15.自分自身-myself-(前)
「はあ、はあ、くそっ……!」
毒づく。
助ける理由なんてなかった。
助ける理由なんてなかったのだ。
藤宮千景。あの元同僚の女は、最後に喧嘩したこと以外には、接点などほとんどなかった。
いや、わりと人当たりの良いタイプだったから「それなり」の付き合いはあった。だが、それだけだ。
いまこの俺、谷津田久則が直面している状態と比較して、助けなければいけないほどの義理は、これっぽっちもなかったはずなのに……!
「――ふむ。
無事かね?」
「……あんたか」
黒い山高帽にコート、それにマント。
この季節に明らかに異様ないでたちのこの男の名は、志津方山。
どうやら、表の世界では有名な魔術研究者らしい。俺は知らなかったが、もしかすると高杉綾子あたりなら知っていたのかもしれない。
なぜこんな珍奇な格好をしているのかと問うたところ、『変な格好をしているだけで人々から特別扱いされて、便利だから』という答えが返ってきた。
高杉綾子を中華街に匿っていた『研究者』の正体が、こいつ。
いや、こいつに言わせれば『彼女は高杉綾子などではない』のだそうだが、俺はその手の問答には興味がなかった。
「私としては、このタイミングで君に危険を冒してほしくなかったのだがね。彼女を助けるならば、私に一言告げれば済んだ話だ」
「あんたは俺の保護者じゃないだろう」
「もちろんだ。君もべつに、反抗期に入った私の息子というわけではない」
嫌味なほどに冷静な声で、志津が言った。
「私が言っているのは、単に安全性の問題だよ。君は私から見ても、『崩壊』以後の東京圏において前代未聞の状態にあると言ってよい。放っておいたらいつ機能を停止してもおかしくない奇跡のような君が、戦闘などという危険なことに手を出すなど、恐ろしくて仕方がない」
「あんたは単に、俺というモルモットが研究できなくなるのが怖いだけだろ」
「それがなにか? 君と私の利害が、それによって一致しなくなるわけでもあるまい?」
志津の言葉に、俺はしぶしぶながらうなずいた。
現状、俺は相変わらず、当面の目標も立てられていない状況だが。少なくとも死ぬつもりはない。
そして俺の死にたくないという気持ちと、志津の俺を生かして研究したいという方向性は、べつに食い違っていない。
ただ。
「……俺だって、わかんねえよ。なんで手を出したのか」
「そうか」
志津はそれだけを言って、その場を去って行った。
無駄だと思う会話はしない。そのあたり、志津方山は徹底した男だ。合理主義の塊すぎて、端から見ると変人に見えるだけ。
彼のあらゆる行動は理屈づくめだった。たとえば、彼は決して俺の名前を呼ばない。谷津田久則という俺の名乗りを、彼はずっと否定し続けている。
……今日の朝。この場所で目覚めてから、彼に受けた説明を思い返す。
反吐が出るような説明だったが、それでも思い返さずにはいられない。
--------------------
「陰楼、という現象を知っているかね?」
志津の言葉は、そんなところから始まった。
拘束はすでにされていない。今朝、起きたときにいた島田とかいう助手も、特に俺を警戒してはいなかった。中華街からは出ないようにと言われたが、いつでも逃げられるように見える。
いや、もしかしたら俺に気づけない形で、魔術による制限が課せられているのかもしれないが……そのくらいのこと、この恐ろしい魔法使いには簡単にできるだろう。
さておき。
「中華街の怪奇現象の噂なら聞いてるよ。幽霊が出るとかなんとか……その程度の知識だ」
「では説明せねばならんな」
淡々と志津は言って、続けた。
「陰楼というのは、初期横浜の混乱期の後に中華街に残された、幽霊のように見える謎の魔術現象のことだ。
外見が外見なのでな。それにたくさんの人々が、中華街で死んだ直後だった。市民には不安が広がり、得体の知れない噂がたくさん流れた」
「どんな噂だ?」
「中華街で死んだ人々の怨霊である。あるいは、中華街の儀式で桃源郷への避難に成功した人々が、現世に落とした影である。はたまた、中華街の大量殺人を引き起こした人食いの魔物である。他にも様々なバリエーションがある。興味があれば、後で資料を見るといい」
志津はそう言って、資料棚とおぼしき本棚を指した。
「そこで、混乱を嫌った横浜市は当初、安心のために幻を意味する辞書的な用語――『陽炎』という名で、その現象の安全性を訴えた。が、後にこれが幻ではなく、なんらかの魔術的な現象であることが発覚してな。それで用語を変えようとしたのだが、人々の間には『陽炎』の名がすでに広まっていたので、当てる漢字を変えることで対処したというわけだ。新陰流の陰に、砂上の楼閣の楼。『陰楼』だ」
「その陰楼とやらが、俺となんの関係があるんだ?」
「まだ仮説に過ぎないがね」
志津は言って、ふう、とため息をついた。
「この中華街は、どんな風に見える?」
いきなり話題を変えられて、俺は首をかしげた。
「どうって、なにがだ?」
「違和感はあるかね?」
「……俺にとっては、「いつもの中華街」に見える。たしかにあんたの言うように、中華街に来た記憶なんて一度もないから奇妙な感想だが、素直に答えるならばそうなるな」
「そうか。まあ、そうなのだろうな」
「それがなにか?」
「おそらく」
志津は言った。
「中華街にこれまで一度でも出入りしたことがある人間にこの問いを聞けば、誰しも例外なく『変だ』と口を揃えて言うだろうよ」
「なぜだ?」
「陰楼がいないからだ」
志津の言葉に、俺は改めて中華街の街並みを思い返した。
……確かに。
ここで最初に覚醒したときも、その後にこの志津に捕まって引き戻されてからも。俺は、陰楼なるものを一度も見ていない。
「陰楼が突如として消えて、そして君が突如として現れた。私としては、これになんの関係もないとはとうてい思えないのだ」
「俺が陰楼だと言いたいのか?」
「さて、少なくとも見た目は陰楼ではないね。
だが関係がある可能性は高い。現状言えるのは、そんなところだ」
「……陰楼というのは、結局、なんだったんだ?」
当然の流れとして俺が尋ねると、志津は苦笑いした。
「さて、実はそれがいま、一番聞かれたくない質問でね」
「なにか不都合でも?」
「いや。横浜上層部から繰り返し問い詰められているのさ。元々、私が横浜から雇われてここに研究室を構えている最大の理由が、あの陰楼の調査でね。それが、満足な結論も出ないまま急に消えてしまったとあっては、上もうろたえるわけだ。今日も朝からずっと、理由を問うメールや電話でひっきりなしだよ」
「それはご愁傷様だが、つまるところわかりやすい説明はできないということか?」
「まあ、政治家がプレスリリースを用意できるレベルではないな」
「それ以下でいい。知っていることを教えろ」
「よろしい」
志津はうなずいて、そして語り出した。
「まず、そもそも『崩壊』後初期に、中華街でなにがあったのかを私は知らない。たくさん人が死んだとも、それ以上の人間が行方不明になったとも聞いている。行方不明者は桃源領域と呼ばれる謎の異界へと移動し、そこで何不自由ない平和な暮らしをしているという噂もあったな。
もちろん、それらすべてが、ただの伝聞だ。多少は目撃者もいたようだが、横浜市が隔離政策を取っているため、こちらからは接触できない」
「横浜市からの資料はないのか?」
「供出を拒否された。こんな場所を研究しろと言っておいて、資料を出し渋るのだから、こちらは難儀したよ。まあ、おそらくは、横浜市の内部も一枚岩ではないのだろうね」
困ったものだ、と、特に困っていなさそうな調子で志津は言った。
「だから私は最初、陰楼に対してはなにも資料がない状態から、つまりはなにも知らない新しい魔術現象を解析するつもりで調べざるを得なかった。研究初期にわかっていたことは、まずその不死身性だ」
「不死身性?」
「ああ。つまり、『どうやっても消えない』という性質だな。
最初から予想してはいたんだ。簡単に消える現象なら、横浜市は私に依頼などせず、消して見なかったことにしていただろうとね。だが、調べてみたら本当に奇異だった。単純な魔除けの儀式から、魔術の上書き、変質、精霊刀、果ては小型の魔力嵐を生成して直撃させることまでやってみたのだがね。そこまでやっても陰楼は一切、ただの一個体も消えなかった。東京圏に現存する持続的な魔術現象でここまで強固なものは、私の知識だと他に山手大結界くらいしか思いつかない」
……比較対象として出てくるのが『山手大結界』ということは、この男は一度、あれを消そうとしたのだろうか。
そこに若干の興味はあったが、俺はいったんそれを棚上げした。
「それ以外には?」
「数ヶ月に渡る調査の結果わかったのは、陰楼の一部には明確な『規則性』があることだった」
「規則性……?」
「つまり、周期があったんだよ。一番短いのは、だいたい三日ごとに同じ行動を繰り返していた。次は七日弱かな。この周期がずれているせいで最初は見落としていたが、一度気づいてチェックし直してみたら、大多数の陰楼は周期を持って行動しているように見えた。残りは一見すると不規則だったが、私はそれらは周期が長すぎるせいだと見ている」
「長すぎる?」
「十年ごとに同じ行動を繰り返すものがあったとして、それを確認するには最低でも十年観察しなければならないだろう? 残念ながら私は、ここに赴任してからまだ三年だ」
「ああ、そういう……」
俺は納得した。
そして、
「では陰楼は、本当に幽霊でも影でもないんだな」
「ああ。あれは人間のように見える外見をした半透明のロボットみたいなものだった。しかも、中華街の状況がいまの状況になってから、昨日までは、一度も増減しなかった。なにかの事件の名残……それ以上でもそれ以下でもない現象だったのだよ」
「他にわかっていたことは?」
「関帝結界」
志津はまた唐突に、これまで出てこなかった単語を口にした。
「関帝結界だ。横浜市を包む、魔力の暴走を抑える謎の魔術装置。陰楼にはおそらく、それが関係している」
「なぜそう思う?」
「君は関帝結界について、どのくらい知っている?」
「おまえがいま、言っただろう。山手大結界から供給される莫大な魔力と、それに伴う暴走した魔力嵐の濁流から横浜を守る結界装置だ」
「これは昔から、ずっと面白いと思っているのだが。私が授業で口にしたことをそのまま書き写せばいい試験で、なぜ学生達はみな満足に結果を出せないのだろうね?」
「……嫌味か。つまり、俺の言葉は間違いだということか?」
「その通りだ」
志津はうなずいた。
「関帝結界はたしかに魔力嵐は抑えるが、流れる魔力量はなにも変えていない。その証拠に、横浜市はこれほど大きな面積を誇っているにもかかわらず、電力供給で困ったことが一度もないだろう? 火力発電などが行われているわけでなし、あれの供給源は普通の砦と同じ、魔力を電力に変換するタービンの力だぞ?」
「では、関帝結界というのは魔力は減らさず、にもかかわらずその副作用は抑える、都合のいいシステムだということか?」
「そう。その通りだ」
志津はうなずいて、
「そして横浜は――なんらかのメカニズムで、なにかの代償を払い続けている。でなければ説明がつかん。私が観察する限り、代償なしでこれほど都合の良いシステムを発動できるほど、東京圏の魔術システムは簡単ではない」
「代償……生贄とかか?」
「さあ? そんな儀式の噂は聞かないし……そもそも『人間の命』などというのは、これほどの奇跡の代償たり得るほど、価値のあるものなのかね?」
志津は酷薄に笑って、それから軽く咳払いをした。
「話が逸れたな。いま重要なのはそこではない。関帝結界。名前がとてもよくない。この名前から多くの人間は、結界の発生源は関帝廟の付近、つまり中華街だと思っている」
「違うのか?」
「まったく違う。そもそも関帝結界自体、きれいな円形ですらないのだがね……図形として重心を求めてみると、中華街からは大きく外れている。むしろみなとみらい地区、ランドマークタワーと言われていた建造物の付近が、推定される中心地だ」
「だが、図形的に中心だから発生源がそこだとも言い切れないのでは?」
「それだけではな。だが、それだけではない。
私は陰楼の不死身性、その源をたどってみようとした。陰楼を壊そうとしたときに、復活するための魔力の供給源を追ってみたのだ。その結果、やはりみなとみらい地区から来ているという観測になったのだよ」
「…………」
「結果として私は、みなとみらい地区と関帝結界、そして陰楼の三つには、なにかの関係があるのだろうという結論に達した。それがなんなのか、仮説はいくつもあるのだがな……検証している最中に、今回の事件が起こった」
「結局、俺の正体はなんなんだ?」
「わからん。だが、谷津田久則はみなとみらいで死んだのだろう?
私としては、暗示を感じざるを得ないよ。みなとみらいで死んだ人間のコピーが現れ、同時に陰楼が消えた。なにかの関係があると考えない方が不自然だ」
「その程度しかわからないのか……」
「昨日の今日だ。それ以上は私でも簡単にはわからんよ。
ああ、ただしひとつだけ、明らかになっていることがあるぞ」
「ん、なんだ?」
「護符だよ」
志津は意味深に言った。
「……護符?」
「そう。おそらくは戦闘用かな? 高杉綾子との戦闘用に、谷津田久則が用意した、詠唱短縮用の術具だろう?」
「ああ。そうだ」
「それは使われて消費した。にもかかわらずなぜか、君は持っている。だろう?」
ぎくり、とする。
たしかに、それは俺が持っているものだった。昨日の夜の段階で、ポケットの中に未使用のまま残っていた。
だが、それは戦闘で消費していたはずのものだ。そして――
「昨日の夜、どうやら君はいくつかまたその護符を使ったらしい。が、その護符はいま、そのポケットにあるのではないかね?」
「…………」
「不死身性」
志津は言った。
「陰楼の不死身性に酷似している。実のところ、君が寝ている間にその護符を、こちらで破壊してみたりしたんだ。だがすぐに再生した。再生パターン、魔術反応、共に陰楼とほとんどまったく同じだ」
「じゃあ……俺は」
「まあ、陰楼の性質を、一部受け継いでいるのだろうな。『不死身の不死者』とまで言えるかどうか、そこまではわからんがね」
ふう、とため息をついて、志津は言った。
「そう――君は本当に、奇跡のような存在だ。この志津方山が、意味がわからないなどという言葉を選んでしまうほどにね」
--------------------
「なにが奇跡だ……要は、研究対象が面白い変化をした、その程度にしか思ってないじゃないか、あいつは!」
いらいらとつぶやく。
内心で、これではあいつの皮肉通り、反抗期の息子みたいだなと思っている俺がいる。
現状、俺はあの男、志津方山を頼らざるを得ない。
それ以外の寄る辺はこの街にはもうない。否、故郷の寄る辺ももはやない。
そうでなければ『新生の道』の暗部などに所属するはずもないし、それに……
「……おやあ?」
不意に後ろから声がして、振り返る。
そこにいたのは、果たして。
「高杉がなにか挙動不審にしているから、なにかと思って探ってみれば。おまえ、生きていたのか? 谷津田よ」
「……誰だ?」
「このナリを見ればわかるだろうよ。おまえも噂くらいは知っているだろう?」
ニヤニヤしながら、そいつ――顔には見覚えがあるが、背だけ妙に高い、その女は言った。
「椎堂恵瑠。『椎堂計画』によって生み出された、いまとなっては最後のひとりとなった人間さ。まあ、後ろ暗いバックを持つ者同士、よろしくしようや。谷津田久則くん?」




