要りませんよ」
サイの様子に気付いたユアンが、声をかけた。彼女は、ほっとして筆記具を仕舞い込んだ。
教会の入り口では、トウ司祭が出迎えてくれた。
「よく来てくれた。サイと一緒に仕事することになって、私はとても嬉しい」
そこで、ヨオンたちとは別れた。
まず足を踏み入れたのは、トウ達が生活する部分であった。
柱にも壁にも彫刻が施されており、絵画や彫刻も配されている。サイの部屋の豪華さに引けを取らない。
サイは、自分だけが特別扱いではなかったと知り、少し安心したのであった。
「高貴な方々が多く礼拝なさる建物で、致し方ない面はあるけれども、私たちにとっては、あまりに華美に過ぎて、悪い影響を及ぼさないか、心配になるよ」
通路を歩きながら、トウが独り言のように呟いた。サイは、その言葉に深く同意した。
彼女は、それからトウに礼拝堂を案内されながら、日々の仕事の説明を受けた。
食料の調達を始め、食事の用意や片付けといった、細々した生活上の仕事は、城から特に任命された者たちが行っていた。
教会を訪れる女性信者に世話が必要な時以外は、ただひたすら唯一絶対神へ奉仕すればよい、という話であった。
「日々の営みに神へ近付く道があるとすれば、ここでの勤めは傍目よりも厳しい道となろう。くれぐれも、精進を怠らぬよう、自戒せねばなるまいよ」
「はい」
その後、二人は食堂へ行った。そこには、サイの同僚となる修道士が勢揃いしており、食事の前に互いに紹介し合った。
いずれもサイより年長で、見目のよい者ばかりであった。
そして、修道女は、彼女一人であることを知った。
食事は終始、和やかに進んだ。
食卓には、一見して修道院と変わらぬ料理が並べられていた。
実際口に運んでみると、同じ料理の筈なのに、まるで違った味わいであった。
修道院でも、良い素材を使って調理していた。自分たちで収穫した物だ。鮮度には自信がある。
ここでは素材の上に、高価な香辛料や、厳しい修行を経た料理人の腕が加わって、一段と洗練された料理に変貌を遂げていた。
トウの予言は正しかった。
城における生活は、確かに恵まれていた。サイを必要とする令嬢は、ほとんどいなかった。城まで足を運ぶような貴婦人は、見目麗しい修道士を目にしても、路傍の石ほどにも気にかけなかった。
時折訪れる深窓の令嬢には、既にお付きの婦人が寄り添い、サイが出るまでもなかった。
従ってサイは、教会にいる間、ひたすら侍している日が多かった。
確かに、修道女は一人で十分であった。
生活上の雑用はもとより、寄附を募る必要もなく、純粋な教会の仕事に専念できる環境は、一見ハルワティアンを凌いでいた。
こうした環境が神への道を縮めるかと言えば、むしろ道を覆う茨の役割を果たしていた。
上物の衣服を纏い、吟味された食材を食み、絢爛たる建物と高貴な人々に囲まれ暮らす中で、自らがそれら全ての事物と一線を画した、しかも卑賤な存在である、という認識を保ち続けるには、考えるだに困難である。
先人の書物から戒めを得ようにも、こと宗教に関する蔵書は、ハルワティアンに遥か及ばなかった。
サイのため、特につけられた二人の召使いの存在も、茨の一枝をなしていた。
二人とも、召使いとしては相当に有能であった。
それは、僅かな期間ながらもソオンの屋敷で働き、煙突掃除であちこちを回ったサイにも、感じ取れた。
すなわち、主にいちいち指図されずとも、期待される仕事を、手落ちなく行う。
以前に聞いた話によると、召使いは、如何に楽をして給金をせしめるか、如何に主の財産をごまかして余分に儲けるか、が最大の関心事で、言いつけられた仕事でさえも、主の目を盗んで手を抜くことを誇る人種、ということだった。
当時仕事を覚えるだけで精一杯だったサイには、抜け目のなさを発揮する機会はなかった。
思い起こせば、先輩諸兄の怪しげな行動を目にしたことは、しばしばあった。
長じて彼らの行動の意味が理解できた時には、修道女となっていた。サイは過ちを犯さずに済んだ幸運を、神に感謝したものである。
ところが、ムウもワンも、怠けるという言葉を知らないようであった。
いつでもサイの居室はきちんと整えられており、サイに不便のないよう、常に気配りがなされていた。
常に、サイの動向を窺っている、とも言える。
高貴な人々は、生まれた時から、そのような環境で暮らし、慣れてもいよう。
サイには、始終見張られているようで、それと気付く毎に、窮屈に感じられた。
サイは孤児であった。恐らくは、彼女らより下層の出身である。
友人として親しくなれば、互いに接しやすくもなろうかと、折りに触れ話しかけてはみたものの、二人とも主従の一線を超えようとせず、慎ましやかな受け答えに終始した。
二人の優秀さが、サイには却って仇となる形であった。
神に見守られていると考えれば、気にならないかもしれない、と終いにサイは考えた。
しかし、唯一絶対神と召使いを一緒にしてよいものかどうか、迷うところである。
サイは、城で孤独感を深めた。教会にはトウ司祭がいるとはいえ、ほぼ常に修道士たちに囲まれている。言葉を交わす機会は、僅かであった。
ムウとワンは、あくまでも召使いの立場を守っている。
サイもまた、修道女としての立場を忘れずにいた。従って、教会を訪れる貴族達や領主一家と親しく言葉を交わすなど、論外であった。
彼女は自然、唯一絶対神へ祈りを捧げる時間を多くした。
サイは、三度の食事をトウ司祭や修道士たちと、共にしていた。
朝食に間に合わせるには、夜明け前から寝台を離れる必要があった。仕度を終えると神に祈りを捧げ、部屋を出る。
初めのうちは、ムウとワンが、サイの起きるのを待ち構えて仕度を手伝ってくれたのを、相当強く言って、どうにか止めさせたのである。
今は前夜のうちに準備を整え、サイが部屋を出る頃に、扉の外で待っている。
サイの起きる時間から待ち続けているかもしれないが、そこは相手の信念もあり、妥協するしかない。
漸く手に入れた、独りの時間である。
神への祈りを捧げる以外、特に何をするでもない。
独りで唯一絶対神と向き合う時間は、今の生活において、この上なく貴重であった。
その日も、サイはいつもの通り唯一絶対神に祈りを捧げ、教会へ行こうと部屋の出口へ向かった。
床に、一輪の花が落ちているのが目に留まった。
今の季節にはありふれた花で、サイの部屋にもワンが花瓶に挿して飾ってくれた。
花瓶から落ちたにしては、落ちている場所が離れ過ぎている。
開いた窓が目についた。
朝仕度を終えると、サイは空気を入れ替えるため、窓を開け放っていた。また、その方が、より神に近付けるように感じられたのである。
鳥が、巣作りのために銜えて落としたものであろうか。サイは、窓から顔を出して辺りを見回したが、巣も鳥の姿も見つけられなかった。
扉を開けると、侍女のムウと小間使いのワンが、揃ってお辞儀をした。
「サイ様、おはようございます」
「おはようございます。この花、部屋に落ちていました。花瓶に挿しておいてください」
「まあ、花瓶から抜け落ちてしまいましたか。失礼しました」
ワンが酷い失態を犯したように、顔を赤らめた。サイは、急いで窓の側に落ちていたことを説明した。
ムウとワンが顔を見合わせた。二人の間で、サイの知らない言葉が交わされているような、印象を受けた。
「何か心当たりがありますか?」
「いいえ」
二人は揃って首を振った。サイは、花をワンに渡すと教会へ行った。この頃には、道を覚えて一人で往復できるようになっていた。
同じ出来事が、五日ばかり続いた。
さすがにサイも、鳥の仕業とは考えなくなった。第一、祈りの前後で鳥の気配もない。
貴重な祈りの時間を乱されることに、不快を感じた。
誰かが、サイの祈りを邪魔している。
そんな風に人を悪く考えたのは初めてのことであった。サイは衝撃を受けた。
トウ司祭の警告にも関わらず、悪の道へ陥ちてしまった、と蒼くなった。
ムウとワンにも上の空で挨拶をし、教会へ急いだ。一刻も早くトウに懺悔して、元の正しい道へ戻らなければならない。
誰かにぶつかって、サイは目が覚めたようになった。
「失礼しました」
「いいえ、何ともありません。あなたこそ、お怪我はありませんか? 顔色が、随分と優れないようですよ」
驚いたような顔をした、ユアンがいた。リイの夫、すなわち将来サパ地方の領主夫君となる人物である。
そのような高貴な人に体当たりをするなど、悪く取られれば、暗殺未遂ともなり得る。
サイは動揺している折り、ますます蒼くなった。ユアンが深刻な顔をして、覗き込む。
「慣れない環境で、修道女は、一人きりでおられる。何かと、お疲れなのではありませんか? もしお困りの事があれば、遠慮なくお話しなさい。部屋まで送りましょうか?」
「はい。いいえ。ありがとうございます。あの、一人で教会まで参りますので、どうかお気遣いなく。本当に失礼致しました」
サイはほとんど平伏せんばかりにした。それでユアンも、気にしないよう再度言い置いて、立ち去った。
彼が去った後も、彼女は暫く顔を上げられなかった。
間近に見たユアンの顔が、教会の彫刻に負けないくらい、美しいことに打たれたのである。