閑話・女スパイ 1
ココ・カカオは、腹を空かせていた。
本日、調査対象たるジェネラル・ジークは外出しなかった。大使館で外交官としての仕事をしたあと、休息を入れることなく彼女の調査を再開したが、彼女は公務後、自宅マンションから出ることなく過ごしていたのだ。結果、ココは飯を食いそびれた。おのれ女将軍め。
ジェネラル・ジークは一人暮らしだが、頻繁に姉である栞・ラ・ソルシエールが訪問する。
栞・ラ・ソルシエールは巫女だ。加えて社長でもある。開拓神群の中でも情報を司る第十二柱を専門に奉るメディアの巫女で、帝都の魔鏡端末など情報端末の契約は、ほぼほぼ彼女の会社が取り仕切っているという。
低位の貴族ながら、帝都への影響力は強い。姉妹揃って、厄介な相手だ。ココ・カカオも栞・ラ・ソルシエールの会社の動画サービスを契約している。一五〇タイトルを越えるアニメが見放題だ。すごい。
そんなすごい会社を運営する女が、夕飯前の時間帯にスーパーマーケットで鍋の材料を買い込み、酒も持ってジェネラル・ジークの家に入った。労働のスケールが大きいわりに家庭的だ。好感が持てる。
「動きがあれば、連絡します」
ココが【筆劔】であることを知る、数少ない協力者のひとり──大使館では受付をしている女性職員だ──が、そう請け負ってくれた。
着任して二日目、激動というほどではないが、昼夜を問わず働き通したココ・カカオは、それなりに疲労感を得ていた。
休養しろと、そういう思いやりもあったのだろう。
ココ・カカオは家に帰って休むことにしたのだ。
だが、
──家に帰っても、食べるものがないな。
着任日である昨日は、大使館の自室ではなく、例の汁なしを食べた。
家にあるのは、飲料用に買った水くらいだ。
買い物をしてから帰ろうと、ココ・カカオは現場を離れた。
大使館近くに夜九時を過ぎても開いているスーパーマーケットがあることは、リサーチ済みだった。
☆
スーパーに入ったココ・カカオは、真っ先に鮮魚コーナーへと赴いた。
この時間帯だ。生食用魚の柵が安くなっているに違いないと、そういう読みだった。
予想通り、半額のパッケージがいくつか並んでいる。
──カツオにブリか。初春までブリが出回っているのは珍しいな。
少なくとも、地元ではもうブリの季節は過ぎた頃だろう。帝都の季節感が、少し身近に感じられた瞬間だった。
マグロやサーモンといった人気魚は軒並み売り切れている。この時間帯だ、半額シールが貼られた先から皆が買い荒らしたあとなのだろう。
手を伸ばし、パックに触れ、
「──と」
「おっと、これは失礼」
魔人種のダンディな中年男性と、同時にパックに触れていた。彼は失礼とは言ったものの、手を離してはいない。なにより、温和な微笑みを浮かべながらも、その銀縁眼鏡の奥の瞳が、まったく笑っていない──これは!
ココは直感した。
──手を離した方が、引くことになる……!
善意の問題だ。
一旦、手を離してしまえば、「どうぞどうぞ」と対応せざるを得ない。そして、手を離さなかったほうがほくそ笑みながら持っていく。そういう流れだ。
だから、ココ・カカオは知力を巡らせた。若くして【筆劔】に勧誘された、その才覚溢れる脳をフル稼働。邂逅から十秒足らずで、優秀な頭脳がひとつの言葉を導いた。
「病床の母がカツオを食べたがっていて……!」
「これブリですよ」
「OH……」
痛恨のミス……! だがココ・カカオ、この程度のミスをものともしないツラの厚さを持っていた。馬鹿は強い。
「ははは、ブリも食べたがっているんですよ……!」
「はっはっは、いや実はぼくも娘が魚を食べたがっていましてなあ……!」
なんだとこのダンディ。ダディだったとは。
──子供を人質にするとは卑怯な!
帝都にいない母親を人質にしたことは棚に上げて、ココは憤った。馬鹿は強い。
だがカツオかブリかの確認忘れにより、ココは事実上の一敗状態。これが二本先取制なら後がない状況だ。
──つまり残り二回勝てばいいわけだ。
そういうものでもないはずだが、というか二本先取制でもないが、ココの脳内ではそう決まった。ゆえに、
「いかがでしょうか。どちらも待つものがいる身と思われる(※いません)。ならば、ここは公平にじゃんけんで決めるというのは……!」
平和的解決を試みる。ダンディなダディ氏は頷き、
「そうですな。公平に……」
お互い手をパックから離し、構える。ココ・カカオは左足を前に、右足を後ろに置き、肩幅の広さに開く。脇を締め、右拳を腰だめにし、左手は右拳を隠すようにかぶせる。ダンディダディ氏は目を見開いた。
「それは……! 隠拳の構えですか……!」
「ほう、ご存知ですか。ですが、これを卑怯とは言わせません。じゃんけんとはすなわち神代から続く決闘遊戯。神に誓って、手を抜くことなど──」
「──ありえないと、そういうわけですな。よろしい、ならば……!」
ダンダディ氏は頷き、構えた。身体は半身、左手を抜き手にして前に差し出し、手のひらは上に。右手は背中側へと回すスタイルで、すなわちこれは、
──軍隊式か! この御仁、できる……!
手加減などする気はない。だが、気を抜けない理由がひとつ増えたのは確かだ。
「ではこちらも一手、足しましょうか。開拓神第二十七番:【予見】」
魔力が散り、世界に遍在する開拓神へと受け取られた。それを対価に、ココ・カカオは一時的な未来視の能力を獲得する。
「ふむ、【予見】ですか。上司の得意技でしてな、それが絶対の未来視ではないこと、よく存じております」
ダンダディ氏はにやりと笑い、魔力を回した。神に請い、その異能の一部を獲得する祈祷魔術ではなく、魔力をシンプルに身体強化に用いる原初の運用法。だが、練度は高い。
「──覆せぬ未来がないことも、知っておりますとも」
「言いますね、貴殿。であれば、ここから言葉など不要でしょう。いざ──」
「尋常に──」
ごくり、と唾を呑んだのは、ココか、ダンダディ氏か、あるいは近くで見物しているスーパーの店員か。いずれにせよ、勝負は一瞬。
「じゃん、けん──」
無限にも感じる、火花のような瞬間が、始まった。
☆
祈祷魔術に限らないことだが、技術というものは使えば使うほどに練度が上がり、「できること」が増えていく。また開拓神としても頻繁に魔力を奉納する『ご贔屓様』には甘くなる。得意客は割引や追加サービスがつくシステムだ。
そういう意味で言えば、ココの【予見】はそれなりに練度が高い。その未来視は事象の予測……今回に限って言えば、『勝負の決着まで』を予見した。これは、戦闘においては無類のアドバンテージである。
──見えた。パーだ。
ダンダディ氏が差し出した左手のひらは、一度拳を握り、グーを作る。その後、再度指を開き、パーを作る。フェイントだ。最後はパーになる。
──もらった!
ココは隠した右の拳を繰り出す。限界まで左の手のひらで隠しつつ、人差し指と中指を準備する。だが、ここで気にかかるのは、ダンダディ氏の態度。
──覆す、と言った。その上で、祈祷魔術による異能の使用もなしとなれば、相手は相当の手練れだ。
考えるのは、これが本当だったとしたら、の可能性。つまり、相手がなんらかの対抗手段を持っているとすればどうなるか、だ。
であれば、相手はパーではなく、グーだ。こちらのチョキを誘発し、誘いに乗ったところを確実に仕留めるプランをとるはずだ。
勝負の中、高速化した思考で、ココはもうひとつの可能性も考える。
すなわち、発言まで含めてブラフである可能性。
──もしも相手が対抗手段を匂わせてきただけならば、私の勝負手はチョキのままが正しい。
そこまで思考を飛ばした上で、ココはそれらをすべて切り捨てた。
──いや、この思考は無意味だ。ブラフを疑いだせばキリがないのは自明。思考の袋小路に自ら入り込んでどうする!
だから、
──チョキだ。どちらにせよ、私がいま選んだ武器は【予見】だけ。神の沙汰を信じずなにを信じるか。勝負手は、チョキ。これで決まりだ……!
そして、その瞬間が終わる。
「──ぽんッ!」
どぱんっ、と炸裂音が響く。およそじゃんけんで出していい音ではなかったと、スーパーの店員はのちに語っていた。
果たして、その結果は──。
「──な」
「は。言ったでしょう。覆す、と……!」
ココが出した手は、チョキ。そして、ダンダディ氏が出した手は、固く握られた拳。グーだ。
なぜ、と疑問を抱く必要すらない。状況証拠が、すべてを物語っていた。
ダンダディ氏が出した手は、左ではなく右。スーツの袖が、風圧によって吹き飛んでいる。背中に回して隠していた手を、ココが認識するよりも速く、音速を越えた速度で差し出し、余波が衝撃波となり炸裂音を生んだ。
「……【予見】は絶対ではないんですよ、お嬢さん。そして、未来は常に切り替わる。誰かが『未来を観測した』時点で、未来は観測されたことによって、その詳細を切り替えるのです。大なり、小なり……」
「だが、未来が切り替わった時点で、私の未来視にもそれが反映されるはず──いや、まさか」
「ええ。つまりはそういうことです」
ダンダディ氏を見れば、左手の袖も破けていた。
──なんて反射神経と速度だ……!
「──左手での勝負が確定した後に、出しなおしたのか……!」
つまり、後出しだったのだ。
──やられた。
ココの認識可能速度を越えた、神速の後出し。
普通に反則だが、出しなおす動作どころか、左手を引く仕草すら、ココには見えなかった。
確かに、この方法ならどれだけ『勝負がつくまで』の未来を見たところで、意味はない。
『勝負がついたあと』で、『勝負に勝っていたことにする』……力技にもほどがある対処法だ。
だが。
「いかさまは現場を抑えられなければ通る……それもまた、じゃんけんにおけるひとつの真理。さあ、お嬢さん。ここは引きなさい。娘が待っているのでね」
「く……!」
敗北。
そう、敗北だった。昨日の夜から引き続き、帝都で負け続けている。【筆劔】のココ・カカオが、だ。
──屈辱だ。
ダンダディ氏は魚のパックを手に取る。ああ、負けたのだ。こんな場所で。こんなことをして。いやマジでいったい私はなにをしていたんだろう、とココは一瞬冷静になったが、冷めるといろいろなことをすごく後悔しそうなので、考えないことにした。
敗者はただ去るのみ。ココが顔を伏せ、鮮魚コーナーを去ろうとした、そのときだった。
ふと、ひとりの幼女がこちらを見ていることに気づいた。小学五年生くらいだろうか。
巻き角を頭に持つ魔人種の幼女だ。彼女は、いやに冷めた目でこちらを見、次に両袖の吹き飛んだダンダディ氏を見て、
「……はぁ」
ため息をついた。そして、やや棒読みで、言った。
「パパ、あたし今日やっぱり魚よりハンバーグがいい」
「あ、アンナ! 今日はなんでもワガママいっていい日だって言っただろう? ほら、お魚だよ……?」
「たかが魚のために本気出してスーツ破くパパかっこわるい、って直接言ったほうがよかった?」
「ごぅふ」
ダンダディ氏に精神的なダメージが入った。今なら勝てるか、と思ったが、自重する。
「それに、『普段いい子にしてるから、今日くらいはワガママ言ってもいい』って。そういう日でしょう? だったら、ハンバーグにして。出来合いのじゃダメよ? 材料買って帰って、一緒にこねて作るの。オーダーの変更もワガママのうちよ、パパ」
「一緒に作るのかい? パパと?」
「ええ、そうよ。玉ねぎを刻むのも一緒なの」
「じゃあそうしよう!」
ダンダディ氏は魚のパックをこちらへと押し付けると、
「ではまたどこかで機会があれば! 素敵なお嬢さん!」
幼女の手を引いて去っていった。
つまり、これは、
「幼女に哀れまれた挙句、親子仲改善のダシにされた……?」
──屈辱だ……!
だが一方で、勝負には負けたが、手元にはカツオのパックが残っている。
さらに、おずおずと、スーパーの店員がこちらにブリのパックを手渡してきた。
「せっかくなんで……いいもん見れましたし……」
「あ、どうも……」
──よし! 細かいこと考えるのはやめよう!
ココは思考放棄して野菜コーナーへ向かい、万能ネギとニンニクをカゴに突っ込む。
乾物コーナーで煎りごま、調味料コーナーで醤油、ごま油、チューブの生ショウガを購入し、
──帰ってから改めて白米を炊くのも手間だしなぁ。
レトルト白米も買う。『魔力を込めたら二分でごはん』でお馴染みのやつだ。
ついでにレトルトの味噌汁も買って、会計へ赴く。
「一八二八円になります」
「開拓神第十三番:【契約】カード一括で」
「承りました」
ぴ、と無機質な音が鳴り、【契約】によってクレジットカードに支払い要求が入った。毎月一〇日の支払いにしているが、今月は帝都への引っ越しに伴い、生活用品の出費がかさむだろう。切り詰めなければならないほど薄給ではないが、豪遊はしないほうがいいか。
そんなことを考えながら、精算済みカゴをカウンターにのせ、気づく。
──レジ袋もらうの忘れてた。
レジに戻ってみれば、レジ袋は五円だった。小銭で支払った。
☆
さて、調理の時間だ。
とはいっても、雑なものだが。まだ開けていなかった段ボールから、包丁とまな板を引っ張り出す。厳重に梱包したのが裏目に出て、開梱に少し手間取った。だれだ包丁に新聞紙巻き付けたうえでガッチガチにテープ貼ったやつは。
──私か。
自分だった。ともあれ、取り出した包丁とまな板、それからガラス製のボウルを軽く水洗いする。魔力ケトルに水を入れ、魔力を込めておく。
伏せたボウルを見ると、なんとなく、その形からジェネラル・ジークを連想した。その隣にはまな板が置いてある。己を連想した。
──許すまじジェネラル・ジーク……!
八つ当たりがてら、水気を切った包丁とまな板で、ニンニクを粗みじんに刻むことにした。
ニンニクは中の小片にも内皮が張り付いている。その状態で、頭と尻にあたる部分を切り落とすと、するんと内皮が剥けるのだ。それから、包丁の腹の部分とまな板で小片を挟み、手のひらを乗せて押しつぶす。途端、生ニンニクの香りが立ち上った。
あとは刻むだけだ。ついでに万能ネギも小口切りで刻む。それらをボウルに入れて、醤油とごま油、チューブ生姜を入れて混ぜておく。
柵の魚をサイコロ状にカットする。パックから取り出した時点で、キッチンペーパーなどで水気をふき取っておくと、和えたときにべちゃつかない。大切なことだ。
レトルト白米のパウチに魔力を通す。いかなるメカニズムかは知らないが、二分後にはアツアツのご飯が出来上がっているという寸法だ。
白米が出来上がるまでに、ボウルに魚のサイコロを投入し、和えておく。スプーンですくい、味を見れば、
──もう少し、醤油が欲しいかな。
そうした。生のニンニクが舌先にぴりぴりと来る。少しきつめのフレーバーだが、これが熱いご飯にのせると、不思議とまろやかな風味になるのだ。
ぽん、と軽い破裂音がして、パウチが膨らむ。
端を切って、中身をどんぶりへと移す。純白のご飯が、湯気を立てている。
和えた海鮮丼の具を、半量ほどどんぶりの上にのせ、上から煎りごまを二つまみ、指でひねりながらかける。ひねることでつぶれたごまから、香ばしい香りがほのかに漂う。横には、レトルトの味噌汁を入れた椀もついた。魔力ケトル様様だ。
完成だ。
☆
アツアツのご飯の熱が刺身に加わり、生臭さが出る。ただでさえ売れ残りだ、鮮度の低さが臭いとなって出ている。
それを、ニンニクと生姜が緩和する。
酢飯のほうが、相性はいいだろう。
だが、ココ・カカオはこの雑な感じが嫌いではなかった。
カツオはねっとりと舌に絡む赤身の味が良い。ブリは冬ほど脂がのっていないが、ざくりと少し歯に残る食感が悪くない。
熱いご飯。濃い醤油味の海鮮。ニンニクの辛味。ジャキジャキした刻みネギ。生姜の清冽な風味。そして、ごま油が、それらすべてをくどく感じないよう、まとめている。
うまい。
どうしようもなく、うまい。
口の中が少し濃い味になってきたら、味噌汁を飲む。レトルトだが、熱い味噌汁を飲むとホッとするのは、先祖代々、それこそ開拓神群のころから続く習性のようなものだろう。
そうして、海鮮丼とみそ汁を思うままにかっ込めば、最高の気分だ。
開拓神群は古来より様々な料理を作り続け、伝え続けてきたが、魚の食い方のレパートリーは病的なほど多い。
無理からぬことだと、ココ・カカオは考える。だって魚、うまいし。
そういうわけで、あっという間に平らげた。量としては、それこそ昨日の和え麺のように大盛りということはなかったが、満足感はそれに劣らずといったところか。
──よくよく考えてみれば、二日連続でニンニクだな。
ジャンクに振りすぎている。もう少し落ち着いたものも食べたい気分だ。
残りの半量は、明日あたり、酒のつまみにでもしようか。冷蔵庫なら一日もつだろう。
──そうだ。調査がひと段落したら、飲み屋を探してみるのもいいかもしれないな。
帝都外縁部、城壁が迷路のように入り組んでいるあのあたりは、居酒屋の宝庫だと聞く。
連休が取れたら、飲み歩く計画を立ててみようか。
そんなことを考えつつ、ココ・カカオはシンクにどんぶりと椀を放り込む。
──洗い物は明日でいいか。
シャワーを浴び、歯を磨き、ベッドに入る。
考えるのは、こちらの尾行を一顧だにしなかった、あの女将軍のことだ。
──ああも城壁区を歩きなれているということは、きっと頻繁にあのあたりへ行っているのだろうな。
だとすれば。
──あの女は、この帝都でどんな居酒屋に行っているんだろうか。
仕事としては、別段、調査しなければならないことではない。
だが、夢うつつのはざまで、ココ・カカオはそれが気になった。
あの和え麺を出す店を知っている女だ。きっと、一筋縄ではいかない居酒屋を知っているに違いない──。
まだ見ぬ居酒屋を夢見つつ、ココ・カカオは眠りに落ちた。
☆
【ココ・カカオの休息】
第間食『半額海鮮丼(自炊)』