10.なかったことに-no contest-(前)
海辺の決闘を終えて、わたしは帰路についた。
わたしの住んでいるアパートメントは、職場からは少し遠い、旧京急線の日ノ出町駅からすぐ側にある。
かの『崩壊』後に作られた路面電車は横浜の中心付近をだいたい網羅しているが、その整備網からも若干外れていて、路面電車の駅を求めれば、川沿いに隣の黄金町駅あたりまで歩かなければならない。
なぜこんなことになっているかというと、山……とまでは言わないが、高台が近くて、線路が引きにくいのだ。元々、日ノ出町の駅はトンネルを抜けてすぐの場所にあって、横浜駅方面に出るには長い長いトンネルを経るか、さもなくば上を歩いていかなければならない。
なぜこんなところのアパートを借りたか?
(まあ、家賃が安かったのも一因、ではあるけど)
どちらかと言えば、簡単に職場に行けないことが、その当時のわたしには重要だったのかもしれない。なんとなく仕事から距離を置きたい。わたしが横浜に来たときは、そういう気分だった。
禍福はあざなえる縄の如し。結果として今回のような場合、それは有利に働いた。
路面電車を降りて、川沿いを歩く。川沿いは隠れる場所が少ないため、尾行の有無を確認するのにはうってつけだった。
谷津田くんレベルの暗殺者が相手ならともかく、そのへんの雑魚相手に、わたしが遅れを取る心配もないし。……それに、一度殺された以上、油断もしていない。
もちろん、わたしの住所は職場に届け出ているので、待ち伏せの可能性も考慮されたが……
(ないでしょうね。明らかに相手は、証拠を隠滅しに来た)
犯人であった谷津田くんを締め上げて必要な情報を吐かせ、それによって黒幕を糾弾することは、もうできない。
後から考えれば、あのとき録音機材を持っていって、なんとしても彼の証言を録音しておくべきだったか。……いや。戦闘で壊れる可能性を考えれば、それも難しいか。
ともかく。そういった相手が、いまさら情報を吐かせることができる新たな素材を、都合良くわたしに差し向けてくれる可能性は、少ないと思うのだ。
油断はしないが、期待もしない。
それより、今後の計画を練る必要があると思うのだ。
この馬鹿げた騒ぎを終わらせて、平穏な日々を取り戻す。そのために必要なことを、整理する必要があると思うのだ。
そのためには、まず、落ち着いて考えられる状態を取り戻さないと。
(頭に血が上っているいまの状態じゃ、よくなるものもならないしね)
考えながら歩いていると、気づけばもうアパートの目の前だった。
オートロックをキーで開けて、エレベータで四階へ。402号室の鍵を開けて中へ。
……家に入ったとたん、どっ、と疲れが、身体にのしかかってきた。
(ダメダメ。まだ休むな)
こういうときはアレだ。アレしかない。
というわけで、浴室に直行。
(そういえば、昔、沙姫と話したことがあったな)
たしかそれは、わたしと沙姫がただの図書室仲間でしかなかった頃。
休憩中の雑談で、沙姫が本に書いてあった「クソみたいに熱いシャワー」というのに興味があるという話をしていた。
なにやらハードボイルドな感じの小説に書いてあったそうで、主人公が気持ちを切り替えるときに使っているそうなのだが、いまいち感覚が想像できない、という話。
当時、わたしたちの『施設』の寮では、お風呂は徹底して中央で温度管理されていたので、それを体験することは難しかった。魔術でいじって温度を上げるという手もあるが、それで暴走して風呂場を壊すリスクは冒せない。
まあ、昔の話である。
そんなわけで適当に脱衣所に服を脱ぎ捨てたわたしは、クソみたいに熱いシャワーを浴びて、それから冷水に切り替えて、またクソみたいに熱いシャワーを浴びて、さっぱりして外に出てきた。
志津の研究室から家に帰って最初にしたこともこれである。なんというか、この儀式をしないと満足できない身体になってしまった。
(考えてみたら、これもまだ三日目なんだな)
中華街から家に帰ってきて、出勤したのはたったの二日。
だというのに、とんでもなく状況は変わってしまっている。佐伯が死に、谷津田くんも死んで、解決方法がわからないまま状況は宙ぶらりんだ。
首を振って、わたしは脱衣所を出て着替えに向かう。
まだ夕食を食べていないし、それ以前に、なにかまだあるかもしれない。パジャマに着替える、という気にはならなかったので、いつものように外出着を手に取った。
選んだのは、スラックスとジャケットの下に無個性な無地のシャツを合わせた、ごくごく無難なマニッシュ系の服装。実を言うとスカートが大の苦手なので、こういうのしか着れない。職場にジャージで行くわけにもいかないし……
ちなみに正装が必要なときは、普通に男物の堅いスーツを着ることにしている。女にしては若干高めなわたしの背丈だと、ぎりぎり合うサイズがあるのだ。
いまは部屋だから履いていないが、靴は普通にローファーの類である。ヒールとか履いたら戦闘ができないし。
とまあ、それはともかく。
まず、状況の整理だ。わたしを暗殺しようとした……ではなく。暗殺した谷津田くんは、死んだ。
ではこれによって、どんなダメージがわたしに入るか。
(つまるところ、最もインスタントに事件を終わらせる方法は、途絶えてしまったわけだ)
谷津田くんと司法取引をして必要な情報を吐かせ、上にいた支部長に責任を取らせて更迭させて、それによって自分たちの安全を確保する、という方法は、もう取れない。
いや……考えてみると、それも難しかったのかもしれない。
谷津田くんは、支部長のさらに上に誰かがいるような話をしていた。だとすると、支部長が更迭されたところで、安全は確保できなかったのかもしれない。
そしてもし上が本気でわたしをつぶそうとしてくれば、たとえばわたしの家族なんかを人質にしたりする可能性もあるわけで。
(……やだなあ)
小さい頃に『施設』に預けられてから、年に一回の参観日くらいにしか会っていない両親だが、情がないわけではない。
あの『施設』の中にいた子供の中には、自分たちは捨てられた、売られたとわめいてるのもいたが、そこまでネガティブにもなれない。もちろん、『施設』に子供を預けた両親には高額の年金が与えられていたのは知っているが、それでも、だ。
そもそも拒否できる話だったとも思えないし、それに『施設』の環境は、『崩壊』後の東京圏での第二世代の居住環境としては最高クラスのものだったのではなかろうか。
小田原の子供たちとか、使い捨て爆弾みたいな扱いだったようだし……『再生機構』の側に至っては、さらにひどい扱いを受けたらしいのだ。
いや、わたしも実態を見たわけじゃないので、どこまでが本当かはわからないのだが。しかし噂話はいろいろ聞いていて、特に陰惨なのだと、魔力が異常に高いのは『崩壊』後に妖精が起こした取り替え子であって人間ではない、という噂を信じた親によってリンチの末殺された子供の話とかも、聞いたことがある。
東京圏の北側で最強という評判の第二世代、『月読』理堂播人が戦争に出てこないのも、それが理由。彼と『再生機構』には深い因縁があって、いまさら協力を仰げないほど関係が悪いのだとか。
……まあ、全部うわさではあるが。それでも、それらと比べてわたしたちは、少なくとも人間の子供として、ちゃんとした教育を受けたと思っている。
だからわたしは、家族と自立してはいるものの、普通に家族には情もあるし、普通に幸せになってもらいたい程度には思っているのだ。
逆に言えば。いざとなれば切り捨てられる程度の情ではあるが。
(それはそれで、心のエネルギーを使うのよね……やだなあ)
誰かが私のせいで不幸になるというのは、しんどい。
たとえば、それは死んでしまった佐伯のように。
ああいうのは、きつい。わたしは、自分が死ぬことよりも――自分のミスのせいで味方が死ぬことが、きつい。
(だから沙姫には、指揮官向けじゃないって言われたのよね)
そんなことまで思い出すのは、わたしが弱っているからか。
脱線気味の思考を振り払って、わたしは心をいったん落ち着けた。
いまは、ともかく現状把握が優先。敵側がああもあからさまに口封じに出た以上、この先もわたしのまわりへの攻撃が続く可能性は低くない。
わたしは部屋の中央に立ち、息を吸い、魔力の流れを操って詠唱短縮。
「広域探査!」
ごう、と魔力が球体を形作り、周辺一帯の魔力状況を映し出す。
この魔術は非常に高精度、広範囲な魔力探査計を作り出す技である。必要あらば魔力を元に映像まで作り出して、拡大して見ることもできる。荒っぽいモノクロ映像だけど。
弱点は、まき散らす魔力が大きすぎて、専門家が相手だとこちらから探査していることがバレバレなことなのだが……
(おやま?)
興味深い反応、一件。
このアパートからさほど離れていない場所。川から少しだけ東側にいった雑多なビル街の中に潜んで、動かないでいるそいつの反応に、わたしは眉をひそめ、
(うん。ま、行ってみようか)
この探査魔術は、放っておいても一時間近くは持続する。
逆に言えば、その間はこちらを見張る勢力に『高杉綾子はここで見張っている』と思わせる欺瞞効果があるということだ。だからこのまま置いておいて、こっそり外に出ることにしよう。
実を言うとその種の用意は抜かりない。このアパート、実は401号室もわたしが借りている。
なぜそんな経緯になったのか、というのは、実はけっこう複雑な事情があったりするのだが……まあ、今回は結果としてそれが幸いした。
ベランダ伝いにそちら側に出て、そちらから外出すればいい。後は変装。帽子とサングラスくらいは必要かな。マスクはいるかな?
(見張りが誰もいなかったら、それはそれで無駄な労力なんだけどね)
苦笑しつつ、わたしは準備に取りかかった。
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「……で、なにしてんのこんなところで。小辻くん」
「もがっ! もががががが!?」
背後からわしっ! と口をつかんで黙らせつつ言ったわたしに、小辻くんはめちゃくちゃ驚いたようだったが、口をふさがれているので叫べなかった。
……やっぱり。口を押さえないと絶叫すると思ったんだ。
わたしが口から手を離すと、小辻くんはあわてて振り向いて、
「高杉さん!? なんでここに? 探知魔術の信号はまだ持続してるのに……」
「あの探知魔術はただの目くらましと脅し用。それより声を落として。ここまで変装してきてるのに、騒ぎで観察者の目を引きつけたくない」
わたしが言うと、小辻くんは少し落ち着いたようだった。
「で、でもびっくりしました。僕、違うことに集中してたんでぜんぜん気づきませんでしたし……」
「違うことって、なに?」
「いや。高杉さん、すごく強い探知魔術使ったじゃないですか」
「そうね」
「だからそれにまぎれて、弱い探知魔術を気づかれないように使ってみたら、あのアパートを観察している複数の人影があったんで。それでうかつに近寄れそうにないなって思って、考えあぐねてたんです」
「……なるほど。そういう考え方もあるのか」
たしかに。わたしが大規模探知魔術を使っているときに、他人が探知魔術を少し使ったところで、その気配はわたしの魔術にまぎれて気づかれないだろう。
なにげに理にかなっている。というか、
「もしかして以前にもそういうこと、あった?」
「足柄山のゲリラ戦でやりましたよ。天際さんが強力な探知魔法で相手の目を引きつけて、その間に僕らが近寄ってきた兵隊を各自探知して、各個撃破したんです」
「……なるほど。沙姫ちんが考えそうな手だと思った」
やはりこの子は百鬼夜行である。下手すると、わたしよりも実戦慣れしているのかも。
「というか、高杉さんこそなんでこちらに? いえ、変装して誰にも気づかれずに来たみたいですけど……」
「あの探知魔術を使ったら、やたら馬鹿でかい魔力反応があったから。これは小辻くんしかいないと思って」
「あー、そういえば最初に会ったとき、そんなこと言ってましたね……」
小辻くんは苦笑した。
シェイプシフターの形態維持魔力は馬鹿でかくて、下手すれば探知魔術がなくても気づくレベルである。たしかに、そんな話を、小辻くんと出会った直後にしたのだった。
もうだいぶ前のように感じるが、まだ一週間も経ってない日のことだ。
「それで話を戻すけど、そもそも小辻くんはなんでここに? わたしに会いに来たってこと?」
「あ、はい。そうです。結果として目的を果たせてよかったです」
「なんで?」
「課長からの命令で。高杉さんを呼び出してこいと」
「ケイが……?」
こくん、と首をかしげた。
「というか、小辻くんはなんでケイの命令とか聞いてるの? ケイって実は第七軍の関係者なの?」
「そういうわけじゃないみたいですけど……ただ、課長は僕のこと、信頼してるって言ってました」
「なんで?」
「ええと、『利害関係がないから』って言ってましたけど」
「…………」
なるほど。それはそうだ。
考えてみれば。小辻くんは『第七軍関係者』であり、それ以外のバックボーンがなにひとつない。
わたしを暗殺しようとしたのが支部長であることが確定している現在。支部長や、その裏側の連中のスパイである可能性がいちばん低いのは、この小辻くんだろう。
(なんだかんだで、やっぱわたしがいちばん、抜けてるのかなあ)
気まずさを感じて頭をかく。
それからわたしは小辻くんに向き直り、
「いいわ。行きましょう。
ケイがなにを考えてるのか。たしかにわたしも気になるわ。行ってみようじゃない」
と言った。