サイ 新しい住まい
サイは貴族の男が手助けすると言うのを丁重に断り、自力で馬車に乗り込んだ。
すると貴族もまた、サイの後から同じ馬車に乗り込み、はす向かいの席へ落ち着いた。
馬車が動き出した。
高貴な身分の、しかも男性と狭い馬車に閉じ込められ、サイは緊張と困惑を感じた。その上、相手がこちらを見知っているのに、思い当たらないのである。
サイは顔を外へ向け、窓から見える景色を眺めた。男性を視界から追いやることで、緊張が緩んで記憶が蘇ることを願った。
馬車からの町並みは、彼女が修道院の施しで歩き回った町と、少しく違って見えた。
女性たちの髪飾りや、男性の頭頂部から透ける皮膚までよく見えた。
「城の教会をご覧になるのは、初めてでしょう」
とうとう、貴族に話しかけられた。サイは礼を失しないよう、恐る恐る顔を戻した。
相手は、サイが彼を思い出せないとはつゆ知らず、人の良さそうな笑みを浮かべていた。
「小規模ですが、ハルワティアンに劣らぬ立派な内装と評判です。担当した私としても、鼻が高い。是非、サイ殿にも感想をお聞かせ願いたいものです。あなたはハルワティアンに詳しいでしょう。ときに、シェンさんとは、その後連絡を取りましたか?」
漸く、サイは思い当たった。彼は、ソオンの息子であった。
ガルの女子修道院へ話を聞きにきた、貴族の一人である。シェンの縁者でもあり、確かヨオンという名前であった。
サイは心のうちで、シェンと神に感謝した。彼女の名前が出なければ、思い出すことは難しかったろう。彼女にとって、貴族は別世界の住人であった。
「いえ。こちらへ戻りましてからは、取り立ててせずにおります。そうした決まりとなっております」
サイは、安堵から緊張を緩ませながら答えた。ヨオンは気落ちする様子もなく、城の教会に話を戻した。
彼は教会の設計を担当する以前に、そもそも城の礼拝堂を改築する計画の立案者でもあったらしいことが、その話から窺えた。
領主だけでなく、こうした貴族の後押しがあってこそ、新たな教会を建てるという偉業がなされたのだ、とサイは改めて神威に感じ入った。
馬車は坂道に差し掛かった。領主の居城は、小高い場所にある。
ヨオンからは、教会へ行く前に、領主一家へお目通りする、と伝えられた。
「後ほど詳しい説明があるでしょうが、あなたは城に住み、教会へ通うことになります。何しろ規模が小さいので、修道女専用の部屋を作れませんでした」
ヨオンは、如何にも残念そうに語った。
その件はサイも承知していたが、特に気にかけてはいなかった。
煙突掃除の仕事に就いていた時は、暖炉前の床に直に寝ていたものである。教会での仕事に差し障りがなければ、何処で寝もうと問題ない。
城へ向かう坂道は、徐々に勾配がきつくなり、馬の蹄が小刻みに音を立てる。
道に沿って、馬車が大きく回ると、サイの目に町並みが一気に飛び込んできた。
彼女は、初めて目にする眺望に、注意を奪われた。馬車が、がたん、と大きく揺れた。
景色に気を取られていたサイは、弾みで座席から滑り落ちてしまった。
窓の外を、立派な馬車が下って行くのが、垣間見えた。道を譲るために、サイの乗った馬車が端へ寄ったのであった。
「お怪我は、ありませんか?」
すぐ耳元で声がするまで、サイは己が貴族に凭れ掛かるようにしていたことに、気付かなかった。分厚い修道服が、人肌の温もりを遮っていた。
「失礼致しました。あなた様には、お怪我なさいませんでしたか?」
はや動き始めた馬車の揺れに逆らって、サイはできるだけ彼から遠ざかるようにして、座り直した。
ヨオンにも怪我はなかった。しかし彼は、それから城に到着するまで、ふっつりと話を止めた。
口を噤むヨオンは、熱っぽく語っている時よりも、老けて見えた。
御者の掛け声と蹄の音、車輪の回る音ばかりが、騒々しく響いた。
城の方は、訪れる者を拒むような直線的な造りであった。修道院よりも、装飾が少ない。
隙間なく積み上げられた石を、蔦や苔などが覆う。
一歩足を踏み入れると、古色蒼然とした外観と裏腹に、きちんと手が入り、住人の息吹を感じ取れた。
ヨオンとサイは、出迎えた召使いに先導され、先祖代々の肖像画に見下ろされるホールを抜けて、通路を幾つも折れ曲がった先にある、広間へ案内された。
正面には、凝った造りの椅子が数脚並べられていた。それらは、一つ一つが異なる形であった。
サイは椅子に向かって跪き、頭を垂れた。
「皆様がお見えになられるまでは、立ったままでも構いませんよ」
脇に立つ、ヨオンが言った。
「失礼に当たらないのであれば、このようにした方が、楽なのです」
サイが応えると、ヨオンは重ねて立つようには勧めなかった。
さほど待つ間もなく、軽重入り交じった靴音が、石造りの床を通して伝わってきた。衣擦れの音が耳につく。彼女は頭を垂れたまま、領主一家の動きが止まるのを待った。
「サイとやら。面を上げなさい」
重々しい声に促され頭を上げたサイの目に、くっきりと一人の女性の姿が映し出された。
すぐに、領主の娘リイと知れた。
リイは以前に顔を合わせた時と少しも変わらず、その時にも増して美しかった。
領主ライとその奥方リウ、リイとその夫君ユアンが、そこに揃っていた。
サイは、眩しさのあまり、すぐに顔を伏せてしまった。幸い、無作法を咎められることはなかった。
「生まれはどこか」
「サパ地方北部のホン地区です」
「親は名を何と申す」
「唯一の肉親である母親が、名を人に告げぬまま、私を産んだ時に死にました。親の名は存じません」
「何ゆえ修道院へ入ったのか」
「私が生まれた時、ホンの教会にいらしたトウ司祭様のお導きにより、修道に励むことになりました」
「この度の務めに当たり、思うところがあれば、述べてみよ」
「はい。領主様ご一家のお側で、新しい教会にご奉仕することを、貴重な修行の機会と感じております。これまでと同様、神の御心に叶うよう、一心に務めたいと存じます」
ここでも、サイは質問攻めにあった。今回は、教わらなかった事ばかり訊かれる点が、修道院長の問いと異なっていた。
サイは誠実に答えようと努めた。
謁見はあっという間に終わった。領主一家の退出を見送り、サイは再びヨオンの案内に従った。彼なしには、部屋を出て一歩も進めなかった。
「それでは、教会へご案内する前に、サイ殿の部屋へ行きましょう」
ヨオンは、サイと並んで歩き始めた。
てっきり途中で誰か女性に引き渡されるかと思いきや、そのまま二人は、とある部屋の入り口に到着した。
「こちらです。そして、これが部屋の鍵」
ヨオンは懐から取り出した鍵をサイに渡すと、扉を開けて部屋の中へ先に入った。
扉には、鍵がかかっていなかったのである。中から、あらとかまあとかいった声が聞こえたので、サイも急いで後を追った。
一歩入った所で、立ちすくんだ。部屋を間違った、と思った。
修道女の住む部屋とは、到底思えなかった。
窓の両側には刺繍入りのカーテンがかかり、その下に細かい複雑な紋様が編み込まれたレースのカーテンがあった。
天井から流麗な彫刻が施されたシャンデリアが下がり、壁にも同型の燭台が幾つも取り付けてある。
燭台の間には宗教画がかけられており、いずれも立派な額縁で飾られていた。サイにも、ひと目で有名画家の手になる作品と見分けられた。
彼女は、ハルワティアンの図書室で、同じ画風の絵を鑑賞した覚えがあった。
窓際にある小机にも、立派な把手のついた引き出しが並ぶ。
天井まで届くほど大きな本棚は、既に豪華な装幀の本で、半分方埋まっていた。
部屋の中央には大きなソファがあり、分厚い絨毯が敷いてある。しかも、入ってきた扉の他にも扉があった。奥に続き部屋があるようだった。
全て新しく取り揃えた品であることは、一目瞭然であった。この贅沢な部屋の前では、副修道院長の部屋ですら、霞んで見えた。
部屋には二人の若い女性がおり、サイ達の闖入に驚いた様子で、やはり立ちすくんでいた。
サイより若い、利発そうな少女と、サイよりやや年上と思われる落ち着いた感じの上品な女性の二人である。
三人の女性が固まる中、ヨオンは部屋にいた二人とサイとの間に立った。
「予告もなしに、驚かせて悪かったね。サイ殿。こちらは侍女のムウで、こちらが小間使いのワン。それで、こちらがあなた達のお仕えするサイ殿だよ。挨拶したまえ」
「お初にお目にかかります。侍女を務めますムウと申します。この度は、サイ様にお仕えすることになりまして、非常な光栄に存じます。何卒、気兼ねなくお申し付けくださいませ」
最初に立ち直った、上品な女性が挨拶した。サイには、領主一家にひけをとらない優雅な物腰と見えた。
「お初にお目にかかります。小間使いのワンと申します。サイ様にお仕えするのは大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いします」
続けて、少女が頭を下げた。まだ顔も体も強張っていた。サイは微笑みを返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。私は孤児の出で、これまで長く修道院で暮らしました。お城の習慣や作法など、何も知りません。失礼なことやおかしなことがありましたら、どうか教えてくださいね」
サイが荷物を置こうとすると、早速ワンが進み出て、恭しく受け取った。
使い古しの鞄には、似つかわしくない扱いであった。ワンは鞄を持って、奥の扉へ消えた。ヨオンがサイの視線に気付いた。
「奥の部屋もご覧になりますか。案内させましょう」
「ヨオン様、それは‥‥」
ムウがたしなめるような調子で言ったことに、サイは気付いた。
ヨオンは、平然とムウを見返した。
「ムウ。何か?」
その声の調子は、最前と違って、冷ややかであった。
ムウが返事に詰まったところへ、ワンが空手で戻ってきた。
「お荷物は寝室へお運びしました。もう、このままお部屋にいらっしゃるのですか?」
ワンは、その場の緊張に気付かぬ様子で尋ねた。