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サイ 出生

 サイが生まれたのは、農家の牛小屋であった。

 牛小屋で幸いだった。羊小屋だったら、産婦の悲鳴に怯えた羊が怯えて大騒ぎしたであろうし、馬小屋だったら、血の匂いで興奮した馬に蹴り殺されていたかもしれない。


 牛は昼間たらふく草を食い、満足するまで反芻(はんすう)した後だったので、ちっぽけで痩せて腹ばかり丸い奇妙な人間が隅の方で少しばかりじたばたしたところで、一向気にかけなかった。


 牛小屋の主も妊婦が出産することを気にかけなかった。そもそも牛小屋に人間の妊婦のいることを知らなかった。


 農家の主人は次の日の労働に備えて、早くから床に就いていた。農家の朝は早い。夜明け前から一日が始まる。


 サイを初めて見た人間は、農家の三男坊であった。牛を小屋から連れ出そうとして、隅に少しばかり積み残してあった藁にまみれたサイを見つけた。

 彼は家畜の出産を手伝い、妹や弟の出産をこっそり覗いたこともあった。自分が見つけたものを即座に理解すると、脱兎の如く母屋へ戻り、母親に報告した。


 「大変だ。牛小屋に赤ん坊がいるよ」

 「あれ、まだ鼻白は産み月じゃなかったのに」


 農婦はてっきり孕み牛が早産したものと勘違いして、慌てて夫と駆けつけた。そして、サイを見つけた。


 「死んでいるよ、こりゃあ」


 農夫が手に持った灯りを近づけたのは、サイの頭上で仰向けになっている、やはり藁まみれの産婦であった。

 元はどのような服だったのかわからないほど継ぎだらけで汚れた衣服に上半身を包み、自分でめくりあげたのか剥き出しの下半身は血まみれである。目を見開き、血塗られた口を半開きにしたまま、ぴくりとも動かない。


 「ふにゃあ」

 「あら、生きているよ」


 農婦が呆れた声を出した。そして、サイを持ち上げた。ちぎれたへその緒がだらりと垂れた。手際よく三男坊が妹と運んできた水を張った盥に漬けたのは、五人も赤ん坊を産んだ経験の賜物である。赤ん坊を洗っているうちに、農婦は我に返った。


 「どうする、これ?」


 「どうするったって、お前。生きているもの。埋めるわけにもいかないだろうに。この女、この辺りの者じゃないな。おい。ひとっ走り神父様のところへ行って、来てもらえ」


 三男坊はすぐさま牛小屋を走り出た。彼は、毎日同じことを繰り返す日々にもそれなりに満足していた。それが今、わくわくするような、飛び上がって叫びたいような興奮に駆られていた。

 教会へ向かう足取りは軽かった。赤ん坊を生んだ女が誰であれ、彼がそれを一番に見つけたことは、しばらく仲間内で自慢できるだろう。

 牛小屋に両親と共に残された妹は、母親が赤ん坊を洗う様を、興味深く見守った。



 サイは修道院が営む孤児院に預けられることになった。


 乳の出る人間がおらず、代わりに山羊の乳を与えられた。

 孤児院に来た時、既に赤ん坊はサイであった。これは、生まれた場所近くに住む神父がつけた名であった。


 孤児院の院長は特に異を唱えなかった。孤児の名前は、管理の手間を省くために重複さえしなければ何でもよかった。


 院長は、持ち込まれる赤ん坊にいちいち名付ける面倒が省けた分、軽い喜びさえ感じた。さりとて、名無しの赤ん坊に名付ける時、彼が少しでもよい名前を捻り出そうと考えはしないのである。


 まだ自力で乳を飲むこともできないサイの世話係として、メイが選ばれた。メイもまだ生まれてから数年しか経っていなかった。自分で食べ物のあるところまで行くことはできるが、労働に役立つほど成長していない。


 それが、彼女の選ばれた理由であった。それでもメイはサイを懸命に世話した。一つには、サイが山羊の乳を飲むときに、こっそり分けてもらえるからである。


 サイには分けるという意識はないから、勝手にメイが横取りしているとも言える。サイが死んでしまえば自分も山羊の乳にありつけない。だから、メイは少しの量を味わうだけで満足していた。


 もう一つ、サイの夜泣きで他の者が寝不足になるのを防ぐため、メイとサイには個室が与えられた。個室と言っても、山羊小屋とほとんど変わらない。それでも、一つ部屋に大勢で眠るのが当たり前の孤児たちには、羨ましいことであった。


 実際世話をするメイは、まだ口も利けないサイと二人きりでいなければならないことが、如何に大変なことかを、ほどなく知ることになった。


 しかし個室が特権であることに変わりはなかった。さらには、他の子どもにサイを自慢できた。大人の目を盗んではメイの周りに集まる子どもたちは、いつも珍しげにサイを眺めて飽きなかった。

 そして、メイがサイを所有していることを羨ましがった。仲間から羨望の眼差しを向けられるうちに、メイにもサイを大切にしようという考えが生じた。そういう理由からも、彼女は赤ん坊をよく世話したのであった。



 サイはすくすくと大きくなり、メイが最初に見た頃と同じくらいの大きさになった。

 もうその頃にはメイはサイの世話係から外れ、他の子どもたちと一緒に働いていた。サイはまだ働くことができるほど大きくはなかったので、同じくらいの大きさの子どもたちと一緒に勉強をした。


 修道院から修道女が孤児院へ教えにくると、子どもたちは、文字の読み方と書き方を教わった。

 神の教えを知ることと、自分の名前ぐらいは読み書きできるようにするのが、ここでの勉強の目的だった。


 だから、難しい単語や文法まで読み書きを覚える必要はなかった。大抵の子どもたちは自分の名前を読み書きすることで精一杯で、それができるようになると満足する。


 神の教えについては、修道女がいなくとも、毎日の日課に組み込まれており、自然身に付くようになっていた。時折、教わったことだけでは満足せずに、貪欲に学ぼうとする子どもがいる。そうした子どもを見出すと、修道女は子どもがどこまで学問を吸収するのか確かめるように、課題をどっさり出して、好きなだけ学ばせた。


 サイも貪欲に学ぶ子どもであったが、修道女の目にはついぞ止まらなかった。そこでサイは課題をどっさり出してもらった子どもの後をついて、自分で一緒に学んだ。


 時には課題を出してもらった子どもより早く、より多くを学ぶことすらあるにもかかわらず、サイは修道女の目には止まることがなかった。


 「そろそろサイにも働いてもらってよさそうだね」


 「そうですね。近頃ではあの子はできる子の後ばかりついて歩いております。馬鹿なことを覚える前に、労働を体に覚えさせた方がよろしいかと存じます」


 サイは他の子どもたちよりもやや早い時期に、労働に加わることとなった。



 孤児院の子どもたちが最初にする仕事は、身の回りをきれいにすることである。

 乳搾りや縫い物、畑の世話をするといった仕事もあるが、サイにはまだ難しかったので、主に磨き仕事が割り振られた。


 床磨き、窓磨き、扉の把手磨きはするが、食器磨きや飾り物磨きはまださせられない。

 高価な物を誤って壊してしまうかもしれないからである。


 サイは小さく身軽で、高い所にも怖がらずに登るので、窓磨きをよくさせられた。サイは窓を磨きながら、中で行われることを観察した。


 子どもたちが勉強している部屋の窓を磨く時には、手本を覗き込んで一緒に勉強した。院長の部屋の窓を磨く時には、壁にぎっしりと詰まっている本の背表紙を読み取った。


 「あれは何をしているのです、院長?」


 「え。ああ、窓ふきをしているのでしょう。来客中は止めるよう言ってあったのですが、何か手違いがあったようですみません。すぐ止めさせます」


 「いや、結構です。気にしません。なかなかよく働きそうですな。名前は?」

 「あれは、サイ、と言います」


 サイは孤児院を出ることになった。孤児の誰にも出発を知らされることはなかった。メイはいつもの通り働いていたので、サイはお別れを言うことができなかった。



 サイが貰われた先は、ソオンという大貴族の館であった。

 院長と話していたのはソオンに仕える召使い頭で、主人の命に従い寄付を届けるついでに、新たな働き手を探していたところであった。


 大きな館に到着すると、召使い頭は館の正面玄関を避けて、サイを裏手へ連れて行った。そこは館に仕える人々の溜まり場であった。今はそれぞれが仕事をする時間であったので、残っていたのはたまたま居合わせたらしい女中頭であった。


 「おや、こんな小さい娘を連れてきてとは頼まなかったよ」

 「確かに小さいが、なかなかすばしこい奴だ。鍛えがいがあるぞ」


 召使い頭はサイを置いて行ってしまった。女中頭は、残されたサイを上からじろじろと観察した。


 「まだ制服も着られないほど小さいじゃないか」


 ぶつぶつと文句を言った。それからやにわに立ち上がり、部屋の戸口まで行くと、奥に向かって叫んだ。


 「ちょっと、誰かボーを呼んできな」


 女中頭はまた元の席に戻り、どっかりと腰を据えた。サイの位置からは高すぎて見えなかったが、どうやら帳簿を広げているようであった。女中頭はサイの存在を忘れたかのように、机上の作業に没頭した。


 「お呼びでしょうか」


 戸口から弱々しい声がした。ひょろりとした少女が立っていた。孤児院にいたメイと同じぐらいの年齢で、灰色の服の上に白っぽい布を巻き付けていた。女中頭はぱっと顔を上げて、戸口を見た。それから、サイを指差した。


 「ボー、あんたこの娘の世話をして、一人前に働けるように仕込むんだよ」

 「わかりました」

 「ほら、お前。とっとと行きな」


 しっ、しっ、と犬を追い払うのと同じ手つきで、女中頭はサイに手を振った。サイはボーの元まで歩いて行った。ボーは背が高かった。


 「お前、名は何と言うの?」

 「サイ」

 「そう。サイ、ついておいで」


 ボーはそう言って、サイの手を引いて戸口から奥へ入った。薄暗い通路を歩いていくと、ぱっと目の前が明るくなって、広い場所へ出た。そこでは大勢の女性が立ち働いていた。皆、ボーと同じような格好であった。水の流れるような音が聞こえ、蒸気が立ち上っているようなところが見えた。誰も彼も忙しそうで、ボーとサイが入ってきても、見向きもしない。


 「洗濯場だよ。今から、お前はここで働くんだ」


 ボーは言った。そしてサイの手を握ったまま、人を掻き分けて奥の方へ進んだ。ボーや大勢の洗濯女が着ているような色合いの布が山積みになっている場所があった。ボーは、山の中からサイの大きさに合いそうな服を一揃い引っぱり出した。サイが着替えると、ボーは満足そうに頷いた。


 「ずっと前から働いていたみたいに、似合っているよ、サイ」


 実際のところ、その服はサイにはやや大きめであった。

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