2.青の世界-blues-(前)
「結局、なにが起こったのかはわからずじまい、か」
窓の外の海を眺めながら、ぽつり、と椎堂卿が言った。
わたしは、はあ、とため息をついて、
「そういうことね。
相手の正体はおろか、後ろ姿さえ見ていない。それに、どうやって倒されたのかもね」
「残ったのはボロボロの服だけか。
高杉。その……戦闘の専門家としてのおまえに尋ねるが、そういう形で傷を作って、しかも相手を生かしておくことは、可能なのか」
「戦闘の専門家は引退したつもりなんだけどね」
わたしは言って、それから腕組み。
「……可能と言えば、一部は可能ね」
「ほう?」
「相手の身体に穴を開けて、それでも生かしておく。普通の相手なら無理だけど、高位の第二世代相手であれば、可能ではあるわ」
具体的に言うと、物理打撃に特化したカスタマイズをした精霊刀であれば、強力な第二世代は心臓ひとつ貫かれた程度では死なないだろう。
ただし。
「その場合、わたしは気絶することもない。それに、服の穴もすぐ治っちゃうわ。今回の状況とは食い違うわね」
「では、どう考えればつじつまが合う?」
「自己領域のバリアの内側に精霊刀を通したのなら、そこから精神攻撃をする手があるわね」
精神操作、記憶の改ざん、催眠……そういった技は、自己領域の外側からでは使いづらい。
たいていは、自己領域に触れて、バリアを突破して打ち込むのが基本である。もちろん、単に相手を殺すより、はるかに大きな労力とリスクを伴う。
端的に言って、戦闘にはまず使えない魔術だ。リスクに対するリターンが低すぎる。だから使い手も少ない。
とはいえ、わたしが知っている程度には知名度もある。使い手だって、探せばいるだろう。
「では、そういう技を打ち込まれた可能性が高いと?」
「そうね。そうだとしても、やっぱり説明がつかないところがあるんだけど」
「というと?」
「まず、服が治ってない理由にはならない」
「……それは、まあ、そうだな」
「次に、目的がよくわからない。精神攻撃って言っても、わたしがこうむった実害は意識の遮断だけよ。それ以外のことは、なにも、されていない」
「確実か?」
「わたしだけのチェックだったら、気づかないように暗示を受けている可能性を疑ったんだけどね」
わたしは言った。
「だけど、小辻くんのチェックでもなにもなかった。この時点で小辻くんが犯人でなければ、暗示の可能性もない。そして――」
「さっき、片嶋のとっつぁんからもチェックを受けていたよな」
ケイの言葉に、うなずく。片嶋というのは、警備課の課長さんだ。
「そういうこと。小辻くんと片嶋さんが手を組んで悪巧みしている可能性は低いと思うから、わたしが暗示を受けている可能性、および、後催眠等の技術で誰かに都合よく操られる可能性はなくなった」
「とすると……なにが怪しい?」
海岸を眺めながら言うケイに、わたしは答えた。
「大きな可能性としては、敵が精神操作を行う前に小辻くんが現場に近づいてしまって、結果としてわたしは助かったってシナリオがあるわね」
「ああ、それはあり得るな」
「ええ。まあ、そこまで考えてもまだ、わたしの服が破けたままなのは説明できないんだけど」
「……うーん、困ったな。現状、これ以上の推論は無理か」
ケイはそう言って、大きく伸びをした。
「で、なんで佐伯は手が止まってるんだ? さっさと蟹食えよ。うまいぞ」
「いえ……課長。俺としては、それ以前にものすごくいろいろ聞きたいんですけどね」
「なによ佐伯。便秘?」
「違うわっ!」
「ふーみん、これもう行けるよー、どんどんやっちゃって!」
「了解(ぱきぱき)」
「小辻くんもじゃんじゃん食べなさいって。今日は主賓なんだから、蟹にハサミ入れるのは他人に任せていいわ」
「あ、は、はいっ」
「はい綾ちゃん、これもうゆであがってるよー」
「お、いいねー。よしよし」
言ってわたしは差し出された蟹の脚を手でつかむと、ハサミでばきばきと殻を切り始めた。
この場にいるのは六人。
わたしとケイと小辻くん、はいいとして、情報課から佐伯博孝と藤宮千景、それから理財課の芦屋郁枝が来ている。
「なんでこんなまとまりのないメンバーでまた……」
「なによ佐伯、小辻くんの歓迎会するのに文句でもあるの?」
「いや、そういうの普通は課を挙げてするものなんじゃねえの? 俺やおまえのときは少なくともそうだったろう」
「事情があったのよ。仕方ないでしょ」
わたしはしれっと言った。
実際、事情はあったのだ――小辻くんの潔白がケイによって説明されたとはいえ、やはり上層部や、別の部署の人間が完全に納得したかどうかは未知数である。
だから、機先を制して歓迎会を開いてしまうことにより、『情報課は小辻を支援する』というシグナルを各所に見せておく必要があった。
……まあ、手空きの人間で開いているため、まとまりのないメンバーであることは否めないが。
この中で特に仲がいいのは……わが大親友である藤宮千景、通称チカは基本的に誰とも仲良しさんなタイプなのでいいとして、残る連中でわたしとつながりがあるのはケイくらいである。
特に問題なのは、
「? どうした高杉。そんなに見つめてもおまえが悪人面なのは変わらんぞ」
「あー! また悪人面って言った! こっちは気にしてるのに、だから彼女ができないのよ佐伯はっ」
「彼女は関係ないだろ彼女は!」
「はいはい落ち着いて蟹食べるよー。ほれ佐伯、これバラせ」
「うぐっ。微妙に多いんですけどこれ……」
しぶしぶ蟹の解体に取りかかる佐伯。いい気味だ。
佐伯とわたしはこのように犬猿の仲。そして理財課の芦屋さんは、ケイと仲がよいことしか知らない、ガチでほとんどしゃべったことのないひとだ。美人だけどあまりしゃべらない、謎めいた女性である。
さておき。
「しっかし、よくこんな店知ってたわねケイ。いつもは赤レンガ倉庫の餃子屋行くのに」
「あー、あそこおいしいよねー綾ちゃん。あの、宇都宮式って書いてあるところでしょ?」
「そうそう。わたしは知らないけど、宇都宮ってのは人の名前なのかしらね。どことなく由緒正しそうな感じがするけど」
「いや。宇都宮は地名だな。かつて栃木県の県庁所在地だった都市だ。『崩壊』前は餃子が名産品で、駅前には餃子の女神が祭ってあったとかなんとか」
「へえ。そーなんだー」
蟹をはぐはぐしながら、ケイのうんちくをチカは適当に受け流した。
そのあたりは放っておいて、わたしは、席に面している窓から、外を見た。
この場所は、大さん橋と言われている。昔の横浜の、メインの船の発着場だった場所だ。
まあ、いまとなっては東京湾の大半はポセイドゥンで汚染されて、危なくて船なんてうかつに出せないのだが。それでも鋼鉄で覆った旧世代の軍艦みたいな船が、しばしば三浦とここを行き来している。
三浦には熱海からの交易船が来るので、これが横浜の主要な物資輸送ラインのひとつだ。
「……で、その建物内にこんな気の利いた蟹料理屋があるとはねー」
「最近入ったようだがな。いいところだろう?」
「そうね。
……ところでケイ。なんでさっきからきょろきょろしてるの?」
「いや。ちょいと醤油を垂らしたらどうかと思ってな。探しているんだが……芦屋、どこにある?」
「はい」
「……そこでタバスコを差し出されても、私はリアクションに困るのだが」
「味はイケる」
「イケたとしても行きたくない。
あ、この瓶か……? ってうお、酢だこれ!」
「割と合うわよ? 蟹に酢って」
「私は酸っぱいの嫌いなんだよ! あーもう、藤宮、皿交換してくれ!」
「あたしカイエンペッパー漬け状態ですけど、それでも大丈夫です?」
「なんでそんな微妙にマイナーな香辛料を常用してんだおまえ」
「あ、佐伯ー。バラしたのちょっとちょいだい。うん、うまい」
「って高杉てめえ俺の戦果を!」
「ん、なによー。悪いけど今日わたしは小辻くん以外に剥いてあげる気はないんだから、そんな物欲しそうな顔をしても無駄よ?」
「そうじゃなくて俺のところから取っていくなと……おまえ、なんでハサミなしで蟹の殻剥いてるの?」
「え? ああ、なんかめんどくさくなってきて」
言いながらわたしはめきめきバキバキと手で蟹の殻をひっぺがしていく。
「……相変わらずの超筋力だな」
「便利でいいでしょ。ほら小辻くん、おかわりですよー」
「いただきますっ」
こんな感じで。
騒がしく、昼食の時は過ぎていった。
……相変わらず、頭痛だけは残っていた。