Scene Alfa-2【Splendours Season1】
殿下が襲われたことをパトリック陛下に伝えるのが先決か、それとも湯浴みを優先するか。襲われたのを先にすれば絶対といえるほどリューク陛下の返り血を浴びながら殿下にお会いになるだろうし、湯浴みを先にすればきっとお疲れになって休まれた殿下の記憶を無理やりにでも消そうとするだろう——。
答えが出ないまま階段の踊り場で頭を抱えていると、ふと一つの中庸に辿り着いた。
「分身してしまえばいいんだ」
そう呟き指を鳴らすと、すでにその場には二人のマルクがいた。お互いに顔を見合わせた後、片方は風呂場のある上の階へ登っていった。
そして残された方は階段を降り、主人の部屋へ向かっていった。
このナイトフォード宮殿でも一二を争う巨大な白の扉。それを前にすると、いくら背の高いマルクでも小さく見えてしまう。
「パトリック陛下、お休みのところ失礼いたします」
ノックしたのち、目の前の重い扉を開いた。防犯だかなんだか知らないが、手動で開けることを想定していないこれには腹が立つ。ましてこの一大事なら尚更だ。
だが扉の奥に広がる景色に毎度その言葉を打ち消される。
朝日と調度品の白が入り混じり合い全てが水晶でできたように美しく、反射した光が目に曇りを持たせるがゆえにまるで雲のように見える。さながら天使が住まう天界に迷い込んだ気分だ。
その広い空間の中央にある円形のベッドには天窓からの溢れんばかりの光が柔らかく差し込んでいる。だがそこはまだメイドが入っていないはずなのに綺麗に整えられていて、パトリックの姿はなかった。
「こんな朝早くに何事だ」
視線を横にそらすと、パトリックはすでに起き上がり壁際のソファに腰掛け紅茶を飲んでいた。
「申し訳ありません陛下。オーウェン殿下について、急ぎご報告差し上げなければならない事態が発生いたしました」
パトリックの目の色が変わった。
「それで、内容は?」
「先ほど、私の私室に——体液をお被りになったオーウェン殿下がお越しになりました」
「なんだ精通か。まぁ早いといえばそうなんだろうが——」
「違います。決してオーウェン殿下のものではありません」
マルクの声が静かに響いた。
「失礼ながら殿下の内を読ませていただいたところ、リューク陛下が関わっているものと見られました」
その言葉が部屋を満たして数秒後、パトリックの足元には紅茶のシミができていた。
「——なるほど」
カップの飲み口から滴る水滴のようにか細い声だった。一方で平然を装っているのかずいぶんとゆっくりした声だが、確かに殺気を感じる。長年パトリックに仕えていたマルクでさえ感じたことがない殺気を。
「……ですが殿下は自身が受けたことの重大さに気づいておりません。感覚としては暴行を受けたという程度でしょう」
パトリックが今にも立ち上がりそうになっている。
「なりません陛下。少なくとも今は心に深い傷を負われておりません。ですが執拗に触れようとすれば傷が開き、かえって苦しめることになってしまいます。どうかお心を強くお持ちに」
言葉の途中でマルクに向けられた目は、まさに殺意そのものだった。阻むものを決して許さない王者の目。オーウェンに受け継がれた真紅の瞳。本物だ。
「ならば一瞬で終わらせよう。それで満足か? それとも俺の力に不満でも?」
「でしたら私を無き者に! お気持ちはご拝察いたしますが、殿下との思い出をも葬るおつもりですか!」
「思い出など、今までの数年より今後の数十年の方が大きい。巨大だ。ならば俺は辛く、短い記憶を葬ろう」
もう手がない。止めなければ全てが台無しになる。殿下の記憶も、笑顔も、陛下が幼い頃より築き守ってきた王室も、殿下が跡を追うこの国も——。
マルクはナイフを創り、喉元に押し当てた。
「扉を開けてごらんなさい! オーウェン殿下が引き継ぐ国は汚いものになるでしょう。その中で苦しみながら、長い人生を彼は歩むのです。あなたの勝手な行動一つで!!!」
「——マルク。今後、私と愚兄の席次を考えるように」
そう言い残し、パトリックは文字通り消えてしまった。「堕天は免れた」とだけ書かれた一枚の紙を残して。
残されたマルクは天井を見上げ、息を吐いた。