竜を殺した女 1
帝国陸軍には竜を殺した女がいる。
竜といっても非神話級、人語を解さぬ怪物ではあったが、そこらの二足一対翼のワイバーンとは別格の、四足二対翼のれっきとしたドラゴンであった。
それを帝都到来前に単騎駆けて殺したというのだから、税金喰らいの軍人といえど、世論からの反応は決して悪いものではなかった。
『共和国との戦争は避けられようもないし、それなら開戦前に少しでも軍部の印象を良くしておきたい』
そんな帝国軍部の思惑もあってか、その女は現代では非常に珍しい竜殺しの称号を賜ることになった。
また、下級とはいえ貴族位の家系だったのも影響した。旗印としての意味合いもあったのだろうが、貴族階級からの後押し著しく、女はあれよあれよという間に女騎士の位階と将軍職を押し付けられることとなった。若干二十四歳、帝国軍始まって以来の若年将校である。
無論、そんな女に将軍としての能力はない。戦士とは前に立つものであり、将軍とはそれらを率いるものだ。二つを両立させられる傑物ももちろんいるが、その女には戦士としての能力しかなく、将軍職としては「足りない」と評されることとなった。
ゆえに、竜を殺した確かな実力への敬意と、それはそれとして軍部、貴族階級に振り回されていることへの皮肉を込めて、女はこう呼ばれるのである。
竜殺しの名誉将軍──ジェネラル・ジークと。
☆
帝都中央区、執行部族神徒会教国大使館に、一人の女がいる。
ストライプのパンツスーツを着て、金の短髪を撫で付けた、キャリアウーマン然とした姿。年頃は成人を過ぎたあたりだろう。長く伸びた耳と、黒い肌から、女はダークエルフ種だと判断できる。
外交官、名をココ・カカオといった。
ココ・カカオが帝都を訪れるのは、二度目だ。
一度目は学生時代、旅行で、だった。
二度目となる今回は、仕事で──外交官として、だ。
帝都は煩雑な大都市だ。神代から、大河のそばにあった都市。国を変え、名前を変えつつも、増改築を繰り返し、まるで迷路のような都市だと言われている。
原因は城壁だ。
都市を地竜などの外敵から守るため、城壁は街を囲うように築城されている。神代の知恵だ。
だが、それは都市の大きさを規定してしまうことになる。人が増えれば、手狭になる。仕方なく、帝都は城壁の外に城壁を作り、壁と壁の合間にまた街を造った。
学生旅行の際、ココ・カカオは城壁街を歩き、迷ったことを強く憶えている。半泣きで。あのときは親切なオークがいて助かった。
──今回は、そんなことにはならないといいが。
ココは、この世界を拓いた開拓神群を崇め、教義を守る執行部族の連盟から派遣された外交官だ。
職場かつ住居である大使館は帝都中央区にあるため、迷子になる心配もない。
「失礼する」
ココの思考を遮り、ノックの音が響いた。扉の外から、ややハスキーな女の声がする。
──来たか。
今日の仕事の相手だ。否、今日だけでなく、当分は仕事を共にすることになるだろう。どうぞ、と呼びかければ、躊躇いなく扉が開かれた。
入って来たのは、ひとりの女だ。切れ長の瞳と、尖った耳、背中で束ねた銀の長髪を持つ、美貌の女。エルフ種らしからぬ豊満な体を、窮屈そうな軍服に押し込めている、女。
「帝国陸軍将軍、沙織・【ジークフリート】・ラ・ソルシエールである。よろしく頼む」
現代最新の竜殺しである、女だ。
対するココ・カカオもまた、薄い胸に右手を当て、名乗りを返す。
「執行部族、神徒会教国所属、ココ・カカオ。本日、只今の時刻を以って帝国の大使館に着任する。ついては、改めて帝国から駐在の許可をいただきたい。──と、これはそういう場であると考えていいな?」
「無論、そのための場である。そして、そのために吾輩はこの場にいるのだ」
慇懃に告げ、女将軍は手に提げた書類を差し出した。
「取るのである。貴女は大使であり、外交官である。この大使館においては貴国の法、貴国のあらゆる権利が貴女を守る。──ただし、この大使館の外は、帝国である。帝国においては帝国の法、帝国のあらゆる権利が守られるが、それは貴女だけを守るものではない。帝国を、ひいては帝国民を守るものである。理解しているのであるな?」
「もちろんだ。私、執行部族を代表する外交官ココ・カカオは、自国において自国の法と権利を守り、また、貴国において貴国の法と権利を守ることを誓おう」
書類を手に取れば、関係省庁各所の押印済みで、枠がひとつだけ空いている。
「書類の精査は、事前に済んでいるんだったな」
「無論である。といっても、吾輩は正直、書類仕事はよくわからんが」
よくわからんのかい。
「だが、その書類には、貴女の前任の外交官や、この大使館にいる職員たちの手が入っているのである。それでも心配だというのであれば、目を通す時間を与えるが」
「いや、それなら結構だ。互いの譲歩と努力の結晶、ありがたく享受しよう」
ココ・カカオは親指を噛み、血を流した。赤く染まった親指を、空欄に当てる。
「開拓神第十三番:【契約】の神に捧げ奉る」
書類が輝き、魔力が散った。捧げられた魔力が通り、神に契約が承認される。
「──確かに見届けたのである。現時刻より、貴女の大使としての駐在を認めよう」
ジェネラル・ジークが右手を差し出した。ココ・カカオはその手を握り返す。
「よろしく頼む。ようこそ、帝国へ。我々は貴女を歓迎するのである」
「こちらこそ、よろしくお願いする」
一人の外交官の着任。これは、それだけのことであった。
それだけのことであったはずなのだ。
☆
その夜のことである。
竜殺しの女将軍、ジェネラル・ジークは自宅マンションを出た。軍服を着ていない。地竜素材のレザージャアジだ。目立つ銀の長髪はまとめてキャップの中に収め、マスクとサングラスをしている。
不審者ルックだ。身を隠すように、彼女はこそこそと進み出した。
そんな彼女を、ひっそりと見つめる影があった。
「──やはり」
影は呟いた。影は、不審者ルックがジェネラル・ジークであることを見抜いていた。
影が闇色のパーカーフードをおろすと、そこにあったのは美貌のダークエルフ種の素顔。ココ・カカオだ。
執行部族は教義を守る。そして守らせる。地球という名の異世界より光臨なされた開拓神群が、世界を拓いてから幾星霜。祖霊たる開拓神群を称え、敬い、その御力を借り受けて、世界を広げてきたのが、この大地に生きる民だ。
──我々は、国こそ分かれているが、ルーツを辿ればみな開拓神の子孫だ。何世代経とうが、その事実は変わらない。だが、我々は戦争を勃こし、親兄弟を殺す。
なるほどたしかに、開拓神には争いを好む御柱もおられる。ゆえに、執行部族が争いを止めることはない。そもそも、いまの衰退した神徒会教国にそんな力はない。だが、それでも世界秩序を守ってきた歴史と誇りがある。
ココ・カカオの所属する秘密部隊【筆劔】は、そんな彼らの数少ない実働部隊のひとつであった。
ココ・カカオは音もなく尾行を開始する。
彼女は前任の外交官のひとりと入れ替えで着任した。
そういう建前だ。だが、本当の任務は、別にある。
──単騎で竜を殺す騎士。世界の強者ランキング上位にいきなり躍り出た女、か。
開戦前夜。帝国と共和国がそう言われる状態になって、五年以上経つ。互いにきっかけもなければ、勝算もないから、動けない。動かない。いわば、馴れ合いの開戦前夜だ。
そこに現れたのが、この女。
きっかけと勝算に成り得る戦力だ。
帝国が一線を越えるか否か。一戦交える覚悟を決めるか否かは、ジェネラル・ジークにかかっている。その彼女が夜な夜な変装して出かけている──。
【筆劔】が動くに足る、充分な理由だった。
ジェネラル・ジークは迷いのない足取りで、帝都外縁部、城壁と城壁のはざまに作られた商店街を進んでいく。さすがは帝都、夜でも明るく、人気が多い。
いくつかの城門をくぐり、いくつもの角を曲がり、ジェネラル・ジークが進んだ先は、城壁の一部を改築して作ったと思われる、細長いビルだ。
正面には『──田ビルヂング』と看板が出ているが、老朽化が激しく、『──』の部分を読み取ることができない。
──ビルヂング表記とは。十年前か、二十年前か、もっと以前の建築物かもな、これは。
老朽化し、時代に取り残された場所だと判断する。看板の下にはテナント個別の看板もあるが、それらも雨風にさらされた結果か、まともに読めたものではない。
ジェネラル・ジークは、引き戸を開けて、そのビルの一階テナントへと入った。
続けて、オーク種の労働者や若い学生風の獣人種が、入り込んでいく。入っていく人種に統一性はない。とすれば、部族を同じくする者の組合か、あるいは主神とする開拓神にまつわる集会か。
だが、それならば、わざわざ変装する必要もないだろう。
──アングラな集まりか、他者に感づかれたくない会談でもあるのか。ドラッグパーティとなると、とんだゴシップだが。
もしも帝国陸軍でいま一番ホットな英雄がヤク中だった、なんて知れたら、醜聞どころの話ではないだろう。
──入れば、さすがに感づかれるかもな。
加えて、ここがジェネラル・ジークのそういう場所だとすれば、敵地に飛び込むも同然だ。
もとよりスパイ稼業も同然な【筆劔】だ。ココ・カカオも覚悟はしている。とはいえ、
──竜殺しが姿を偽り向かう場所。そこを見ずして、なにが【筆劔】か。
それが仕事で、ココ・カカオはその仕事に誇りを持っている。だから、進んだ。
引き戸を開ける。最初にあったのは、熱気だ。そして、匂い。独特な香りが、全身を出迎えた。
極めつけは、
「シャーラセーッ!」
こなれすぎて原型をとどめていない「いらっしゃいませ」と、
「ラセーッ!」
こなれすぎて原型をとどめていない上に略されている、誰かが「いらっしゃいませ」を言うとそれにやまびこするタイプの「いらっしゃいませ」だ。
つまり、ここは。
「──ラーメン屋?」
☆
──なんだ、コレは。
ココ・カカオの中にあるのは困惑だった。
細長い店だ。店の入り口から右手側にカウンターと厨房があり、左側は壁。店の奥には男女共用と思しきトイレ。それですべてという、質素なつくりだ。
左手側の白い壁には油性の魔導ペンで「聖都から遠征!」とか「自分の店を持つ!」とか「500グラム完食記念」とかよくわからない言葉と名前のサインの羅列がある。ひときわデカデカと「このトロルども!」と書いてあるが、その下にはテレパスネットで動画配信してる女性芸人のサインがあった。ココ・カカオはあまり詳しくないが、
──たしか、挨拶を大声で連呼したり、胸が大きかったり、テンションがすごく高くて見てるだけで元気がもらえる系だったり、胸が大きかったり、谷間が見えていたりするんだっけか。
つまりはココ・カカオの敵だ。いやそうじゃない。そうじゃないわけでもないが、今はそういうことを考える時間帯ではない。だが巨乳はいつか絶滅させる。そういうことだ。
というか、完全に勘違いしながら入ってしまったが、明らかにラーメン屋だ。それも、それなりに人気店だと思われる。看板だしとけよ、と思ったが、よく考えたら看板は劣化のせいで読めない状態なのだった。じゃあこれは自分の確認不足か、と自己を振り返る。思えば昔からわりとドジっ子だった。じゃあいいか。いやよくねぇ。ともかく、
──ジェネラル・ジークは奥の席か。
不審に思われないよう、入り口に近いカウンター席に座る。
「サーセンッ、先、食券買って、奥から詰めてお座りください!」
バイトに怒られた。
入口近くの食券機に札を入れ、とりあえず一番人気と書いてある『汁なし』のボタンを押す。こういうとき、迷うのは悪手だ。長考したり、立ち止まったり、そういう流れを乱す行為は、ひどく目立つ。ジェネラル・ジークと同じ空間にいるのだ。目立つ行為は避けたい。
学生風の獣人種のとなりに座る。幸い、ココ・カカオのフード付きパーカー姿は、ここでは目立つということはないようだ。フードを被ったままでも、さして気にされる様子もない。
隣の獣人種が、カウンター上のコップをとり、おかれたピッチャーから自分で水を注いだ。セルフ方式らしい。ココ・カカオもそうした。箸やレンゲ、おしぼりも同様にセルフ方式で、コップ置き場の隣にはピラミッド状に積まれたおしぼりの山がある。獣人種を見習い、ココ・カカオもそこからひとつをとった。
水で唇を湿らせつつ、目を配れば、そこかしこに張られた、段ボールを切って作ったポップが目に付く。
──なぜ段ボール。
油性魔導ペンでなにやら細かく書いてある。まず、赤文字で「必ず目を通してください」。店内ルールのようだ。
──最近の店にしてはユーザビリティが低いというか……。
目を通すと、トッピングについての注意事項の要綱だった。
それくらいならいいだろうと、ココ・カカオは素直に思った。
──トッピングのオーダーで客、スタッフともに混乱しないように、言葉を決めてあるのか。ニンニク、ヤサイ、アブラ、カラメと。
なるほど、簡潔だ。これくらいならばむしろ円滑な食事に最適なのではないだろうか。
と、奥の席からオーダーが始まった。入店からオーダーを聴くまでが早い。
キャップを後ろ前に被ったオークのマスターが陽気な声で叫び、問う。
「アイヨー!! カウンター十番さんニンニクは!!」
女将軍がマスクを顎下にずらしながら、慣れた様子で叫び返す。調理機器の音、大きめのBGMなどに負けないように、だ。
「ニンニクアリヤサイチョイマシアブラマシマシチョイカラメ」
──何語だ。
ジェネラル・ジークがご乱心かと思ったが、マスターはまたしても「アイヨー!」と叫んだ。
どうやら通じているらしい。どういうことだ。
しばらくすると、女将軍の前にドカンとどんぶりが置かれた。
──うわ。あれマジか。
大きな、それこそココ・カカオの顔ほどもあるだろう大きさのどんぶりに、これでもかとモヤシとキャベツ……ヤサイが積み上げられている。
大盛りなんてものではない。メガ盛りだ。横から見ると縦長の楕円に見えてしまうほどの盛りっぷりだ。山の側面には分厚く大きなチャーシューらしき肉が三枚も盛られ、ヤサイのてっぺんには醤油で味付けされた豚の脂と思しきものがかけられていて、さらに、
「ハイヨー、アブラでーす!!」
小さな小鉢に、なみなみと同じアブラが注がれて出てきた。見るだけで胸焼けしそうな光景だ。
女将軍はためらいなく小鉢を手に取ると、そのアブラを山頂へとかけ流した。どろりどろりと斜面を下り、ヤサイの隙間へと染み込んでいく。女将軍は、短く手を合わせて「いただきます」とつぶやくと、箸を手に取り、ヤサイが形作る山の側面へと突き込んだ。
ためらいなく突きこまれた箸は、山の最奥から麺とタレを引きずり出し、手首を返して山へと戻す。幾度も繰り返せば、山は耕され、麺、ヤサイ、アブラ、タレがほぼ均一に混ざった状態となる。
それを箸で引き揚げ、女は口を大きく開けて、頬張った。
すすり、噛み切り、咀嚼する。やがて呑み込み、
「──は」
と、息をつく。そして、
「んふ」
笑顔──満足げな笑顔だった。
衝撃だった。昼から仏頂面しか見てこなかった竜殺しが、こんな無邪気に笑顔を浮かべるなんて、思ってもいなかった。
花開くように笑んだ女は、もう一度箸を山へと突き込んだ。
不覚にも、そのとき、ココ・カカオは思ったのだ。
あれは、旨そうだな、と。旨そうに食っている人を見ると、己もそう感じる。感じてしまう。そういう心理だと理解している。
理解しているからこそ、あれだけの笑顔を生み出す料理に、心惹かれてしまったのだ。
「アイヨー!! カウンター七番さんニンニクは!」
マスターに声を掛けられ、ココ・カカオは己の番が来たことに気づいた。
逡巡は一瞬。
そう、一瞬だ。考えるべきことは、いくつもあった。カロリーだとか、脂質だとか、ダイエットだとか、そういう大切なことだ。
だが、ココ・カカオは【筆劔】だ。稀代の戦士の調査を命じられ、命を賭して使命を全うしなければならない立場だ。つまり、
──調査対象のことを知らなきゃいけないからコレは仕方ないことだな。うん。
だから、数秒も置かず、ココ・カカオは答えた。食べる前からオチていた。即オチだった。神代以前、開拓神がこの世界を拓いた頃から続く、エルフの伝統芸能である。
「あ、じゃあニンニクアリヤサイチョイマシアブラマシマシチョイカラメでお願いします」
つまりはそういうことだった。
☆
ドカンと置かれたどんぶりに気おされつつ、
──でも、これジェネラル・ジークのやつより少ないな。
一回り量が少ない。食券の大盛りを選んだか否かの差だろう。大盛りを頼めば麺が五〇〇グラムになり、そこから先はプラス一〇〇円で麺の量を無限に増やせるが、食いきるまでは家に帰さないと段ボールにも書いてある。無限て。
ベツザラで置かれたアブラを、山頂から流す。すでに背徳的だ。
箸を突き込み、混ぜる。
細めのうどんかと思うほど太く、ゴワゴワした麺とヤサイ、タレを混ぜていく。こぼさないよう気をつけつつ、
──そろそろいいだろう。
というところまで、混ぜた。
──では。
麺を引き上げ、口に運ぶ。すする、という表現は正しくない。ヤサイと絡んだ麺は重たく、すすることができない。箸で引き、咀嚼し、また箸で引く。
──これは……!
太麺をぶつりと噛み切る感触。モヤシとキャベツのしゃきしゃきした食感。こってりしたアブラと濃い目のタレが、それらをまとめ上げている。いっそ暴力的な味のまとめ方だ。
だが、それがいい。そうでなければ、ここまで旨いとは思わなかっただろう。
味覚を横っ面から殴られるかのような食体験。
──チャーシューもすごい。分厚いのにとろとろで、味もしっかりしみてる。
いま気づいたが、チャーシューもジェネラル・ジークのものより少なく、一枚だけだ。食券を買うときもう少し悩めばよかった。思えば、昔から悩まずに行動して後悔するタイプであった。もういっそ目立ってもよかったのではないだろうか。バイトに怒られた時点でまあまあ目立ってた気がするし、もうよかったんじゃなかろうか。いやよくねぇ。
ともあれ、
「うま……!」
思わず小声で喝采を上げてしまうほどだった。
一心不乱に麺を手繰り、時折どんぶりの底からかき混ぜてアブラとタレをより濃密に絡めつつ、食べ進める。
そうして、気づけばどんぶりにはタレとアブラだけが残っていた。
まるで泥だ。
ラーメンであれば、スープが残るだろう。
だが、ここに残ったのは、タレと、ヤサイから出た水分と、アブラの化合物。
壁にはなんと書いてあっただろうか。
──結構だとも。
食い意地のはった今の己は、まさしくそうかもしれない。
だが言わせてもらおう。いま、いまこの瞬間だけは──この泥は、己にとって世界で一番旨い泥だ。
細切れの野菜と、肉の破片と、短くちぎれた麺。過剰なほどのタレとアブラに絡まったそれらをレンゲに乗せる。
最後の一口だ。腹はもうはちきれんばかりに膨れ、食うのを躊躇する。いや、途中からすでに満腹だった。後半は麺一口、ヤサイ一切れごとに躊躇していた。
それでも、食った。食っていた。
店奥の席をちらりと見やる。ココ・カカオより豊満な女だ。それが、軽く汗をかきつつ、最後のレンゲを口に運んでいた。タッチの差で彼女の方が先に着丼したとはいえ、彼女は大盛り。こちらは並盛り。
──さすが竜殺しだな。
そんな感想が出た。よく考えたら大食いと竜殺しにどう関係があるのかはよくわからないが、ともかくさすがだと思った。
食べきれないと、ジェネラル・ジークに負けたことになる──なんてことは思わない。それは関係がない。
ただ、食べきりたかった。食べきらなくてはいけないなんてルールはどこにもないが、残すのは嫌だった。
だから、これは意地だ。
一杯のどんぶりを目の前に出された、ひとりの女の意地だ。
どんぶりと己。いま、世界はどんぶりと己だけに集約した。
──食べきるんだ。この、一杯を。
気合を入れる。軽く呼吸を整える。
そして、
「あ……む」
最後のレンゲを、口にした。アブラで艶めく唇からレンゲを抜き、咀嚼する。
万感の思いを込めて呑み込めば、皿に残るのは具の消えた泥だけ。さすがにこれはノーカン。
ゆえに──これにて完食と、ココ・カカオはそう定義した。同時に、これはどこまでも自己満足の世界であると理解した。
「ごちそうさまでした」
自然と、言葉がこぼれ落ちた。
食べきった達成感と腹から来る満足感が、ココ・カカオの胸を熱くした。
──また来よう。
次はチャーシューの食券も買おう。
☆
さて、満足げに店を出たココ・カカオだが、そこでひとつ、重要なことに気づいた。
──ジェネラル・ジークどこ行った……!
【筆劔】の名折れにもほどがあるが、先に店を出たジェネラル・ジークのことをすっかり忘れていた。
慌ててあたりを見渡せば、曲がりくねった城壁にそって道を歩く芋ジャージの姿があった。セーフだ。
食事を終えた女は、来た道ではなく、違う道を通って歩き出した。
──なぜだ。食後の散歩か?
カロリー過剰な感はあるので、帰って寝る前に歩いたほうがいいのは確かだ。
帝都中央区の方角へ、ジェネラル・ジークは進む。ココ・カカオはつかず離れずついていく。
いくつかの太い道を通り、さらにいくつかの細い路地を抜け、やがて、開けた場所へ出た。
──ここは。
広場だ。それも、
「大使館前広場……!?」
己の職場であり、当分の住居でもある、帝都中央区の執行部族神徒会教国大使館だ。
まさか、と思い芋ジャージを探すが、見当たらない。先ほどまでは人ごみの中、見失わずに追えた影が、視野の開けたこの広間で見失ってしまった。それはつまり、
「……っ、気づかれていたか……!」
さらに、ここまで誘導された。見透かされ、踊らされた。
そして無傷で帰された。
──さすがはジェネラル・ジーク! これが竜を殺した女か!
だが、己は命を取られずに家に帰された。これはどういう意味だろうか。
決まっている。
警告で、挑発だ。
気づいているが見逃した。それは、いつでも対処できるという自信の表れだ。
──いいだろう。そちらがその気なら、私も遠慮容赦なく、貴女を調べつくしてみせようじゃないか……!
ココ・カカオはそう硬く決意しつつ、とりあえず今日は満腹で眠いので大使館の自室に戻って寝た。
☆
「あら、お帰りなさい。アンタ、今日はどこでなに食ってきたの?」
「おや、姉上。まだ起きておられたか。吾輩、本日はインスパイア系の店に行ってきたのである」
「そう。相変わらずの芋ジャージね。もう少し身なりに気を遣いなさいよ」
「ファンに気づかれると、行った先の店に迷惑をかけることがあるのでな。最近はこうして変装をしているのである」
「変装つってももうちょいなんかあるでしょ。高校ンときの芋ジャージじゃなくてさ」
「動きやすくていいのである」
「あっそ。やーね、これだから武人系のアホは……。それにしても、帰ってくるの、アンタにしてはちょっと遅かったわね。どこか寄ってたの?」
「コンビニでアイスを買ってきたのである。柚子味のやつ。姉上の分もあるのである」
「気が利くじゃない」
「あと、外縁部は道が入り組んでいるからな。少し、道案内のようなことをしてみたのである」
「へぇ。アンタ、そういう気遣いできるタイプだったっけ?」
「知らぬ相手でもなかったし、せっかく帝都に来たのだから、いい思い出をひとつでも持って帰ってほしかったのである」
「いい子ね。こんなシンプルバカが将軍職なんて、大丈夫かしら、この国」
「大丈夫なのである。なんせ、吾輩が守っているのであるからな!」
「……本当に大丈夫かしら、この国」
☆
【ジェネラル・ジークの晩餐】
第一食『インスパイア系・汁なし 750円(税込み)』