閑話・ランチタイムガール 1
──さんすうはきらいよ。
その日、アンナ・クァガンはふてくされていた。
魔人種の娘だ。山羊のような一対の巻き角を頭からはやした、小学四年生。
今日はこくごとさんすうのテストだった。
こくごは得意だ。読書はよくするし、神代漢字だって、六年生のものまで先立って勉強済みだ。
けれど、さんすうは苦手だ。細かいミスが抜けない。小さな計算ミスとか、そういうものだ。
テストの後半、余った時間は躍起になって見直すけれど、自分では気づけないから、そういうミスが出る。そのくせ、テストが終わった後には、「あ」と気づいてしまう。
だから、さんすうはきらい。
ふてくされている理由は、他にもある。
今日はテストだけだったので、学校は昼までだった。
家に帰ってきて、パパと一緒にお昼ご飯を食べるつもりだった。
高層マンションの一室に住まう父子家庭のクァガン家は、そういう団らんの時間を大切にする。
少なくとも、パパが己を溺愛していることを、アンナは知っていたし、アンナもまたそんな父を大事に思っていた。
そのパパが、非番で仕事がないはずのパパが、帰宅したとき、家にいなかった。
──またなのね。
がっかりしつつ、携帯魔鏡を開けば、案の定、メールが入っていた。
『アンナへ。すまない。急に仕事が入ってしまった。テーブルの上にお金を置いておくので、出前か、どこかで買ってきて食べなさい。外出するなら、かならず防犯ブザーと携帯魔鏡を持っていくことと、商店街までしか行かないこと。愛している。パパより』
確認し、
『パパへ。あたしと一緒のお昼ご飯より大事なおしごとがんばってね。アンナより』
悪い子の返事だ……と思いつつ、送信する。
こういうタイミングでパパが仕事に行ってしまうのは、これが二度目や三度目ではない。
軍人なのだ。それも帝都治安維持部隊の守護警邏隊統括隊長だという。よくわからないが、帝都のおまわりさんの中ではトップクラスに偉い人なのだという。クラスの男の子には羨ましがられるけれど、アンナとしては、二十四時間三百六十五日、いつでも呼び出される可能性のあるパパというのは、誇りある仕事とはいえ、いやだった。
悪い子の返事をしたアンナは、ついでに、もっと悪い子になることにした。
今日という今日は、堪忍袋の緒が切れた、というやつだ。堪忍袋がなんなのか、アンナは知らないけれど、なにかの小説でその表現を見たことがあった。
そう、今日のアンナは、ふてくされている悪い子なのだ。グレている。
具体的には、
「……買って食べるんじゃなくて、お店で食べてやるの……!」
初のソロ外食にチャレンジすることにしたのである。
☆
携帯魔鏡とお財布を防犯ブザー付きのポーチにつめて、家の鍵をしっかり閉めて、閉めたことを確認して、念のためもう一度持ち物と鍵を確認して、
「よし」
アンナはマンションを出発した。マンションの前の広場を左に行ってしばらくすると、商店街がある。歩いて五分のところだ。
悪い子になる、とはいっても、商店街を出る気はない。さすがにそれは怖いし、商店街なら、たまに買い物に来る場所だ。ひとりでも不安なく歩ける。
だから、商店街の中にある店のどれかに入ろうと、そう決めていた。
どこにしようか、ときょろきょろしながら歩いていると、
「おや、お嬢ちゃん、おつかいかな……?」
と、エルフの大学生っぽい男の人に話しかけられたので、ひとまず防犯ブザーのピンを引き抜いた。
「きゃー! なの!」
「おおっと、展開の早いお嬢ちゃんだ……!」
けたたましいブザーの音を聞いた、商店街で働く獣人種やオーク種がソッコー集まってきて青年を押さえつけた。
アンナはブザーのピンを戻した。
「待ってくれ! 僕はただ、迷子かと思って心配して話しかけただけなんだ!」
「よく見りゃコイツ、ジョシュん家のセガレじゃねえか」
「ああ、たしか義理の妹に手ェ出そうとして勘当されたっていう……」
「じゃあ有罪だな。よし、交番行くか」
「待て! 待ってくれ! 本当なんだ、なんならその子も分かっているはずさ! 急に話しかけてしまってすまなかったが、びっくりしてつい鳴らしてしまっただけなんだろう?」
アンナはブザーのピンを抜いた。けたたましい音が鳴り響く。
「有罪だな……!」
「待て待て待て待て……!」
ピンを戻した。
さすがに良識の残っているひともひとりくらいはいたのか、ハチマキを巻いたオークが尋ねてきた。
「なあ、こいつの話は本当かい、お嬢ちゃん。この男になにかされたんじゃないのかい?」
「話しかけられたの」
「なるほど」
オークはエルフを見て、
「有罪だな……!」
「話しかけただけで!?」
「テメェ、話しかけたあと、どうするつもりだった?」
「そりゃ、普通に道案内とか……たしかに僕は妹に手を出して勘当されたけど、義理の妹以外には興奮しないよ。本当だよ」
「未成年に興奮してる時点で通報モンだしなあ……」
「興奮はしたけど実際に手を出すところまではいってないよ! 自制したよ!」
アンナはブザーのピンを抜いた。けたたましい音が鳴り響く。
「ここで鳴らすの!? なんで!?」
「つい……」
「つい……で僕の人生終わらせようとしないでくれるかい……!」
ピンを戻した。
「というかね、たしかに僕はミドリ──義理の妹に手を出しかけたけれど、それはあの子が僕を露骨に誘ってきていたからであって……クソ、思い出しただけでイライラしてくる。あのメスガキめ……!」
「なあ、もう本気で通報かましてやらないか?」
「こないだは負けたけど次は絶対負けないぞ、僕がメスガキなんかに二度も負けるわけないだろ……!」
「すげえなこいつ、次も負けるぞコレ。ていうか、ただでさえ勘当済みなのにまた敗北したらどうなるんだ?」
「……死ぬとか?」
「つか、ミドリちゃんもコイツのどこがいいんだろうな。埋めるか?」
「あー残念、こいつ大地と植物系でスキル固めてるから埋めても生えてくるタイプのエルフだ」
「そうなのか」
「前埋めたときはつやつやして生えてきた」
「そうか……厄介な……」
「だれかひとりでいいから僕の人権を尊重してくれ……! あとあのときいきなり埋めやがったの貴様か絶対許さないからな」
アンナは少しだけ、そのエルフのことが可哀想に思えたので、
「えと、たしかに話しかけられただけで、なにもされてはいないの。お騒がせしてごめんなさいな」
「……まあ、嬢ちゃんがそう言うなら」
不承不承といった様子でみんなが離れる。
エルフの青年は立ち上がり、服の埃を払った。
「……自衛の意識が高いことはいいことだ。謝る必要はないよ」
「でも……」
「ああ、本当に謝る必要はない。だから今すぐ手に握ったままのブザーから指を離すんだ」
「あたし、自衛の意識が高いので……」
「警戒がまったく解かれていない!? 僕そんなに犯罪者のオーラ出てる!?」
囲んで見ていた商店街のみんなが大きくうなずいたので、エルフは泣いた。でも未成年の義理の妹に手を出すのはまずいと思う。
「クソ、まあいい。お嬢ちゃん、世の中は僕みたいな紳士ばかりじゃないから、気を付けるんだよ。──おいそこ、なんで顔をそむける。ハリセンを用意するんじゃない、ウケ狙いのボケじゃないぞ今のは」
エルフはため息をついて、改めてアンナを見た。見ている。見つめ、眺め、凝視し、そして、
「いやしかしキミ、本当に可愛いね。どうだい、僕の義理の妹にならないかい?」
けたたましい音が鳴り響いた。
☆
「冗談、冗談だって……! 痛い、痛いから引きずらないでくれ、ていうかどこ連れてく気だよ。交番か? そんなら慣れてるぜ、よく通報されるからな! ──え? 交番違う? ……ミドリのとこ? ま、待って、浮気しようとしたなんてバレたらなにされるかわからな──!」
☆
気を取り直して、アンナは店探しを再開した。さっきの騒動? そんなものはなかった。が、外は怖いということはなんとなく覚えたのでオッケー。
なにを食べようか。ラーメン屋がある。牛丼屋も。2時を回ったからか、定食屋は閉まっている。
ふんふん鼻歌を歌いながら、商店街の端まで行き、
──どうしようかしら。
悩みながら戻る。神代食の一種、中華を取り扱う食堂。おしゃれなカフェでオムライスというのも捨てがたい。どうしよう、どうしよう……と歩いていくうちに、ふと目に付いた店があった。
小さなネオンの看板がかかった店だ。来るときは、その外装から昼の食事処ではないと思い、ついつい見逃していたが、『OPEN』のネオンが光っているので、開いているのだろう。
それから、店前に置いてあるこれまた小さな黒板に、『期間限定新作バーガーあるよ!!』とかわいらしいポップなレタリングで描いてある。
──バーガー……ハンバーガーね。うん、いいかも。
赤と黄色の看板の店は、たまに行く。パパもお気に入りだ。出てくるまでが早いし、夜遅くまで営業しているから、張り込みしているときはすごく役立つと言っていた。
それに、このちょっとノスタルジーを感じる外装が、少しワルっぽくて、いい。今日は悪い子なんだから。
少し気合を入れてから、入店する。
こじんまりとしたカウンター席とキッチン。カウンターの小ささに反して、テーブル席は多めだ。平日で、昼を少し過ぎているからか、他にお客がいる様子は見えない。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声で、細身のオークがカウンターからこちらを見た。
「おや、さっきのお嬢さんだね。いらっしゃい」
「あ、ええと……」
さきほど助けてくれたオークの青年だった。ヤンキーみたいな金髪にピアスだけれど、その静かな語り口に、少しホッとする。
「ランチかな?」
こくこくと頷く。
好きな席にどうぞ、と言われたので、カウンターに座ろうかと思ったけれど、カウンターの椅子が床に固定された高めの丸椅子だったので、諦めてテーブル席に座った。ふたりがけのソファの真ん中に陣取ると、少し贅沢な気分がして、ちょっと優越感。
渡されたメニューを見れば、
──バーガーなのに高いのね。
赤と黄色の店とは大違いだ。なにげに神代からある老舗チェーンだが(というか創業者が開拓神のひと柱だが)、安さ早さが売りのあそことは違う、ということだろう。
じーっとメニューを見ていたが、どれがいいのか、わからない。
「むぅ」
こういうとき、すぱっと決められるひとが羨ましい。悩みながら、結局、
「すいません。この、期間限定のビーフステーキバーガーとドリンクのセットをください」
「ドリンクはどうしますか?」
「えと、じゃあ、店員さんのおすすめで」
「かしこまりました」
あの看板を見つけて入ったのだ。ならば、それに従うのが道理だ。
☆
やがてやってきたのは、銀色のトレイに乗っかった、アンナの顔より大きなハンバーガーだ。
てっぺんから金属製の串が刺さっていて、バンズと具を縫い留めている。それがワックスペーパーの上に鎮座している。サイドにはポテトフライが盛り付けられていて、『いかにも』な見た目だ。
バーガーに手を伸ばし、手で持てば、その重みに圧倒される。赤と黄色のやつの五倍くらいの値段がするだけあって、量も多い。すごい。
どこから手をつければいいのかもわからないが、意を決して、ひとくち、かじった。小さなアンナの小さな口で噛みとれたのは、上部のパンと具のステーキの一部だけ。
さく、と温かいパンの薄くもパリッとした皮が割れ、香ばしい小麦の風味が広がる。
ステーキはやわらかく、肉汁たっぷりのいいお肉だ。味付けはバーベキューソース。甘みとしょっぱさが、お肉を美味しく頂かせてくれる。
──おいしいわ。とてもおいしいの。
こういうとき、小さな口が恨めしいな、とアンナは思った。もっと大きければ、ひといきに上から下まで均等に味わえたのに、と。
バーガーに顔を埋めるようにして、かじりつく。
バンズ──パリふわの、パンだけでも十分おいしいであろう、ほのかな甘みのあるふっくらしたバンズ。パンだけを一度鉄板で温めたのであろう、丁寧な仕事ぶりだ。
チーズ──溶かしたチーズソース。色味が白っぽく、コクのあるクリーミィな味わい。チェダーチーズあたりだろうか。こってりした大人味だ。
ステーキ──食べやすいよう二口大ほどの大きさに切り分けられ、それぞれがバーベキューソースと絡められている。やわらかく、ジューシーで、けれど赤身だからそれほど脂っぽくは感じない。
オニオン──ステーキと同じ鉄板で、バーベキューソースで炒められたのであろう粗みじん玉ねぎは、甘味のあるソースみたいに、バーガーそのものに一味加えていて、見事に調和していた。
トマト──これまた、鉄板で温められていたのだろう。酸味が、肉汁とチーズでしつこくなりがちな口の中をさわやかに駆けていく。
レタス──シャキッとした歯ごたえ。これもステーキ同様、小さくカットされていて、食べやすい。
バンズ──てっぺんのバンズと底のバンズは別物だ。チーズソース、肉汁、バーベキューソース、トマトの果汁……すべてを受け止め、吸い込み、しっとりした最高の土台である。
はむはむと夢中で食んでいく。
かじりつき、バーガーから口を離せば、カットされたステーキがずるりと引き出される。口からはみ出たそれを、意地汚く吸い込むようにして口に収め、咀嚼する。
幸せの味とはこういうものだと、アンナは知った。
口の周り、ほっぺたまでべたべたにしながらバーガーを攻略していく。途中、串を抜くと、串にチーズソースがついていて、
──もったいないわ。
はしたない、と思いつつ、バンズの端で挟むようにして、拭ってしまった。まあいいの。今日は悪い子の日だから。
一度、バーガーの紙包みをトレイに戻し、バニラフレーバーの炭酸ジュースに手を伸ばす。アルコールは入っていないが、それにはビールの名がついていた。店員さんのチョイスだが、これもまた、悪い子な感じがして、とてもいい。
甘ったるい香りの、香り同様に味も甘ったるい炭酸で口の中を一度流す……というより、上書きする。カロリーオーバーだが、気にしない。これぞ背徳の味。
また、バーガーを攻略し、時折炭酸を飲み、気づけば、
──最後の一口ね。
申し訳程度に残ったバンズと、一切れのステーキ。
ほぼ満腹ながらも、あと一口しかないことを名残惜しく思いながら、
──パパにも食べてもらいたいわ。
そう考えるのは、悪い子になりきれないからだろうか。
秘密で来たから、パパに教えることは難しい。怒られるのは嫌だし、自分から言ってしまえば、悪い子になった意味がない。
残念に思いつつ、口に放り込む。
──あら。
付け合わせのポテトを忘れていた。
皮付きのまま揚げてある、三日月のような形のそれを、ひとつ頬張る。
温かい。じゅわ、と口内に油と塩気が広がり、そのあとにホクホクしたお芋がほどける。
おいしい、とふたつほど口に放り込み、
──もしかして。
悪魔的な着想を得た。
包み紙には、肉汁とチーズソースが混ざり合ったものが、残っている。
──ああ、はしたないの……悪い子なの……!
そう思いつつ、誘惑には勝てない。
ポテトをディップして、口に運ぶ。
思わず脳内でガッツポーズした。勝った。勝利の味がする。なにに勝ったのかはわからないけれど、とりあえず幸せなのでオーケーだ。
夢中でディップして頬張る。気づけば、あっという間にポテトはなくなっていて、トレイにこぼれたソースもポテトでぬぐい切っていた。
パパがいたらきっと意地汚いと怒るだろう。でもここにはいない。
──一緒に食べたかったのに。
再びそう思い、やはり自分は悪い子になりきれないと、自覚する。
──帰りましょ。帰って、パパを待ちましょう。
立ち上がり、代金を支払おうとレジに進んで、そこで壁に貼ってあるメニューを見つけた。
「──あ」
「……どうされました?」
「あ、あ、あのうっ! あれ、今からでも頼めますかっ?」
お財布の中身には、幸い余裕があった。パパがいつもお小遣いをくれすぎるので。
☆
「ただいまー、って寝てるよね。うん。……ごめんね、アンナ。いつもそばに入れないパパで……悪いパパだよ、本当に。……おや、書置きが。これは……ああ、商店街のバーガー屋のテイクアウトか。『いじわるなメールしてごめんなさい。チンして食べてね。』──なんていい娘なんだろう。私にはもったいない子だよ、本当に。それじゃあ、いただきます」
「ごちそうさま。焼きたてが食べられなかったのが悔しい味だ。相変わらず、あそこのオークはいい腕をしてる。……ねぇ、知っているかい? あそこはね、夜はバーになるんだ。大人になって、お酒が飲めるようになったら、一緒に行こう。こんな悪いパパと一緒にでよかったら、だけどね。……それじゃあ、いい夢を。おやすみ、アンナ」
☆
「……悪い子と、悪いパパなら、いい釣り合いなのよ。だから、大人になるまで、待っててね」
☆
【わるいこの昼食】
第間食『ビーフステーキバーガーとポテトとドリンクのセット 1700円(税込み)』