21.死-death-(前)
「なんなんだ……くそ、なんなんだ、おい!」
毒づきながら、俺、谷津田久則は走っていた。
走りながら、状況を整理する。
ちょっと前まで、俺は自分でもどうかと思う八つ当たり気味の理由で、宿敵たる高杉綾子とガチ喧嘩をしていたところだった。
結果として、高杉の(強調するが、やったのは高杉であって俺ではない)馬鹿みたいな火力の魔術砲を受けて、舞台となったランドマークタワーが大崩落。
喧嘩は俺の負けとなったが、いまそこは重要じゃない。
喧嘩が終わって、話していた俺たちを急に襲ったのは、よくわからない赤い生き物。
いや、生き物なのか……? ともかく、よくわからない赤いなにかだ。
高杉は「逃げろ」という言葉と共に赤い奔流に飲み込まれ、俺はその言葉に従って一目散に逃げている途中だ。
逃げているので、背後は振り返ってない。だから相手の正体もわからずじまいなのだが、
(くそ、ヤバいことだけは感じる……! あれに捕まったらおしまいだ!)
という勘に従い、ひたすら走っているところなのである。
正直、なにがなんだかわからない。
自分の戦術判断で、ここまで勘だけに従ったことがあっただろうか。と思うも、逆にここまで「ヤバい」と本能が警告を発している状況自体が、記憶にない。
高杉と最初に対峙したときですら、こんな感覚はなかった。
まるで――
(いや、違うだろう!)
「くそっ」
叫んで、俺は逃げたくなる足を、無理やり急制動して停止させた。
すでにかなり距離が離れている。どちらに向けて走っていたのか、それすら俺にはよく認識できていなかったが、どうやら北側へと走っていたようだ。
(となると、関内地区に戻るには、あの怪物のそばを通るか、大きく迂回する必要があるか)
振り返り、その赤い束を見上げながら、俺は考えた。
ランドマークタワーの跡地に突如として現れたそれは、全長10メートルくらいの、たくさんの針状触手が集合したような謎めいた存在……としか言いようがない。
怪獣、という言葉をふと思いついて、俺はすぐに打ち消した。その言葉で呼ばれる獣の類とは、形状もそうだが、在り方も異質な気がする。
そしてどういうわけか知らないが、自分はいまあの触手生物の索敵範囲外にいるということも、肌で感じる。
この感覚がどこから来ているのか、それはわからない。だが、どうも俺には、相手のことを多少理解できるらしい。
感じるのは、大きな怒り。そして、自身の不完全さへの憤り。
それと、懐かしい感触。身体を撫でる風が、魔力と不吉さを絶妙にミックスさせて、不快感を肌の上に押しつけてくる。
まるで小田原だ。そう考えて、はたと俺は気づいた。
(まるで小田原? 違う。ここは小田原みたいなんじゃなくて――横浜らしくないんだ)
空を見る。夕景はとうに沈み、夜の空が見えるはずの時刻だが……先ほどまで少しずつかかってきていた雲とはべつに、不自然なものが、空に浮かんでいるのを見つける。
銀色の小さな粒。上空数百メートルだろうか。いままでは横浜には絶対に現れなかったもの。
「遮光円盤……」
そう。この空気は、小田原なんかじゃない。
あの『崩壊』以降、横浜の外は常にこうだった。
世界は砕け、正しい秩序は失われ、混乱が世に満ちた。
長く横浜にいたせいで、忘れてしまっていたが。本来、この世界ではこれが正常なのだ。
――関帝結界が、失われている。
それがみなとみらい限定なのか、横浜全域なのかはまだわからない。だが、関帝結界の庇護にあって安定していた横浜の魔力バランスが、大幅に損なわれている。
だからそれを、俺は『懐かしい』と感じたのだ。
(俺が谷津田久則でなければ、それも錯覚に過ぎないんだろうけどな)
若干自嘲気味に考えて、それからかぶりを振る。
まとめきれていないが、いまはそこを考える時間じゃない。
問題は、これからどうするかだ。いま、身寄りと言えるものはこの横浜だと、俺には中華街しかないが――
志津方山は味方でない気がする。だから俺には、その方策を採るのはためらわれた。
だとすると、どうする? 自力で横浜に潜伏するか、あるいは逃げ出すか?
…………
(いや、それはダメだ)
脳裏に映ったのは、彼女の泣き顔。
――藤宮千景。かつて同僚だった、さして親しいわけでもなかった相手だが、命を救われたことがある。
それを恩義に感じている……などという、美談めいた話ではない。
高杉との対話で、俺の本性は暴かれた。
俺は「自分にリミットをかけていた」のだと高杉が言ったが、まさにその通り。
どうやら俺は、英雄に憧れていたらしい。
だが一方で、暗殺者として生きてきた自分に、その資格はないとも思っていた。
そもそも、俺の暗殺対象は第二世代……つまり、年端もいかない子供ばかりである。
俺自身も子供だった、ということは、なんの言い訳にもならない。むしろ、子供だったからこそ、同じ子供を殺すことに対して思うところがあった。
だから俺は、俺の夢を、そういう後ろ暗いところのない人間たちに仮託していて――それを身勝手と糾弾した高杉と、大喧嘩に至ったわけだ。
その高杉が、俺の身をかばって死んだ。
だったら、
「ここで逃げるわけには、いかないか……!」
せめて高杉が生きていたらやるだろうこと、それだけでも行ってからでないと、横浜を出るわけにはいかない。
そう決意して、俺はもう少しだけ状況をよく観察しようと一歩足を踏み出し、
――直後、勘で左に、横っ飛びに飛び退いた。
おそらく、それがよかったのだろう。下手に魔術を使って大きく逃げようとしたり、逆に対抗しようとしたら、たぶん死んでいた。
ざくざくざくざくざくざく! と、俺がいまいた場所の地面に針状の赤い触手が突き刺さって抜けていく。
ランドマークの方からの攻撃ではない。
右手側から飛び来たそれを見て、俺はうめいた。
「こうもすぐに化けの皮を剥がしてきたかよ……志津方山!」
「心外だな。化けの皮とは」
特に心外とも思ってなさそうな調子で、山高帽にステッキの不気味な洋装の男――志津方山は言った。
相手との距離は20メートルほど。すでに、例の合成音声による詠唱が場を満たしている。しかも相手が俺に害意を抱いているのは明白。客観的に見て、かなり厳しい。
だが俺は、不思議と焦ってはいなかった。
「全部、計算尽くだったのか?」
「計算尽くとは?」
「高杉にランドマークタワーを紹介したのはおまえだろう? 諍いの結果、いま暴れているアレが出てくることを予見してのことじゃないのか?」
「それも心外だな。紹介したのはみなとみらいまでで、ランドマークは彼女が言い出したことだよ。
まあ、多少の誘導工作をしていたのは認めるがね。それもまあ、自業自得だ」
「自業自得?」
「『魔法のような魔法を使う』などと私を評しておきながら、会話や検査の際に少しずつ精神を誘導されるリスクを評価できなかったのは、彼女の落ち度だろう?」
「……そういうことかよ、くそ。なんかここでの決戦ってのが唐突だとは思ってたんだ」
つまるところ、俺と高杉は、体よくあの怪物を起こすために使われたということだ。
「あんな怪物を起こして、関帝結界を破却して! 横浜をどうするつもりだ、志津!」
「興味深いな、君は。このタイミングで自分の心配ではなく横浜の心配かね」
「質問に答えろ!」
「ならば不敬はやめたまえ。仮にも聖なる存在、信仰の対象に対して『怪物』はないだろう、君」
「……? 聖なる存在? あれがか?」
「そう。これだよ」
志津はそう言って、マントの裾から少しだけ『それ』を覗かせた。
赤い、糸の束のようにしか見えないそれは、しかし自分の意思を持つかのように、うごめいている。
「事前に準備をしておいてよかった。おかげで存在を少しだけだがかすめ取ることに成功してね。
ふむ……してみるとやはり、この展開は性急に過ぎたかね。彼女を誘導したのは私だが、ここまで計画が前倒しになるのは少し、不本意だった」
「…………」
計画ってなんだ。と尋ねようとして、俺はかぶりを振った。
いま雑談じみた会話に応じてもらえているのは、志津の気まぐれにすぎない。絶対的優位に立っているという自信から来る気まぐれだ。
つまらないと相手が判断する応答をすれば、すぐに会話は打ち切られ、それで詰む。
――時間稼ぎ以上のことではないが。それでも俺は、可能な限り時間を稼ぎつつ、打開策を練る心づもりだ。
だから尋ねた。
「おまえはあれがなんなのか、知っているのか?」
「知っているともさ。というか、君にだって伝えただろう」
志津は淡々と答えた。
俺は首をかしげ、
「伝えた? なんのことだ?」
「だから、関帝結界だよ。関帝結界とは、なんだ?」
「魔力の流れる量を変えず、安定性だけを保証する都合のいい装置だと聞いた」
「ああ。そのときに言っただろう? こんな都合のいいシステムは、なにかを代償にしていると。それがあれだよ。まあ――なんだ」
志津はそこで、やや苦笑して言った。
「こんなことも解説されないとわからないのか、というのが私見だがね。みんな『関帝結界』と言うくせに、その名の由来にはなにも意識を払わないのだからな。私からすれば、そちらの方が精神操作でも受けたのかと言いたくなるような不自然さだ」
ぞく、と、俺の背筋を冷たいものが走った。
つまり、それは。
「だから私の答えは単純だ。関帝結界の主なのだから、それは関帝でしかあり得ないだろう。正式名称は『三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君』――あるいは略して『関聖帝君』。道教における、最も信仰を集める神の一柱だ」
「冗談だろう……? あれが神だと?」
「そして」
彼はにやりと笑った。
「いま彼に君を渡すわけにはいかんのだよ。おとなしく捕縛されてもらえないかね」
「俺の意思を斟酌する気はあるか?」
「まあ、ないな」
「だろうな」
どうやらこれ以上の時間稼ぎに付き合ってくれるつもりはないらしい。
そして俺も、これ以上時間稼ぎをするつもりはなかった。
「……待て。君、なにをした?」
志津の声色が少しだけ、こわばった。
俺はあえて余裕を持って、
「なんの話だ?」
「とぼけるな。こんなことが……正気か!?」
「あんたが狼狽するところは見ていて面白いな」
俺は余裕ぶって感想を言い、
「加速!」
護符を使って一回の詠唱で重加速を発動し、北へと逃げる。
追おうとした志津は、そこでいったん思いとどまったらしい。防御と撤退を選んだ。
――そう。怒濤と化して襲い来る、赤い針状触手の群体から。
(やった! やったが……どうする!? 逃げ切れるか!?)
賭けではあった。
志津にあの状態でロックされた以上、あいつが予想できる範囲での逃亡や反攻などは全部封殺される。
だが、予想できないならば。
合成音声を使った詠唱補助が有効なのは、あらかじめプログラムしておくからだ。あらかじめ予想できないことには対処できない。
――俺が、なにやら深層でつながっているらしいあの『関帝』とやらに自分の位置を知らせるというのは、彼にとっては予想外だったのだろう。
だが、これ、いまの魔力量で逃げ切れるか……?
俺が背後から迫り来る質量に対して不安に思ったそのとき。
「乗れ!」
叫び声と共に、大型のバイクが俺の横に併走した。
正体不明。意図不明。なにもかもわからない状態だったが、俺は反射的に従った。
バイクの後部に飛び乗り、またがる。相手――男は、それを確認してスピードを上げた。
「おい、そっちは海だぞ!?」
「だから逃げるルートたり得るんだよ。舌噛みたくなければ黙ってそのへんにつかまってろ!」
言って、彼は海へと向かってバイクを突っ込ませ、
「加速跳躍!」
どん、とロケットのようにバイクが空中へと射出した。
強いGが身体にかかり、俺はあわてて両手を使ってバイクに自分の身体を固定させる。
むちゃくちゃな機動だが、ともかくバイクは海を横切って、対岸にあった陸地へと着地した。がこん! という大きな音とともに、バイクが地面を捉えて、安定を取り戻す。
「いまのうちに横浜駅を抜けるぞ。まだ関帝結界が消えて間もない。魔力流の荒さが目立たないうちなら反対側へ行ける。そうなれば相手も簡単には追ってこれない」
「……いや、待て」
「なんだよ」
「なぜおまえがここにいる、佐伯? というかおまえ、死んだんじゃなかったのか?」
俺の言葉に、バイクを操縦する男――死んだはずの佐伯博孝は、肩をすくめた。
「おまえが言うことじゃねえだろ、谷津田」
【魔術紹介】
1)『加速跳躍』
難易度:B+ 詠唱:簡易詠唱 種別:魔化
加速と跳躍を複合しただけ、と思いきや、実はまったく違う魔術。
なんと種別は魔化。乗っている乗り物に作用し、加速した上でロケットのように射出する魔術である。身体制御系ではないので難易度は跳ね上がる。




