13.暴風の暴君-a tyrant of tempest-(後)
さて、ここで一応、東京湾の西岸側の地理のおさらいをしておこう。
かつて二十三区と呼ばれていたところは、かなりの部分が荒ぶる山手大結界の魔力の余波で荒廃してしまった。特に『品川領域』と呼ばれる、旧品川駅から北は汐留、東は新木場へと続く一帯は、かつて魔竜が暴れ回った影響で無人の荒野と化している。品川調査隊の第一回メンバー達(志津もその一人だ)が前人未踏の魔竜討伐を成し遂げた後でも、未だに危なすぎて人が寄りつけない魔境だ。
そこから南へ目を向けると、蒲田砦の周辺あたりまで南下すれば、人間が住めるコロニーがぽちぽちと現れてくる。
そのあたりの中で最も栄えているのが、旧川崎駅周辺を中心とした、コロニーにおける魔物退治や護衛を務める傭兵たちの一大拠点であり、同時に『アリーナ』と呼ばれる謎の異界によってその傭兵達が見世物試合を行う一大興行都市でもある、川崎市だ。
なぜ『川崎砦』ではなく『川崎市』なのかというと、東京圏でも極めて珍しい、砦システムを使っていない独特の構造のせいである。
もっと正確に言うと、『間に合わなかった』のだ。川崎ではあまりにも魔力が乱れて治安が危なかったため、研究者の方々が安全な住居提供システムである砦のシステムを組み上げるより前に、なんとかして独自の防衛システムを作らざるを得なかったのである。
そんなわけで東京圏でも超独特な環境である川崎市は、治安が悪すぎてどの勢力も治めたくない、というとても消極的な理由で独立を保っている。川崎側の主張としては、『我々を軍事力で魔物や災害から守ってくれる勢力だったらどこの傘下にでも入る。でもおまえらどうせやってくれないんだろ?』ということだ。
……とはいえ、川崎自体は多摩川に守られて、それより北と比べるとかなりマシな環境らしいのだが。本当に傭兵の仕事があるのは六郷土手以北だと、以前川崎出身のチカから聞いたことがある。
さて、川崎から海沿いに南に行くと、鶴見砦の南あたりを境として、関帝結界によって守られた非常に魔力の安定した地域が現れる。これが横浜市だ。
かつての横浜市ほど大きな地域を治めているわけではない。あくまで、関帝結界で守られた安定した範囲のみを掌握する地域ではあるが……大きな人口、巨大な商業圏を持ち、卓越した政治バランスで独立を保ち続けている。単独の「市」と呼ばれる程度の政治単位でありながら、戦争と縁がない上に魔物の被害も少ないとあって、東京圏でも有数の繁栄した場所になっている。
そこからさらに南に行くと、また魔力流が復活する。といっても、山手大結界からはだいぶ離れているので、北と比べれば穏やかなものである。海寄りに行くなら旧京急線に沿って金沢文庫砦、追浜砦、安針塚砦を越えてさらに南下すると、お目当ての――『新生の道』の中枢部、横須賀砦がある。
そこは東京圏の『南』における軍事と政治の中枢部。もちろん栄えているのだが……さらに南に行くと、その横須賀の統治が及ばない場所が現れる。
三浦市。かつての三浦半島の南端部一帯を制圧する、独立組織。
横須賀、つまりは『新生の道』から最も近く、かつ、地理的に孤立した場所でありながら、独立を保ち続けている不思議な場所。
そして、いまの東京圏で外との交易ラインを安定して維持し続けている、唯一無二の特徴を持った勢力。
卓越した魔法技術と群を抜いた政治指導力でこの地の独立と安定を保ち、『魔王』の異名を欲しいままにした独裁者、田中信三の庇護下で発展した、異色にして異端の土地。
その三浦は、田中信三が失脚して以後、彼の娘がトップに就任してゆるやかに民政へと移行していると聞いたのだが……
「田中大五郎……三浦から指名手配されてる、あの田中信三の息子よね。あんたが?」
「おや、本当に知っててもらえたのか。嬉しいよ」
言って彼は、にこやかな笑みを浮かべた。
少年、である。美少年、と呼ぶには少しだけ癖がある、しかしさわやかでさっぱりした顔と、細身でしっかりした体格。衣装もそれに合わせて、セミフォーマルをもう少しだけ崩したような、若干のラフさを感じさせるジャケット姿だ。案外、このくらいの外見の方が、人間の油断を誘うのには都合がいいのかもしれない。
年齢は外見から推し量るしかないが、噂に聞く田中大五郎はミドルティーンのはず。それにしては少し背が低めで、『大五郎』なんていう時代がかった名前とはぜんぜん似合っていない。まあ、それ自体がもしかすると、ミスリードのつもりなのかもしれないが。
人は外見によらない。『魔王』の息子、そして政治家である横峰の従者を装って横浜に潜伏していたというのなら、そうとう深部まで横浜と食い込んでいる可能性が高い。油断はならない。
とはいえ、わたしはジト目で、まずはこう言った。
「言っとくけど、『暴風の暴君』なんていう、中二病こじらせたような二つ名には聞き覚えがないわよ。ていうか、なにそれ?」
「あー。それは川崎で付けられた名前でね。『二つ名屋』ってのがあるのさ。やってるのは盲目の女でね。光は見えないが真実が見えるとかうそぶいて、傭兵達に縁起のいい二つ名をつけてやってるんだってさ」
「それで、あんたも?」
「まあ、僕は傭兵じゃないけど、『傭兵じゃないことを相手が当てられるか』には興味があったんでね。
その顛末は後にしよう。いまは君の話だ。最初はオークションにでもなるのかと思って見ていたんだが、引っかけたもんだ。あれではベルトラン競争――いや、協調すら封じられてる。さしずめ左右の靴の逸話みたいなものかな?」
「ずいぶん詳しいわね。専門家?」
「親の方針でね。本来は、姉弟で補い合わせるつもりだったんだろう。姉は政治学、僕は経済学を主に学ばされた。自慢じゃないが、専門家と名乗って恥ずかしくない程度の知識はあるつもりだよ」
言葉の通り、べつに自慢するでもなく、さらりと田中は言った。
左右の靴ゲーム。『協力ゲーム理論』と呼ばれる経済学の一分野で知られている、非常に謎めいたゲームである。
そのゲームは、ある種の寓話として紹介されることが多い。人が三人いて、一人目が左足の靴を、二人目と三人目が右足の靴を持っている。両足揃うと買い取ってもらえて……まあ、とりあえず千円としよう。千円もらえるが、左足だけ、あるいは右足だけだと捨てるしかない。このとき、三人の間でどんな交渉が行われて、結果としてどういう取り分で決着するか……というのが、ゲームのあらすじだ。
この種の理論には『コア』と呼ばれる、説得力のある分配方法を決めるためのある種のガイドラインみたいなものがあるのだが……この『コア』の考え方に従うと、なんとこのゲームでは、「一人目が千円を全部奪い尽くし、他の二人はなにももらえない」という、えらく極端な結果になることが知られている。
理由を簡単に説明すると、『一人目と組めないと利益を上げられない二人目と三人目が、右足の靴を一人目に売りつけるための安売り競争を始める』のである。300円で二人目が右足の靴を売ろうとすれば、三人目は200円で売ろうとする。すると二人目は150円に改め……というのが続いた結果、なにも得られなくなってしまう、というわけだ。
わたしは『施設』の授業で聞いていただけだが……田中もまた、どこかで知っていたのだろう。
「この交渉、一見して高杉綾子、君が横浜市と『再生機構』に借りを作る代わりに、力を借りるという構造をしている」
田中はにやにや笑いながら、言った。
「けど実はなにひとつ、口約束すらしてないんだよね、君は。そして、そういった『後払いの約束』を相手が持ち出すことを、巧妙に封じていた。さっきは耳障りのいいことを言っていたが、要するに横浜市と『再生機構』を同時に相手にした理由は、お互いに牽制させて、なにも具体的なことを言い出せなくするためだろう?」
「まあね」
そこまで読まれていたらもう隠しても意味がないので、わたしはうなずいた。
種明かしすれば、これはそういう話だったのである。
「まずもって、横浜市も『再生機構』も、現段階ではもめ事も戦争も望んでいない。だからわたしが第七軍を頼ることをちらつかせれば、それを嫌がった両者はわたしに協力せざるを得なかった」
「そりゃあそうだ。しかし横浜側が君を暗殺しようとする可能性があったわけだ。君さえ死ねば、もめ事が横浜に降りかかる可能性はとりあえずなくなるからね。だから君はまず、その可能性を排除する必要があった」
「そう。ところが、たとえ名目上であっても、横浜で『再生機構』が『新生の道』所属の第二世代を殺したなんてことになったら、『再生機構』側は困るわけ。現状、『再生機構』には横浜を維持するだけの戦力がない。本格的な組織抗争は嫌がる」
「で、その『再生機構』と一緒に交渉している以上、横浜市側も強行しにくいわけだ。加えて横浜市は戦力に乏しく、確実に殺せる可能性も低い。これで君は都合の悪い第一手を封じた。そして……」
「今度は逆に、横浜市側がいるせいで、『再生機構』は具体的なわたしのスカウトに乗り出せなかった。やがて来る『新生の道』横浜支部との戦いの時にはこちらに付け、なんて言ったら、横浜市の反発を買う。横浜を戦場にする気か、なんて言われたら『再生機構』は困ってしまう」
「一方で、横浜市側はこの機に『新生の道』横浜支部の内部に食い込みたいわけだが、それはそれで『再生機構』側からは気にくわないわけだな。横浜市は『新生の道』側にすり寄るのか、となったら大事になる。となると、横浜市も君に対して具体的な要求を出せない」
「結果として、両者ともに微妙な利害関係の違いがあって、わたしに対してなにも要求できない――ええ、まあ、左右の靴よね。これは」
わたしが肩をすくめると、田中はけらけら笑った。
「いやあ、お見事お見事。だが、そうなると君にとっては不都合じゃないかな?」
「なにが?」
「仕掛けを見破っている僕が、いろんなところに吹聴したら困るだろうって言ってるのさ。君、それについてはどう思う?」
――たいした度胸だ。わたしは舌を巻いた。
一見して、脅してなにかを要求する前段階のような発言だが……わたしがもう少し頭が悪ければ、この場で殺していただろう。田中が見聞を横浜市なり『再生機構』に伝える前に口封じする。
わたしには、それができる。現在、田中がどんな戦力を隠し持ってきていようが関係なく、確実に暗殺できる戦力であるという自負が、わたしにはある。
だからわたしは、憮然として言った。
「答えはわかってるんでしょ」
「わかっていても、言葉で聞きたいね」
「べつにどうもしないわよ。わかっていても回避できないから、左右の靴なんじゃない」
「あはははは! そりゃそうだ!」
田中は爆笑した。
わたしはそんな田中をながめてため息をついて、
「で、なにが望みで、どんな対価を出す?」
「おっと一足飛びだね」
田中は不敵な笑みに戻って、わたしを正面から見た。
わたしは肩をすくめて、
「あんたが、いっぱしの策士だということはわかった。その上で、危ない橋を渡ってでもわたしと交渉したいという勇気も、見せてもらった。だからもう隠し事はなしで、一足飛びに結論を言いなさい。――なにが望み?」
「なに。今回の事件は奇貨だ。来たるべき三浦奪還の時に備えて、横浜を奪いたい。協力してもらえないかな?」
「……三浦関係だとは思っていたけど。ずいぶん大きく出たわね。できる気?」
「なに、全部支配する闇の帝王になりたいわけじゃないよ」
田中はひらひらと手を振った。
「単に僕は、横浜の商業力が欲しいだけなんでね。流通は力さ。三浦の最も有力な商売相手は横浜だ――なら、そこをにぎっておけば、いざというときに力になる」
「具体的にはなにをすればいいと?」
「横浜市からの援助は、全部僕が仕切らせてもらう」
田中は言った。
「それだけで十分だよ。要するに僕は、君をダシにして横浜市に恩を売りたいのさ。と同時に、横浜市で戦力を動かしたという既成事実も欲しい。どちらも有効に使える手札だ」
「わたしにとっては、安上がりね」
「安い商品は信用しないタイプかい?」
「そういうわけでもないんだけどね……まあいいわ。
こちらからは異存はない。それに、あなたと知り合えたことはラッキーだったわ、田中」
「握手でもするかい?」
「悪いけどパス。第二世代の暗殺に使える、わりと定番の手段なのよね、握手って」
触った場所から魔術的な穴を作って精霊刀あたりで一刺し。谷津田くんとかが得意そうな手である。
「あはは、そりゃ物騒だ!」
「じゃ、わたしはこれで失礼するわ」
「うん。また来るよ」
言葉を背に、わたしは田中と別れた。
(……結局、最後まであいつがわたしの正体を知っている証拠はなしか)
志津の情報をにぎっていて、わたしが簡単に殺せないことを知っている可能性を危惧していたが――露骨にかまを掛けたのに、スルーされてしまった。
だからといって知らないとは限らないのが、ああいう手合いのやっかいなところなのだが。殺し方まで含めて、知っている疑いは残ったままだ。
「最後の最後に、とんでもない爆弾を掘り当てちゃったなあ……これじゃ左右の靴にならないじゃないの、もう」
わたしは愚痴りながら、階段を降りて一階へ。
「…………?」
通りに出て、そして初めてわたしは、その事実に気づいた。
いや、実を言うと、さっきから違和感は持っていたのだ。
なにしろ考えることが多すぎたので、そこまで気を回す時間がなかったのだが。それでも、これだけの異常には、気づいて然るべきだっただろう。
「陰楼が……いない……?」
そう。
横浜中華街の名物。楽園の影。人間の形をした幽霊のような謎の存在であり、一説には桃源郷へと旅だった人間達の影であるとも、殺戮の後に人間の怨念が中華街に焼き付いたものだとも、はたまたただの特殊な魔術の暴走が未だ機能しているだけとも言われていた、あの陰楼たちが――
きれいさっぱり、ひとつもなくなっていたのだった。
---next, another tyrant of tempest.
【余談1】
今回のサブタイトルの冠詞がtheではなくaだったのは、次回のサブタイトルを見るとなんとなくわかります。
【余談2】
左右の靴ゲームですが、協力ゲームなので、二人目が三人目に賄賂を渡して黙らせるような挙動も含めて、全部封じられているのが特徴です。単純なベルトラン競争と違うのはそのあたりですね。
交渉できても避けられない。怖いですね。コアが一点なので仁もそこになります。なにげに、仁がシャプレー値より不公平に見える謎のゲームでもあります。
ちなみに、一人目を拒否権プレイヤーとした投票ゲームと見ることもできて、そちらのコアとの関連もそれはそれで面白いんですよね。




