8.推論規則-modus ponens-(前)
ざざーん、とのどかな波音がした。
青い空。
青い海。
横浜は今日も、旧世界の光景そのままだ。
「隣、いいかね」
「どうぞ」
言われ、素直にうなずく。
相手はビールを入れたコップを持っていた。たぶんそのへんの売店で買ったのだろう。『崩壊』後と言っても横浜はまだまだ平穏で裕福なので、そういう売り場はたくさんある。
ただ、容器はさすがに、紙コップが主流だった。プラスチックとかスチールとかは貴重すぎるのだ。
そんなわけで眼下の海辺にも、プラスチックカップのゴミが散乱していたりなんかはしない。きれいなものである。
相手、椎堂卿はふわあ、とあくびをして、言った。
「釣りでもやりたい天気だなあ」
「ケイは海釣り、やったことあるの?」
「まあ、片手で数えられる程度な。おまえはどうだ? 昔はあっちこっち行ってたんだろ?」
「川ならあるけどねー。第一、いまの東京圏じゃ、横浜でないと海釣りなんてできないじゃない」
「いや、案外できるらしいぞ。あの燃える赤いプランクトン、実は海の表面しか覆ってないらしくてな。下は海産物の宝庫なんだと」
「へえ……三浦とかだとそういうものの料理もあるのかな」
「ありそうな話だな。もっとも、その三浦もあの政治状況じゃなあ……」
なんとなく、会話が止まる。
ふう、と軽くわたしは吐息。
「まだ佐伯の葬式、やってるんでしょ? 抜け出してきていいの?」
「同じ抜け出し組のおまえに言われたくないな」
「ケイは課長じゃない。わたしと立場が違うでしょ」
「それを言うなら総責任者は支部長だ。私くらいなら抜けても文句は言われんよ」
「そんなものなの?」
「そんなもんだ」
ケイはそう言って、ビールを一気にあおった。
「『崩壊』前とは基準が違う。死にまくったからなあ。人間、死に慣れると葬式というのも雑になる。結果としてどんどん簡略化されて、いまじゃずいぶん簡素になったもんだ」
「そういうものなの? わたしは『崩壊』前をあまり知らないからなあ。昔はもっと葬式って豪華だったの?」
「おう。通夜と告別式があって二日態勢でな。その上さらにいろいろ儀式があって本当に面倒だった。
だがまあ、基本的に葬式やら年忌やらってのは、生者の満足のために行われるものだからな。死者はなにも思わない。だから生者が葬式どころじゃないほど忙しくなれば、自然と簡素になるもんだよ」
「なるほどねえ」
死者はなにも思わない。この前も聞いた言葉だ。
「お坊さんとか、実は困ってるのかな。収入が減って」
「いやあ、そうでもないよ。人間、困ったときにすがるのは宗教だろ。だからあいつらは安泰。むしろ『崩壊』でいちばん得してるんじゃないかね、連中」
「そうなの? わたしにはよくわかんないなあ」
「そのうちわかるようになるさ。人間をたくさん見れば、嫌でもわかることがある。
さて……そろそろ、本題に入るか」
ケイはコップを横に置いて、懐から一枚の紙を取り出した。
「襲ってきた『集団』についてはわからんがね。さしあたり当初の容疑者だった『彼』についての情報だけ、抜き出してきた」
「ふうん。……なるほど」
「どう思う? これ」
「まあ……不自然なところはいっぱいあるわよね」
「ああ」
二人して、うなずく。
「出身地は戸塚ってなってるけど、身元保証先は鎌倉。そんで転出記録にはどちらの記載もなし。典型的になにかが隠蔽されてる跡よね、これ」
「私もそう思って、身元保証先とか銀行口座とかの記録をもう少し追ってみた。まあ、この作業のせいで、実は日付が変わるまで例の資料室に籠もっていて、出てきて初めて佐伯の死を知ったわけだが」
「お疲れ様。でも他の人には、どうせまたサボってたとか思われてるんじゃない?」
「べつにそれはそれで構わんよ。ほれ」
言ってケイは二枚目の紙を取り出した。
見て、すぐにうなずく。
「小田原ね。それも中心部」
「これで兵役経験なしと言われても、ってな経歴だよな」
「そうね」
「おまえから、心当たりはあるか?」
「んー、いろいろあるけど。とりあえず彼が、昨日わたしを襲ってきた相手だと仮定して話をするわね?」
「ああ」
「彼、なんかヤバいと思った。それは勘でしかなかったけど、こうして経歴を見れば納得できるわ。たぶん彼は、第二世代専門の暗殺者だったのよ。それも、何人も実際に暗殺した経歴がある、古強者ね」
「それは確かか?」
「勘が入ってる、って言ったでしょ。でもまあ、たぶんね。
順に話しましょう。まず、わたしは相手の幻術を破ると同時に、自分から幻術をかけて懐に飛び込もうとした。でも完全に読まれてて、幻術を破られたわ」
わたしの、『自分から近接しようとする』という挙動は、実のところ第二世代としてはかなり異端である。
火力に自信のある第二世代は、普通はその制圧能力と防御力を十全に活かすために、距離を取ろうとするものである。が、わたしの場合、竜牙烈掌という絶対の信頼が置ける切り札があって、こちらを活かすためにむしろ接近戦を好む。
通り一遍の第二世代対策をしているだけの相手なら、わたしのスタイルは不意打ちにもなり得るものだったが――相手はこれを完璧に読んでいた。おそらく相手はわたしの能力情報から戦闘パターンを類推して、それに対するカウンターを最初から用意していたのだ。
「その時点で考えたのは全圧型の攻撃による牽制。だけど勘でヤバいと感じて、とっさに逃げに切り替えた」
「全圧型とは?」
「んー……少し解説長くなるけど、いい?」
「構わんよ。葬式が終わるまで、まだだいぶ時間がある」
「魔術の中で、範囲攻撃って言われるものに種類があってね。一に炸裂、二に散弾、そして三に全圧って分類されるわけなんだけど。
炸裂は聞けばわかるわよね。つまり爆発っていう物理現象を作り出して相手を攻撃する術。いちばん楽に使える範囲攻撃で、魔力的なコストパフォーマンスがとてもいいわ」
「ふむ。弱点は?」
「しょせん物理現象なこと。
ケイだって知ってるでしょ? それこそ第二世代じゃなくても、強力な魔術師の防御魔術は銃弾や砲弾、ミサイルを捌ききる。『物理攻撃では魔術防御を抜けない』ってのは、もう東京圏の魔術戦じゃ大前提なの。だから炸裂型じゃ防御している敵をどうにもできない」
「なるほど」
「次に散弾型。これはまあ聞いての通りよ。いっぱい撃てばどれかは当たる」
「単純だな」
「そ。だから弱点もすぐわかるでしょ? 射撃魔術に対する対策が全部適用できる。打ち返しの矢みたいな、簡単かつ強力な魔術防御を抜くことができないわ。もちろんエネルギーが高ければ突破できるけど、たくさん撃ってる以上はそうもいかないしね」
「ふむ。残ったのは全圧。これが今回の主題だな?」
「ええ。全圧型ってのは文字通り、広範囲に魔力を行き渡らせて全体に攻撃する技――辺り一帯を火の海に変えるとか、そんな天変地異を起こしてしまう技よ」
「ははあ……わかってきた。つまりそれの弱点は燃費だな?」
ケイの言葉に、わたしはうなずいた。
「そう。この種の攻撃は、第二世代でもないとまともに使えないほど魔力消費が激しいのに、攻撃力がしょぼいのよ。だからちゃんと意識して防御すれば耐えられる。
で。話を戻すと……わたしは勘で、この全圧型攻撃が読まれていると想定した。敵はおそらくすでに精霊刀を展開していて、そして全圧型は攻撃力が低いから、ちょっとだけなら普通の魔術師でも耐えられる。目くらましに放った全圧型攻撃を無視して精霊刀抱えて突進されたら死の危険があるわ。だから逃げた」
まあ、これは後になって整理したからわかることである。
あのときはとにかく、ヤバいという直感だけを頼りに飛んだのだ。それがおそらく当たっていたであろうということを知ったのは、全部終わって、冷静に考えてからの話である。
「相手はそれを追ってきた。そして予想通り精霊刀をすでに装備していたわ。とっさに防御魔術で相手を止めようとしたけど、その防御をゴリゴリ抜かれていってあわててわたしは逃げた」
「精霊刀ってのはそんなにヤバいのか?」
「近接戦でしか使えない代わりに、魔術防御を突き抜ける能力がとんでもなく高い技よ。わたしでも、防御魔術だけでは、数秒稼ぐのが精一杯ね」
実のところ、先に述べた第二世代が遠距離戦を好む理由の八割以上は、この精霊刀という魔術を避けるため、だったりする。
「それで、わたしは広い場所での取っ組み合いを避けて、室内戦闘に移行しようとしたわ。室内だと相手の動きも制限されるし、こちらの方が有利――と見たんだけど、相手は乗ってこずに、建物ごとこちらをつぶそうとしてきた。とっさにその可能性を把握してわたしが上に放った魔術で、逆に建物は上側に吹っ飛んだけど、あれに失敗してたら生き埋めになった上で、脱出しようとしたところを刺されてるわね」
「なるほど。後は?」
「通りに出て仕切り直ししたんだけど、小辻くんがやってきたからね。そこから先は戦闘にならず、退却されちゃった。
以上が昨日の戦闘の顛末よ。聞いての通り、わたしは防戦一方だった――不意打ちされたわけでもないのに、対応がことごとく後手後手に回ってた。尋常な相手じゃないわ」
「それで第二世代専門の暗殺者、ってわけか。あり得ない話ではないが……しかし、小田原にはそこまでそういうのの需要、あったのかね?」
「むしろ小田原ってそういうののメッカじゃないの? 第二世代が各勢力の主力になってた以上、それを暗殺することができれば大きく有利になるでしょ。
失敗しても、しょせんそのへんの戦技魔術師一人の損失で済むしね」
「第二世代には第二世代を。この定番を逆手に取った奇策ってことか」
「まあね」
わたしはうなずいた。
もっとも……心の中では、違うことも考えている。
たしかにそういう人間は小田原には少なくなかっただろうが……あの暗殺者は別格だ。
実戦を離れて久しいとはいえ、かつては最強格の第二世代と言われていたわたしを相手に正面から圧倒するというのは、常軌を逸している。
「さて、問題はこれからどうするかだ」
ケイの言葉に、わたしは我に返った。
「例の『彼』が容疑者の可能性は高く、かつ、そいつには仲間がいて、情報課のメンバーを同時多発で襲えるときた。
昨日の襲撃、怪我人は数名出たが、犠牲者は佐伯一人だ。言い方は悪いが、『佐伯一人で済んだ』とも言える。だが今後またなにか動くとして、それ以上の被害者が出ない保証はない。どうするつもりだ?」
「べつにたいした問題じゃないでしょ。即、カタをつければ済む話」
「おい、相手の容疑がまだ固まったわけでは――」
「固めりゃいいのよ」
「は?」
ぽかーんとするケイに、わたしは不敵に笑った。
「ま、見てなさい。
今日中には相手をふんじばって、拷問で徹底的に情報を吐かせてやるわ。それで済む話でしょう?」
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いったんケイと別れて時間をつぶした後、昼休みも終わって全員もう課に帰っているだろう頃合いを見計らってわたしは支部へと戻ってきた。
「おや。やっと帰ってきたのかね」
「やっほー楢崎さん。……ここんとこ、門番してること多くない?」
「課長から信頼がなくてね。おまえは机仕事だとすぐ寝るからダメだと。立ってりゃ寝ないだろうってよ」
「そっちはそっちで大変ねー」
「んで、あんたはどうした? なんか用事でもあったのか?」
「愛しい彼と死に別れ、海を見て泣いてたのよ」
「……対応に困ること言わんでくれんかな。冗談でも本当でもリアクションできねえよ」
「あはは、本当の可能性があるって思ったんだ」
「いや、まあ。ねえ……」
「大丈夫大丈夫。わたしは人でなしだから、誰が死んでも泣かないわよ」
「それ、胸を張って言うことか?」
ジト目で楢崎は言った。
「さて、それはともかく……もうみんな、帰ってきているわよね?」
「ああ。さっき椎堂課長も帰ってきてたぞ。……あの課長、葬式もサボったんだって?」
「ケイらしいわよね」
「それで済む話かね、まったく……」
うなる楢崎に適当に手を振って、わたしは階段を上がっていった。
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「ふざけないでよっ!」
びくっ、とさすがのわたしも、足を止めてしまった。
情報課、オフィスの扉の前である。
いや、内部で怒鳴り声が聞こえたのは、そこまで足を止めることではない。
問題は、その声の主が――
「言うに事欠いて、綾ちゃんが犯人だとか言うわけ!? どうしてそんな無責任なことが言えるの!?」
「い、いや、だから犯人だって断言はしてないだろ!」
……チカだったのである。これは珍しい。
というか、チカがキレて人を怒鳴るところなんて、わたしは初めて見た。
こっそりドアを開けて中に入ると、課の中央でチカとやり合っているのは、案の定彼だった。
――谷津田久則。
「断言してないって言っても、言ってるようなものだったじゃない! なんで綾ちゃんが疑われないといけないのよ!」
「いや、だって彼女、佐伯さんとすごく仲が悪かったじゃないか。だから動機はあるし――」
「それだけ!? それだけで疑うの!? なにそれ信じられない!」
「だ、だって彼女なら殺せるじゃないか! 化け物みたいな魔術師なんだぞ!?」
「化け物ってなによ! それに昨日は綾ちゃんだって襲われて――」
「いや、だからって目撃者がいるわけじゃ――」
「……あ、高杉さん」
ながめていると、小辻くんが寄ってきた。
「やあ、小辻くん。意外な展開ね」
「そうなんですよ。あの谷津田ってひとが高杉さんの悪口を触れ回っていて、最初僕が反論してたんですけど、藤宮さんに火がついちゃって……」
「そうね。まあ、都合がいいわ」
「?」
ハテナマークを浮かべる小辻くんをよそに、わたしはその場の中心に近寄っていった。
「じゃあなに、佐伯センパイはあたしが殺したって言いたいわけ!?」
「だ、誰もそんなこと言ってないだろ!」
「アリバイがないのは同じじゃない! なに、さっきから聞いてれば結局、綾ちゃんの悪口が言いたいだけ――あ」
先にわたしに気づいたチカが気まずそうな顔をするが、悪いとは思ったもののいったん無視。
遅れて反応した彼に、わたしは話しかけた。
「やあ谷津田さん。一日ぶりね」
「……ど、どうも」
「で、なに。容疑者捜しの話? わたしも混ぜてよ。面白そうじゃない」
「いや、それはその……」
「ところで谷津田さんって小田原出身よね。兵役とかやったことあるの?」
あっさり、がらりと話題を変えたわたしに、谷津田さんはしどろもどろになって、
「な、なに言ってんの。僕は戸塚出身だし、兵役なんてやったことあるわけ――」
「ふうん?」
言いながらわたしは彼の腹のあたりに手をやり、
「竜牙烈掌」
「!?」
がだだんっ! と大きな音がした。
とっさにわたしの手をよけた谷津田さんが、横にあったデスクに身体をぶつけた音だ。
「な、え、な……!?」
「うん? どうしたの、谷津田さん?」
「なんて魔術を使うんだ! オフィス内でそんなの、下手すれば余波で全員死ぬぞ!」
「うん。だから魔術の詠唱だけして使わなかった。
びっくりした?」
「え……あ……」
きょとん、としている彼に、
「で、名前は知ってるんだ。竜牙烈掌。マイナーな魔術なのにね?」
「あ……」
しでかしたことがようやくやばいと気づいたのか、彼は目を見開き、
「剛打撃!」
「加速!」
わたしの打撃を紙一重でかわし、ひらりとジャンプして窓に飛び寄ると、
「剛打撃!」
がしゃああああん! とガラスを派手に割って、そのまま窓から逃げ去っていった。
わたしは満面の笑みで、その行動を見送った。
「え……あれ? なにがあったの?」
目を丸くするチカに、わたしは親指を立てて、
「わたしの襲撃犯は谷津田さんで確定。そういうこと」
と、ウインクして言った。