5.再生機構-the renaissance agency-(後)
考えていたら身体を動かしたくなって、わたしは外に出た。
外と言っても、この研究施設の中はむやみに動かないように、と言われている。退屈しのぎの本やゲームは与えられていたが、私室と志津の部屋、それから検査室以外にはほとんど縁がないわたしだ。
なので玄関もどこにあるかいまいちわからないのだが、そこは普通に窓から出ることで解決した。
(さて、と)
軽く屈伸してから、歩き始める。
夜の闇といっても、晴れた今日みたいな日には月明かりで十分に明るい。もうそろそろ梅雨という季節の夜は、居心地のよい快適な涼しさで、そこを一人で独占しているというのは、なんだかすごくぜいたくなことに思えた。
(そういえば、この中華街が立ち入り禁止である理由を、小辻くんは説明してもらえたんだろうか)
なんてことを、ふと思い浮かべる。
一人と言ったが、人影ならある。中華街をうろつく謎の影、いわゆる陰楼は、こんな時間でも休むことなく、いろんなところを行ったり来たりしている。
この陰楼がなんなのか、わたしは知らない。
というより、横浜市民の誰もが知らない。志津なら知っているのかもしれないが、そこまで踏み込んでいいものかというためらいがあった。おそらく志津は、この陰楼を含めた中華街の調査を市に委託されているのだろう。
歩いていると、左手に関帝廟が見えてきた。
横浜を覆う『関帝結界』の名の語源であるこの関帝廟は、関聖帝君という名前の道教の神様を祭った神殿だという。
その神殿と関帝結界の間の関係も、実を言うとよくわかっていない。少なくとも、関帝結界の中心はここではないらしい。ただ、関帝廟が横浜を守っていると信じている横浜市民は多くて、それが名前の由来となっている。
……ただの神殿の残骸ではない。
それだけは確実だった。この関帝廟がただの神殿に過ぎなかったならば、中華街は立ち入り禁止になどなっていない。
わたしも、横浜に来たのはそれほど前ではない。だから資料でしか知らないが、この中華街において凄惨な市民同士の殺し合いがあったらしい。
その死者は合計で十万人以上(説によっては百万人近く)と聞くから、とんでもない話だ。なにがあったのかは、本当に数少ない生き残りから聞くしかないのだが、それらの人物は横浜市が隔離してしまっていて、我々にはコンタクトを取れない。
というか、実を言うと、死んだかどうかもわからないという話もある。
噂話から推測された事情は以下の通り。まず、『崩壊』の直後に、横浜市民の間にこういう噂が広がった。
『関帝廟に行けば救われるらしい』
『関帝廟の力で、桃源郷と呼ばれる安全な領域に逃げ込めば、助かるらしい』
まだ『崩壊』直後で、なにが起こるかわからない不安に人々が駆られていた時期だ。
さらに言えば、当時の「横浜市」は、いまの「横浜市」とは違った。いま「横浜市」と言ったら、それは関帝結界の力が及ぶ範囲を支配する行政主体を指す。しかし、かつての政令指定都市・横浜市はそれよりずっと広かった。その地域に住んでいた人の中には、関帝の力にすがるしか安全を確保する手段がなかったひとたちもいる。
彼らは次々と中華街に集まり、そして……噂された約束の地、桃源領域への移動権を賭けて、凄惨な殺し合いに発展したのだとか。
その結末はわたしにはよくわからない。わかっているのは、ほとんど誰も残らなかったということだけだ。
ほとんど誰も残らなかったが、陰楼は残った。
以降、中華街は正体の知れぬ陰楼がうろつき回る魔境と化し、事態を重く見た横浜市は中華街を閉鎖。立ち入り禁止に指定していまに至る。
というのが、わたしが知っているすべてだ。
……まあ、こうして整理してみれば、志津がここにいる理由なんて、その事件の調査しかないだろうということはすぐにわかる。
ただ、わたしや『新生の道』横浜支部情報課が知らない情報を横浜市はにぎっていて、それ次第で調査の目的がいろいろ変わりうるのが、面倒なところだ。
知りすぎるとこちらの身分も危なくなりそうなので、深入りしないようにはしているが。
……さて。
(三分前から、仕掛けられているわね)
女は地図が読めない、などとよく言われるが、わたしはそのへん、わりと読める方だ。
地図がなくても、目的地へたどり着くために方向を常に意識しておくことにしているし、それでだいたい迷わないで済む。
そういうわたしから見て、この中華街をただ歩いているだけで迷っていく感覚は、どう考えてもおかしかった。
どう考えても、誰かが惑わせている。というか、
(それ以前の問題。油断していないわたしに、よりによって『幻術』とはね)
安い挑発のつもりか。
時間を稼げればそれでよいのか。
あるいは――
(この術者、実は幻術の特性をほとんど知らない?)
その可能性を少し探って、わたしは首を振った。
油断するわけにはいかない。どちらにしろ、幻術を無断でかけるというのは立派な敵対行動だ。
さて、問題はその強度だが――破ろうとして気取られたら相手もアクションを起こすだろうし、一発で破らなければならない。
そうすると簡易詠唱では危険だ。完全詠唱で破幻を仕掛けるしかない。
(じゃ、やりますか)
わたしの身体を巡る魔力を、筆でなぞるようにして制御し、ある種の意味を作り出す。
――詠唱短縮。語源はよくわかってない。元々は動物の群れの大暴走を意味するらしいこの言葉は、なぜかいまでは、魔術詠唱を魔力で代替させる技術の名前になっていた。
まあ、使えればどうでもいい。それに一日前と違って、今回使う魔術はそんなに難しくもない。
わたしはすう、と大きく息を吸い込み、足を止めて、
「偽也!」
ばごっ、というなにかが砕ける音とともに、あたりの光景が一新された。
と同時に。
「あー!」
悲鳴が、真後ろから聞こえてきた。
「呪杖が! この前のボーナスが! 高かったのにー!」
「ああ……わたしの破幻とそちらの呪術の、負荷の掛け合いに耐えられなかったのね」
わたしはのんびり言って、それから振り向いた。
果たしてそこには、泣きそうな顔で破損した杖を見ている女のひとがいた。
眼鏡をかけた知的美人、という印象のひとである。髪の毛はボブ。黙っていればどこのオフィスにいてもやり手として通りそうな外見の彼女だったが、泣きそうな顔のせいでいまは台無しだった。
「あなたが、志津の助手の島田さんってひと? 意図的に会うのを避けられていたみたいだけど、初めて顔を合わせるわね」
「おのれ高杉綾子……! わたしのボーナスを、こんな台無しにしてくれて……!」
「いや、それは完全に自業自得でしょ。……あれ?」
わたしはぱちくり、とまばたきした。
目の前の相手に、見覚えがある。というか、
「ひょっとしてあなた、あのヒーローショーの司会のひと?」
「そうよ! ていうか高杉綾子! うまいこと志津先生に取り入ったようだけど私の目はごまかされないわよ! 昨日あなたが元気に課長をボコボコにしたこと、覚えてるんだからね!」
びしっ! と折れた杖を突きつけて叫ぶ島田さん。
……突きつけた後で折れた杖を見て、また泣きそうな顔になったのは、この際無視するとして。
「そっか。つまり『再生機構』、中華街にスパイをもぐり込ませることに成功してたわけだ」
「もちろんよ! これのために私たちは一年半をかけたわ! 厳しい採用面接……魔法技術の勉強……実地訓練……それを!」
びしびしっ! とやはり折れた杖を突きつけて、島田さんは言った。
「ちょっと死にかけた演技で! 一日で『新生の道』に同じことされてたまるもんですかー!」
「……うん。まあ、そうね」
たしかに端から見たら、『新生の道』の、それもよりによって情報課の職員が中華街に平然と出入りできるいまの状況は、『うまくやりやがって!』と言われるに余りある僥倖ではある。
とはいえ、わたしからすれば演技でもなんでもなくマジで死んでたので、言いがかりも甚だしいのだが。というか……
「ひょっとして……志津から、わたしの詳しい事情とか、聞いてないの?」
「どうせ嘘だろうから流した!」
「……あ、そう」
たぶん懇切丁寧に説明したであろう志津が、少しかわいそうになった。
「ともあれ、こうなったら徹底的にやってやるわよ! おのれ高杉綾子、このボーナスで買った杖のうらみ、たっぷり味わわせてやるんだから!」
「やめといたほうがいいんじゃ……というか、それ以前に一流の戦技魔術師に幻術なんて仕掛けたら、そりゃこうなるでしょ。わかってないの?」
「よくわからない! ていうか、なんで幻術がバレたのかもわかんない!」
「……あー。馬鹿だったかー」
「なにおう!」
相手がじたばたするのを横目に、わたしはため息をついた。
「たしか『再生機構』って、前団体の『首都再生機構』の流れを継いで、かなり長い間「『崩壊』以前の秩序を取り戻す」ってスローガンで、『崩壊』以後の技術である魔術を否定してたのよね。そのせいで研究が遅れてるって聞いたけど、そういうことなの?」
「にゃにおう! こっちだって最近は研究所立ち上げてがんばってるんだから! 我らが『賢人機関』を舐めないでよね!」
「それにしては幻術の理解が浅すぎるわね……ていうか、幻術がどうやって相手に幻覚を見せてるか、ちゃんとわかってる?」
「わかんない!」
胸を張って言う島田さん。……いかん。このひと、どんどん馬鹿が露呈してきてる。
見た目知的美女なのになー。もったいない。
「じゃあ簡単に解説するけど。……音を聞かせない、特定のものを見せない、という程度のごまかしならともかく、五感のすべてを高度にだます幻術ってのは、普通のやり方じゃできないのよ」
「? でも、できてたじゃない」
「だから『普通のやり方』じゃないの。普通ってのは、たとえば匂いをごまかすために空気を操るとか、自分を分身させてみせるために光を操るとか、そういう工夫のこと」
それらは、卓越した職人ならできるかもしれない。いや、職人というよりは、芸術家か。
ものすごく練習すれば、そういった細工を限定的に起こすのも不可能ではないだろう。だが、普通に考えて労力に合わない。
自分を分身させて見せるのなら、魔術でその都度自画像を描くレベルのことをしないといけない。それも、見分けがつかないほどのリアルさでだ。できる人間はいるのかもしれないが、普通は無理。
そして、戦技魔術師と呼ばれる、魔術を戦闘に使うことに特化した人々が使う術は、そういうのではダメなのだ。
戦技魔術師の技術は、徹底して工学的でなければならない。つまり、同じ手順で使えば、誰でも同じ結果が起こるのでなければならない。
そういう、誰でも使える難易度で幻術を実現する方法は……ひとつだけしかない。
「いまの東京圏で幻術って言ったら、それは『相手の自己領域を騙す』技なのよ。相手が持ってる自己領域を誤作動させて、偽の感覚を与える技。
だけど自己領域に干渉するってことは、自己領域が検知できるってことでもあるのよ。だから一流の戦技魔術師は、油断していない限り、幻術を使われた瞬間に看破するし、看破したら当然破るわよ」
「で、でも、この幻術は特製なのよ! 呪杖で増幅して、簡単には破られないようにした特注品なのに――」
「はいそこで幻術の弱点その二。幻術ってね、作るより破るほうがはるかに楽なのよ」
わたしは無慈悲に言った。
そう。東京圏で、幻術を積極的に使う戦技魔術師が少ない最大の理由が、これなのである。『偽也』という、超高性能かつめちゃくちゃお手軽な幻術破りの術式の存在――これがパワーバランスを完全に破壊している。
どんな高性能な幻術でも、それよりはるかに魔力の使用量が少ない、完全詠唱の偽也にほぼ耐えられない。
「さて、そんなわけで……喧嘩売ってきたのはそちらだけど。まだやるの?」
「もちろん!」
勢い込んで島田さんは言って、――直後、彼女の背中のあたりからじゃきじゃきじゃきっ! という展開音がして、鉄でできた翼のようなパーツが現れた。
「ふ。ボーナスを一瞬でふいにされたのは痛かったけど、だからといって甘く見ないことね! この中華街でどちらの勢力が上か、徹底的にわからせてやるから覚悟しなさい、高杉綾子!」
「……。見たことがない術具ね。自作?」
「うちの予算じゃろくなモン買えないのよ悪かったわね!」
むきー! と怒る島田さん。……いや、悪口じゃなくて、純粋な感想だったんだけど。
というか、自作術具はけっこう、油断ならない。定番でないだけに、効能が初見ではわからないからだ。
わたしが相手の実力を測りかねていると、
「ではいくわよ! 魔法の矢、噴射!」
「うわ!?」
ずどどどどどど、と蒸気を上げながら迫り来る青い弾丸を、わたしは側転してかわす。
が、――直後、嫌な予感がしてジャンプしたわたしの下を、青い弾丸が背中側から通過。
さらにがくんと直角に曲がって上に迫り来るそれを、
「大盾!」
わたしが作ったバリアが、ばちばちばちん! と弾き飛ばす。
(この魔術じゃ片面しか防御は無理。なら!)
「封邪の円柱!」
即座の判断で、わたしは大盾を生贄化して魔術を変更。
だんっ、とわたしが地面に突き立てた拳を中心に円柱状の防御領域が形成、ばちばちばち、と島田さんの弾丸が当たって火花を散らした。
(普通の魔法の矢より威力が高いし、かなり高度な追尾性能がある。思ったよりやっかいな――)
「っとお!」
封邪の円柱を解除し、あわてて前転。直後、上から飛んできた爆弾のような魔術が炸裂し、地面を焦がした。
「どこを見ているの高杉綾子、私は空中よ!」
叫んで、文字通り術具を翼にして空を飛びながら、青い光弾を発射しまくる島田さん。
……あったまきた。
「守護の法印」
わたしの手の中に、防御を司る強力な術印が浮かんだ。
それが発生させた防御結界が、青い光弾を次々と弾いて無力化する。
もちろんそれは本命ではない。守っているだけじゃジリ貧だ。
しかし空中にいる相手はやっかいだ。下から上というのは、思いのほか狙いにくい。その上、地面がないので爆風で吹き飛ばすのも一手間いる。
なら――
(夜空を埋め尽くすほどの火力で吹っ飛ばせばいい!)
「廻れ魔力よ――我が力を示せ!」
一言ではない、短い詠唱。そして詠唱短縮。これらを駆使して、本来ならば長い詠唱が必要な魔術を無理やり実現させる。
最後の一手が少し足りないので、わたしは相手の攻撃が若干手薄になる瞬間を見計らい、息を吸って、
――守護の法印を生贄化してブーストし、
「火炎爆熱砲!」
爆炎が、大気を震わせて空へ吹き渡る。
「え、きゃあああああああ!?」
ここまで荒っぽい魔術を想定していなかったのか、島田さんがあわてて逃げようとしたが、遅い。
わたしの出した炎はあっという間に広がり、彼女の逃げ場をふさいでいた。
「第二世代の魔力をなめたわね。一発撃てればこんなもんよ!」
「こ、このおっ! こんな炎で、あち、あちちっ!」
島田さんは空中に逃げ場がないと見るや、炎に突入して、逆に地面へと突破しようとした。
正解だが、正解ではない。わたしの魔力はまだ有り余っている。
「魔法の矢、溜射!」
「え、ちょ、待っ」
わたしの撃った極大の魔術砲は、いままさに墜落してきた島田さんの、その着地地点に向かって走り、
「そこまでだ」
――声と共に、炎と魔術砲、両方が一切消え失せた。
……そろそろ出てくるかな、と思っていたが、やっぱりか。
「ここは中華街だ。その中で大騒ぎを起こさないでくれたまえ。私の報告の手間が増える」
「志津……先生」
「ハカセと呼びたまえ。私の助手を務める者には、それを求めている。
言ったはずだがね。忘れたかな? 島田あさぎ君」
「め、滅相もないです!」
かしこまる島田さんを一瞥して、志津はため息をついた。
「どうも不幸な行き違いがあったようだが。
両方とも落ち着きたまえ。君たちの思惑はいろいろあるだろうが――喧嘩でどうにかなる問題でもないだろう?」
「……まあ、そうね」
わたしはうなずいた。
こうして。
わたしと島田さん。違う勢力に属する者のいさかいは、強制的に中断されることになったのだった。
---next, red town.
【魔術用語解説】
1)詠唱短縮
すでに本編に二度出てきた通り、本来は長い詠唱を短縮して使うための技術。
東京圏の魔術は、使用魔力量とはまた別に、「詠唱の長さ」が厳密に決まっていて、その長さを短くするためにはいろいろな技巧を凝らさなければならない。これはそのひとつ。
魔術の名前を叫ぶだけで使えるようにするために、魔術師達はいろいろ苦労しているのである。
2)生贄化
ある魔術を消し、その消した魔術を他の魔術を使うために転用すること。
魔力の足しにする場合もあるし、詠唱を省略するために使われる場合もある。高杉の場合は魔力はたいてい足りているので、威力の強化か詠唱の短縮のために使うのがほとんどである。
【魔術紹介】
1)『大盾』
難易度:B- 詠唱:簡易詠唱 種別:防御
東京圏において最もポピュラーな防御魔術。手のひらをかざした方向に自分の身体をすっぽり覆うくらいの大きさの結界を張り、物理・魔術両方の攻撃をはじく。
高杉ほどの第二世代の使うものとなれば、単純に貫通できる威力の攻撃魔術はほとんどない。が、片面しか守れないのがネック。
2)『封邪の円柱』
難易度:B+ 詠唱:完全詠唱 種別:防御
こちらは前後左右全体を覆う防御結界を張る魔術。
難易度が若干高くなり、詠唱が若干長くなり、強度が若干下がるが、上とか下から狙われない限り完全な安全を確保できる。ちなみに上下が空いている理由は、空気の流れを遮断せずに窒息しないためである。
余談だが、先ほどの「シールド」がshieldだったのに対し、こちらはsealedである。
3)『守護の法印』
難易度:C+ 詠唱:簡易詠唱 種別:防御
上記魔術と違い、「魔術の防御」に特化した防御魔術。
防御力はそれほどではないが、高杉ほどの魔術師が使えば一流の力を発揮する。
ちなみにこちらはshieldである。
4)『火炎爆熱砲』
難易度:A+ 詠唱:完全詠唱 種別:全圧
広範囲を魔力をまとった火炎で焼き払う魔術。
この種の広範囲攻撃は第二世代に最も向いた攻撃法である。逆に言うと、馬鹿みたいな魔力を消費するので、普通の魔術師はまず使わない。
が、高杉にとっては軽い運動レベルの魔力消費である。