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一閃髑髏流

作者: 龍威 啓人

 緋色に燃ゆる夕闇の、仏塔に映りし赤焼けに、空に響く鐘の音は、日の終わりを告げるものか。

 夕刻は『魔』の時刻。暮れなずむ道端ですれ違うは、人か、はたまた物の怪か。闇に隠された顔は確かではなく、歩む足の音も、どうやら木魚の音に似たり。

 特に京の都は妖怪どもが楽園。古より住み着きいたずら者が、この時とばかりに蠢き出す。

 うら若き乙女が攫われるなど、よくある事で――


 京の郊外、住み人なく荒れ放題となって久しいとある寺の門前で、笑い止らぬ様子の数人の男の影があった。

「ひひひっ、頭領、今夜は随分と楽しめますね」

「陣伍、お主、ちと顔がだらしなすぎるぞ」

「これが笑わずにおけますかってんだ。今日の獲物は上等ですぜ。頭領も本当は笑いが止まらないくせに」

「うるさい、ほら、さっさと中に入るぞ」

 頭領と呼ばれた、身の丈六尺もあろうかという大男は、後ろに従っていた男たちを促すと、荒れ寺の中に入っていこうとした。

 その後を男達、そしてその男達に担がれた二つの駕籠(かご)が寺の中へと運び込まれようとしていた。

 辺りに人影はなく、ひっそりと静まり返っていた。

 その時だ。突然前を行っていた駕籠が揺れだしたと思うと、中から鮮やかな桃色の振袖を着た少女が、手足を縛られ、猿轡(さるぐつわ)を噛ませられた姿で転がり落ちた。折角の振袖も乾いた砂埃にまみれ、その鮮やかさを少しだけ汚した。

 これに門の中へと入りかけていた男達が慌てて振り返り、怒鳴り散らして少女を囲んだ。

「おら、おとなしくしてやがれ!」

「そう泣くなよ。いーことしてやるからよ」

 少女の目には恐怖の涙があり、見上げる男達に向かってまるで機械仕掛けの人形のように首を左右に振り続けていた。

 商家の息女である彼女は、今日は友とある寺へと参詣した。その帰途、男達にかどわかされたのである。共の者は男達に斬られ、後ろの駕籠には友が乗っていた。

 一人の男が野蛮な毛むくじゃらの腕を伸ばし、少女を抱え上げようとするが少女は必死の抵抗を見せてなかなか従わない。ここで抵抗しなければ、自分がどんな目に合わせられるかを少女は知っていたのだ。

 この少女の態度に業を煮やした一人の男は、腰に刺した大層な刀を抜き放つと、少女の白雪のような肌をした右頬に、その冷たい刃を押し当てた。

「おとなしくしようや」

 深い絞り出す声の、絶対命令。

 それでも少女は屈しようとはしなかった。彼女には想い人がいる。もしここで屈したならば、彼に合わせる顔がないのだ。そしたら死ななければならない。でも、死にたくはない。

 ついにある男が少女を強引に抱き上げた。少女は足をばたつかせ、身を揉むが、無駄な抵抗でしかなかった。

 ようやくわずらい事が去り、これから行われるであろう喜悦と快楽の事を想うと、男達の思いは揚々としたものであった。門前の階段を上る足取りも軽いという訳だ。

 だが――

「おいおいおい、関心できんなぁ、そんな可愛い娘を大の男共がそろいもそろって。神隠しだってもっと丁寧に攫うぞ」

 いつの間にか、男達の後ろに二つの人影があった。一つは男達の頭領に匹敵するであろう大男で、もう一つは大男の胸ぐらいまでしかない、小さな老人のような影だった。

 今にも西の彼方に消え入りそうな夕日が、微かに二人の顔を浮かび上がらせた。

 不意の登場に、男達はいきり立って身を構えた。ある者は階段を勢いよく飛び降りて二人の背に回り、ある者はさっさと刀を構えて今にも斬りかかりそうな気概を示した。

 この騒ぎに、一旦は門を潜った男達も戻ってきて、頭領もその姿を門下に現した。

「どうした?」

「頭領、こいつが俺達の邪魔を」

 一人の男がそう口にした瞬間、

「おいおい、待て。別に邪魔をしにきた訳じゃない」

 大男がそう言って、手をふらふらと振った。

「何だと? じゃぁ、何しにきた。もし用がないんだったら、さっさと消えな」

 頭領は威をもって己と同等の体格の大男を圧した。さすがは十数人の荒くれ共を束ねているだけの事はある。堂々としたものだ。

 だが、大男もまた堂々としたものだ。そればかりか頭領に対して含み笑いを見せると、

「ああ、貴殿らに用はない。ただ、その娘に用があるのだ」

 顎をしゃくって少女を指した。

「ほう、どんな用があるっていうのだ?」

 頭領は意外にも気軽に応じた。すると人物は、

「なに、今夜の閨の相手でもしてもらおうかと思ってな」

 少女を助けるではなく、また男達を成敗するではなく、大男は少女を攫った者達から、さらに攫おうというのだ。

「なんだと!!」

 いきり立つ男達。だが頭領といえば、

「あはははははっ、面白い。我々からこの娘を奪って自分の慰み者にするのか。随分と面白い事をおっしゃる御仁だ。失礼だが、お名前はなんと言う?」

「失礼と思うなら訊くな」

「拙者は、双葉竜衛(ふたばりょうえ)。お名前は?」

「ほう、そなたが有名な双葉殿か。悪名のほどは色々と聞いている。拙者は、雷光無頼斎(らいこうぶらいさい)。しがいない武芸者でござるよ」

「雷光? それはまた、勇ましいお名前で」

 だが、言葉とは裏腹に、竜衛は武芸者と聞いてもそれ程恐れはしなかった。なぜならば竜衛自身、体捨流(たいしゃりゅう)を極めた武芸者だったからだ。腕には相当の自信を持っている。

「しかし、雷光殿、そなたの用向きは承知できかねますなぁ。なぜならばこの娘には、今晩この者達の相手をして貰わなければならぬゆえ」

 嫌らしい笑いがそこかしこから起こる。想像は現実を飛び越えて、最高の快楽を彼らの脳裏に与えていた。

「それは困った。拙者も随分とご無沙汰でなぁ、楽しみにしておったのだが。どうだ、おとなしく渡してはくれぬだろうか?」

「はっはっは、冗談がきつい。なんでそなたにおとなしく渡さなければならぬ。もしここで娘を渡そうものなら、この双葉竜衛の名折れだ。お断りする」

 当の少女は二人のやり取りを唖然と聞いていたが、しかしながら自分の気持ちが一向に考慮されないやり取りに絶望を見た。

「雷光殿、いかがする?」

「まぁ、そうですなぁ。お渡しいただけないというのであれば致し方ない。力ずくで奪うまで」

 そう言うと無頼斎は後ろを振り返り、初老の男から刀を受け取った。それまで男は刀を背に背負っていたのである。その刀は、妙に柄の長いものであった。

 無頼斎はその刀を受け取ると、腰に挿し込み、ゆっくりと身を落としていった。

 これに合わせ、連れの初老の男は無頼斎から離れ、腕を組んだ。どうやらこの人数相手に、無頼斎は一人でやる気らしい。

 それを知ってか、竜衛は皮肉な笑みを浮かべた。

「雷光殿、この人数を一人でお相手する気か?こいつらとて、なかなかの腕でござるぞ」

「なに、ご心配には及ばぬ」

「その構え、流派は何でござる?」

 身を沈にし、抜刀する構え。

 無頼斎はにやりと笑うと、堂々と言い放つ。

一閃髑髏流(いっせんどくろりゅう)!」

「一閃髑髏流? はっはっは、ふざけた名前で。聞いた事もござらぬ」

「知らなくて当然。門人は拙者と、一人の弟子の他にはござらぬ」

「なるほど、これから広めるおつもりか?」

「いや、その気はない?」

「なんと?」

「これは拙者の、まぁ遊びのようなものでござるよ。いざ、参られよ」

「あははははっ、遊びとな。遊びで流派を興されたか。やはり面白き御仁だ。しかし、我らに敵するならば仕方あるまい。みなの者、やれ!」

 ざっ、という音を響かせて男達は一斉に抜刀した。そして無頼斎を取り囲むように構えると、じりじりとその輪を縮めていった。

 日は西の空に没し、後は残り日だけが名残惜しげに空をうっすらと染めていた。

 乾燥した地面に舞い上がる砂埃。冷たき鋭利な光の林立する刃の立ち木。

 事は一瞬。静けさが通り過ぎた後に起きた。腕に自身のある男か一人斬りかかった瞬間、男の首は跳ね上がっていた。まるで時間が止まってしまったような一瞬。

 無頼斎の刃は鞘に収まったままだ。しかし、その足元に舞い上がる砂煙の正体は――

 どっと倒れた仲間の姿に、男達は言葉を忘れて息を呑んだ。黒々と見える血が勢いよく噴出している。まるでそれは、その男が今までしてきた悪行に血までが黒く染まってしまったように。ゆっくりと流れ、やがて地面に染み込んでいく。果たしてこの男は何のために生まれてきたのか。こうして地面を血で染めるだけがこの世に生まれてきた定めだったのか。

 静かな間はやがて過ぎ去り、怒涛の喧騒が津波のように襲ってくる。

「野郎、よくも!」

 砂塵が舞い上がる。次々と男達が無頼斎に殺意の刃を落としていった。憎しみに力を振るい、欲望の達成のために己を殺人鬼と化した。

 だが、彼らの想いは儚く散った。無頼斎の一閃、そうまさに一閃によって次々と首を刎ねられていった。まさに『一閃髑髏流』。

 無頼斎の動きは凄まじいものだった。全てを一刀のもとに仕留め、決して無駄な太刀、止められる太刀さえなかった。その動きは洗練され、一縷の隙もなかった。

 地面に血の海を現象せしめ、なおかつ返り血一つ浴びない様は、その実力の差を歴然のものとしていた。

 やがて血風が収まった時、そこには見るも無残な光景が広がっていた。あれほど無神経に動いていた者達が、今や肉の塊となってぴくりともしないのである。屍の山とは、まさにこの事だ。

 生き残った、というよりも戦わなかった者達は一斉に尻込みし、頭領たる竜衛に助けを求める視線を投げかけた。

 その竜衛も無頼斎の強さに目を見張った。半端ではなく強い。果たして自分が勝てるであろうかと逡巡する。だが、そこは竜衛も希代の徒者だ。例え自分が勝てそうになくても決して少女をおとなしく渡そうなどとは言い出さなかった。それこそ名折れである。名を汚すぐらいならば、どれ程死んだ方がましであろう。

――男子たるもの、名をこそ尊ぶべき。

 竜衛は刀を抜くと、ゆっくりと階段を下りて回り込むように無頼斎と対峙していった。

 一方の無頼斎も竜衛が今までの者達とは比べ物にならない腕前である事を察して、ゆっくりと血の海を抜け、草履の裏に付いた血糊を地面に擦り付けながら身を構えた。

 一対一。そこに邪魔者はなく。

 竜衛の学んだ体捨流とは、新陰流(しんかげりゅう)開祖、上泉信綱(こういずみのぶつな)に学んだ丸目長恵(まるめながよし)が開祖となっている流派で、九州を中心に広く伝わっていた。それこそ、一閃髑髏流なる訳の分からぬ流派に敗れる訳はいかなかった。

 無頼斎は手を柄に掛けたままの居合の構え。一方の竜衛は中段。

 静かなる間。

 一瞬の間に双方が動いた。

 キンッ! 乾いた金属の音。

 この時、初めて無頼斎の刃が露になった。血を含んでいない、見事な白銀。

 竜衛が誘いを掛け、無頼斎がそれに乗った。だが誘った方の竜衛は一瞬にして背筋が凍る思いをしていた。誘いに掛け、攻撃を予期していたにもかかわらず、無頼斎の攻撃は予想を遥かに超えて竜衛を襲ったのである。竜衛は一応の反応を示したが、もう駄目だと覚悟した。だが、斬られると思った瞬間、無頼斎の斬撃の間がずれた。そのずれが竜衛に無頼斎の刃を受け止めさせる事を許したのである。

 二人はすぐさま離れた。竜衛は荒い息を止めどなく。無頼斎は――

「……」

 様子が妙だった。構えるのを止め、自嘲するように口元に笑みを浮かべながら止められた刃を眺めていた。敵前にあって、この態度は余裕か、はたまた……

 すると突然、無頼斎は大声を上げて笑い出した。さも可笑しく。さも狂おしく。

円猿(えんざる)、やってしまったよ」

 そう言って無頼斎は例の初老の男を振り返った。

「草履の尾が切れた。こいつのせいだ」

「どうますか、旦那?」

「どうするも何も、仕方あるまい」

「ご自分で?それとも私がやりましょうか?」

「最後ぐらい自分で決めるさ」

「そうで……」

「なんだ、残念そうだな。そんなに俺の事を想ってくれるのか?」

「違いますよ。私の手でやれないのが残念で」

「ははははっ、なる程、それはすまぬ事をしたな」

「いいえ、いい事ですよ」

 敵前、竜衛を無視したこの会話に、竜衛は呆れた。と共に、一体何について話しているのだろうという興味を抱いた。

「円猿、こいつをあの馬鹿に渡してやれ」

 すると無頼斎は手にしていた刀を鞘のまま円猿に向かって投げた。円猿はそれを受け取ると、最初のように背負い、何事もなかったように無頼斎を見た。

「刀を貸しましょうか?」

「いや、いい。この辺のを使う」

 無頼斎は足元に転がっていた刀を一振り手にすると、軽く振ってみた。

 その行動に、来るか?と竜衛は身構えたが、無頼斎の口から流れ出た言葉は意外なものであった。

「双葉殿、折角の立合いの途中、申し訳ないが、拙者はこれより掟を守らなければならなくなった。すまぬが、あの娘達は家元に返してやってはくれぬか?武士の情け、頼む」

 無頼斎は竜衛に向かって深々と頭を下げた。

 これには竜衛も困惑した。一体どういう事だと。

「それでは話が分かり申さん。一体貴殿は何をしよう言うのだ?」

「なに、簡単なこと。円猿、さらばだ」

 そういって無頼斎がとった行動は、衝撃の一点だった。なんと刀の刃を己の首筋に当てると、一気に力を込めて自ら首を落としたのだ!

 ばっ、と血飛沫が上がり、無頼斎の首は跳ね上がった。体は少しの間強靭にも立ったままであったが、やがて膝から崩れて地に伏した。

 竜衛には何が起こったのか理解できなかった。なぜ自らの首を刎ねなければならないのか。

 その答えを与えてくれたのは円猿と呼ばれた初老の老人だった。

「一閃髑髏流が伝える掟はただ一つ。全てのいかなる相手をも一刀、一閃によって仕留める。もし、しくじったその時は己の首をもって『髑髏』とする」

「そんな、馬鹿な話が……」

 竜衛は恐れおののいた。そんな馬鹿げた掟があっていいのだろうかと。

「まぁ、この旦那の遊び心ですよ。遊び心で死ねる人なんですよ。そうでなきゃ、そんな馬鹿げた掟は作りゃあしない」

 円猿は視線の先に無頼斎の顔を見ていたが、その表情は至って平静で、とても悲しんでいるようには見えなかった。

「ところで、双葉殿。旦那の最後の言葉はいかがなさる?折角、旦那の最後の願い、私は叶えてあげたいと思うが?」

 もし聞き入れないのであれば、自分が相手をする事になる。そう円猿の眼は語っていた。

 だが最早、竜衛に娘の事など心になかった。ただあるのは、たった一つの名前。

 

―― 一閃髑髏流


                    (一)  


「うそぉー、なんでぇー? だって十日前に江戸に付いたばかりじゃない!」

「そうふくれっ面するなよ、仕方ないだろう、それが若旦那の仕事なんだから」

「本当にすいません。なんせ、苦労は若いうちに買ってもしろ、っていうのが口癖の親父でして」

 中庭の望む日の当たりの良い一室。三人の男女が車座になって話し込んでいた。

 一人は女性。長い艶のある黒髪を普通の女性のように結い上げず、元結(もとゆい)で一つに纏めて背に流していた。着ている服も女性らしいものではなく、青色の小袖に紺の袴姿という男装に身を纏っていた。しかし、その姿は美しく、うっすらと頬に赤味の差した肌はしなやかで、眼は切れ長、鼻は高く、朱に膨らんだ唇は豊かであった。一見して美男子とも思えなくもないが、やはりその本質には女性の色香が漂っていた。

 名を(なぎ)という。十六歳。

 凪の右隣には、総髪の髪を白い元結で結い上げた若々しい男の姿があった。逞しく日に焼けた容貌は穏やかで、普通に見ればちょっとした優男なのだが、その瞳は強い意思に満ちた輝きを放ち、筋の通った鼻柱、口元はきりりと長く、非常に知識の豊かさを感じさせる顔立ちであった。雪の舞う黒の小袖に黒の袴姿。軽く袖を上げた時に覗いた腕は、強靭なまでに鍛え上げられたものだった。

 名を雷光鷹之介(らいこうたかのすけ)。十七歳。

 そして最後の一人は町人髷に髪を結い、おっとりしたというか、間延びしたというか、眼は垂れ目の鼻は団子っ鼻。唇は太くて顎が長かった。細身の猫背の体に青の小袖に羽織を引っ掛け、いかにも商人然としていた。

 名を庄衛門(しょうえもん)。江戸の呉服問屋、高屋(たかや)の若旦那だ。二十三歳。

「それにしたって、明日出発っていうのはないんじゃない?」

「だから、仕方が……」

「鷹はちょっと黙ってて。ねぇ、庄衛門さん、今度はどちらまで?」

「京と、それから大坂に」

「京?大坂?明日出発ぅ〜?」

「はっ、……はい」

 活発果敢な凪に攻められて、年上の筈の庄衛門は小さく縮こまってしまった。

「よせよ、凪。俺達は雇われ者なんだから」

「じゃぁ、雇われ者じゃなくなればいいんだね?」

「そっ、そんなぁ、凪さん、私を見捨てるんですか?」

「大丈夫。東海道は奥州街道よりは安全だと思うから」

「そんなぁ、殺生なぁ……」

 東海道とは、江戸と京都を結ぶ太平洋側の主要街道をいう。そして奥州街道は、その名の通り、江戸と奥州を繋ぐ街道の事である。

 実はこの三人の出会いは、その奥州街道での事であった。

 あれは今から半月ほど前、高屋の若旦那庄衛門は父でもある主人の庄兵衛の言い付けで、仙台まで赴いていたのである。もちろん商談の為に。

 供を一人だけ連れて仙台に入った庄衛門は、無事に商談を纏めると、二日の滞在の後、仙台を後にして江戸へと帰途についた。しかしその途中、庄衛門らは盗賊に襲われる羽目となったのである。

 時は寛永五年(一六二八)。関ヶ原の合戦より始まった仕官先のない浪人の急増は、大坂の陣によって更に悪化し、また近年の幕府による大名家の改易による影響で、浪人の増加は最早歯止めの利かないところまできていた。

 生活は苦しく、その日を凌ぐにも困り、かといって仕官先はなく。夢も希望もない。

そんな中から盗賊や山賊に落ちぶれる者が出てもなんら不思議はなかった。庄衛門達を襲った盗賊一味も、また多くの浪人共がなれの果てだったのである。

 抜刀した刀を白日にちらつかせ、庄衛門とその共を取り囲んだ盗賊の群れ。ちょうどそこを通りかかったのが、鷹之介と凪の二人だった。

「お助けください、お願いです!お助けを!!」

 まさに庄衛門にとって二人は救世主だった。見れば二人とも袴を履いた武士らしき格好。おまけに凪は柄の異様に長い刀を背負っていた。鷹之介とて脇差(わきざし)ながら、腰元に差し込んでいた。

 こうなれば後はお決まりである。もしここで鷹之介と凪が庄衛門を見捨てていれば未来はなく、助けたからこそ未来がある訳で。しかし、その鷹之介の戦い方があまりにも見事であった。

 鷹之介が庄衛門を助ける意思を示すように盗賊達の前に一歩出ると、なんだこいつ、邪魔立てするな、とばかりに盗賊どもは鷹之介を睨み付け、取り囲んだ。

「これ、使う?」 

 という凪の言葉に首を振った鷹之介は、腰に挟んでいた脇差まで凪に渡してしまうと、脚半(きゃはん)で脛の部分を絞りきった袴をちょっと叩いて見せ、ゆっくりと両手を前に、半身になって腰を沈めた。

 鷹之介は、刀を抜き放った数十人の盗賊に対して、無手で立ち向かったのだ!

 斬りかかってくる盗賊共を、鷹之介は一人一人丁寧に、丁寧という言葉がおかしいならば確実に、一太刀も身に受ける事無く退けてしまった。その動きはまさに疾風迅雷、庄衛門の眼には何がなにやら分からなかった程だ。

 そして、この鷹之介の腕前に惚れ込んだ庄衛門が、二人を用心棒として雇ったのである。

 それから三人が江戸に入ったのが、ちょうど十日前の事となる。

「いいじゃないか、京だろうが、どこだろうが。もしここで若旦那に捨てられたら、俺達はまた前の生活に戻るんだぞ。どっちがいい?」

 庄衛門と出会うまで、二人の生活は気ままだった代わりに、とても不安定なものだった。生業(なりわい)としては、時の用心棒と、時の道場破りで得られる包み金。包み金とは、その強さを示した際、道場の看板に泥を塗らぬよう金で解決しようという事である。つまり、

「参りました。どうぞ、今日の所はこれでお引き取りください」

 一種、ゆすりとでも言えばいいのだろうか。しかし、弱い者がいけないのだ。武芸の世界では強い者だけが生き残る。

 一閃髑髏流。このふざけた名前こそが、鷹之介が学んだ流派だ。流派といっても門人は鷹之介自身しかいなかった。

 流派の起源を辿れば、そこには居合の創始者、林崎甚助(はやしざきじんすけ)がいるのだが、一閃髑髏流の開祖、雷光無頼斎の存在がいけなかった。

 元々無頼斎は林崎甚助について神夢想(しんむそう)林崎流を学んでいたが、その性格若き頃より奔放で、剣の腕はたつのだが、どうもやる事なす事、人々の常識を超えていた。当時使われていた言葉でいえば『かぶき者』というやつだ。

 一通り剣術を学んだ無頼斎は甚助の許しも得ずに出奔。自ら研鑚と面白半分で創り上げた流派こそが一閃髑髏流で。鷹之介はこれの三代目にあたる。

 二代目の名を雷光牙之介(きばのすけ)といって鷹之介の師匠であり、育ての親でもあったのだが、初代の無頼斎同様の『かぶき者』で、その死に方もまた、初代の無頼斎を習うように、一閃髑髏流の唯一の掟『一刀一閃にて仕留められぬ時は、己の首をもって髑髏となす』により、自ら首を刎ねて果てた。

 その牙之介に鷹之介は幼い頃より一閃髑髏流を仕込まれてきたのだが、この歳になって鷹之介ははたまた迷惑な流派を自分に仕込んでくれたものだと呆れていた。一体どこに自分の首を落とす事を掟とした流派が存在するというのだ。何たる迷惑、何たるいい加減さ。かといって三代目を継いだ以上、掟は絶対である。なぜなら一閃髑髏流には、その術者が掟を守るかどうか監視している者があるのである。それこそが、誰あろう凪であった。

 目付けである凪の役目は、掟の看視者。もし髑髏流の術者が掟を守らず自分の首を刎ねぬ場合は、目付けをもってこれを刎ねるのである。ことさら迷惑!ちなみに凪は目付けとして二代目だった。初代目付けは円猿といって甲賀の忍びの者であった。

 こういう状況の流派の中で、三代目の鷹之介はある思いに至った。

 『敵を討つ事は、己を討つ事に通ずる』

 鷹之介は真の剣術の目的、自分の身を守るという事において、掟の届かぬ場所を見出した。それこそが刀を手にしない事であり、無手の技術であった。刀を振らなければ『一閃

』はありえないのである。

 これに目付けの凪は不服で仕方なかったが、無手で戦ってはいけないという掟はない。

 かくして、このような環境の中で庄衛門の用心棒となり安定した給金を得る事になったのだが、もしここで庄衛門と離れてしまっては確かに具合が悪い。そんな事は凪も殊のほか承知の筈だ。

「うーん、うーーーん!」

「お願いしますよ、凪さん」

「うーーーーーん!まっ、しょうがないか」

 深々と庄衛門に頭を下げられた末、ようやく凪は折れた。

 こうして三人は、翌日にも江戸を立って一路東海道を西へと向かう事になった。


 その夕刻間近、鷹之介と凪は連れ立って表に出た。これといった用事はなかったのだが、明日には江戸を出発するとの事なので、軽く町並みを見ておきたい気になったのだ。まさかこんな事になるとは思ってもいなかったら、ろくに江戸見物もしていない。

 太田道灌(おおたどうかん)に始まり、徳川家康によって発展を遂げた江戸。現在、町並みはほぼ整ってきているが、江戸のシンボルたる江戸城は、今も大々的な拡張工事が続けられている。

 人々の道を歩む姿は多く、活気に溢れ、さすがは将軍家のお膝元といった感じだ。

 現在の将軍は、第三代の徳川家光であった。しかしその実権は、江戸城西の丸に詰めている前将軍、大御所となった徳川秀忠の手にあった。

 家康の開いた江戸幕府は、最早磐石の軌道に乗っていた。

 そんな江戸の町を二人は気ままに歩く。

「けど、鷹、いつまでも若旦那の世話になる訳にはいかないでしょ?」

「まぁ、それはそうだけどな」

「じゃぁ、どうするの?」

「さぁな」

「また、その返事?しっかりしてよね」

「それよりもお前はどうするんだよ。いつまでもそんな格好しているつもりか? この視線を感じない訳じゃないだろう」

 今に始まった事ではないが、嫌というほど凪は人目を引くのだ。現に沈み行く太陽に向かって歩いている二人とすれ違う人々は、必ずといっていい程に凪の顔を覗き込んだ。さもあろう。男装だけでも物珍しいのに、凪の容貌はまた格別であった。まるでその姿は、今は廃止された『女歌舞伎』の役者のようであった。

「仕方がないじゃいか、私は鷹の目付けなんだから」

「別に目付けなんて、もう必要ないさ」

「なんで?」

「俺は刀を抜かないからな」

「そんなの、ずる〜い」

 鷹之介が見定めた境地『敵を討つ事は、己を討つ事に通ずる』これを鷹之介が実践し始めたのは、牙之介が死に、円猿が死んで凪と二人になってからだ。十四歳の頃である。

 それまでは必死になって刀を振るい続けてきた鷹之介だが、突然に刀を置き、剣術の動きを利用した無手の術の研鑚を始めたのだ。

 鷹之介は牙之介に幼児の頃拾われた。鷹之介にとって牙之介は父親であり、それ故に牙之介の言葉は絶対で、いつの間にかに仕込まれ始めた一閃髑髏流に対しても、なんの抵抗もなく入っていけた。当時の鷹之介にとって、牙之介は最強の剣士だった。なのに……

 牙之介が無頼斎と同様、徒者(いたずらもの)達との立合いにおいて、不慮な一閃を振るい、掟に従って首を刎ねたと聞いた時、鷹之介の流派に対する疑問が急激に膨らんできた。牙之介は言っていた。

「掟は、一撃の気概を見せるものなり。死を背負ってこそ、生まれる最大の勇気がある」

 流派は異なるが、新陰流の柳生石舟斎やぎゅうせきしゅうさいは武芸の真髄を『勇』の一文字で表したのだという。つまり、死の向こう側にある勇気を得てこそ、武芸者としての成長はあるのだ。それを見越しての掟だと牙之介は言った。

 しかし、だからといって本当に死んでしまっては、そこで成長は止まってしまうではないか!それが真の掟といえるのか! 

――流派は捨てられぬ。仮にも二代の想いがある。だが、俺も同じ道を歩むのか?

 そう悩み抜いた鷹之介の結論が、刀を振るわないという事だった。それから一度として鷹之介は刀を抜いていなかった。

「だからお前もどうだ?普通の女の幸せってやつを味わってみたら。もっと綺麗な着物を着て、化粧をして」

「あははははっ、冗談。私が普通の幸せなんか望んでいる筈ないでしょ?これでも忍びだよ」

 凪も鷹之介と同じように牙之介に拾われ育てられた。ただ物心つく頃より目付けの後継ぎとなるべく円猿に忍びの手解きを受けた。苦しい修行に耐え、今でこそこんなにも明るく振舞ってはいたが、当時は泣かぬ日はないぐらいに辛い日々を送っていた。

「だから、普通の……」

「私の事はいいの。それよりも鷹の事」

「俺か?」

「そう、どうするの?」

 鷹之介は歩きながら、ふとまじめに考えた。

 普通の武芸者ならば名を挙げる事が一番である。それでどこかの藩の剣術指南役にでも収まることができたならば、大成功である。多かれ少なかれ、武芸者はみなこのような考えの元に修行を積んでいる筈だが、鷹之介はとなると、そのような望みはまったく持っていなかった。大体初代、二代目からして一閃髑髏流を広めようなどとは少しも考えていなかった。自分が楽しければそれでいいと。

 非常に困った……

「まっ、なんとかするさ」

 鷹之介は答えを曖昧にはぐらかすと、凪の前を行ってさっさと進んでいってしまった。

「ちょっと鷹、待ってよ!」

 なにかを期待するように待っていた凪だったが、はぐらかされた事に頬を膨らませ、それを追いかけた。

 二人は夕暮れまで、一通り回れる所だけを回ってきた。やはり僅かの時間では大した収穫はなく、中途半端な見物となってしまった。

 二人はどっぷりと暮れかかった夕日の中を、高屋へと向かって歩いていた。さすがにこの時間ともなると、人通りが少なくなってきていた。

 と。

「どけ、どけ、どけ!」

 なにやら二人の背後から複数の人間の駆ける足音と共に、そんな怒鳴り声が響いてきた。

 二人は振り返って見ると、十数人にも及ぶ浪人風情の男達が一団となって向かってきた。道行く人々を払いのけ、だいぶ慌しい様子だ。

「どうする?」

「どうするも何も、余計な騒ぎは起こさない方がいい」

 そう言って鷹之介は凪の袖を引いて道の端に寄った。

 その前を浪人の一団が土煙を上げて走り抜ける。

「何かしでかそうっていうのかな?職をくれ〜とか?」

「さぁな。でも、ただ事ではなさそうだ」

「じゃぁ、謀反とか?」

「それはないだろう。まっ、俺達には関係のない事さ。帰ろう」

 太陽の残光が消えて、辺りが闇の帳に包み込まれた頃、鷹之介と凪の二人は高屋へと辿り付いた。


                    (二)


 翌日の早朝、高屋を出たのは四人だった。鷹之介、凪、庄衛門、そして手代(てだい)佐吉(さきち)

 佐吉は今年で四十三歳になる古株の手代で、奥州への時も庄衛門の共をしていたのは、この佐吉であった。初老の域に入りかけ、やや歳の割には深い皺をその顔に刻んでいた。

 初夏の日差しを受け、旅装に身を整えた四人は、早くも江戸を出て品川宿へと向かった。

「ああ、折角の江戸が遠ざかるよ」

「詰まらない事を言うなよ。どおせ、また戻ってくるんだから」

「そうですよ。お二人にはしっかりとこの私を守っていただかなければならないのですから」

 後ろに従う二人の会話に、先を行っていた庄衛門が割り込んできた。

 街道沿いはやがて田園風景に包まれ、道を行く人々は多く、様々な格好をした旅人達が行き来していた。

 空は青く晴れ渡り、雲といえば所々に浮んでいる程度だった。

 新緑旺盛な、眼に眩しい季節の景観。

 最初の宿場町、品川まではおよそ徒歩で一刻半(三時間)。できるならば今日の内に保土ヶ谷か戸塚まで行く予定だ。けれど、別に焦る旅ではない。ゆっくりと景色でも楽しみながら進めばよいのだ。

 一行は談笑しつつ、軽い足取りを西へと向けた。

 昼を迎えると、街道沿いの木の木陰で持参してきた梅の握り飯を頬張り、竹筒に入れた水を飲む。

「さぁ、がんばろう」

 と再び西への道を進めば、やがて神奈川を過ぎて保土ヶ谷に到着した。

「若旦那、どういたします?」

 と尋ねる佐吉に、庄衛門は、

「この時間なら戸塚までは行けるだろう」

 そう言って、戸塚まで足を伸ばす事にした。

 辺りは漸う涼しくなり、日も西に沈みつつ、緋色のベールで空を覆っていた。中途半端に浮かんだ雲が虹色に輝いている。空飛ぶ鳥は山の方へと飛び去っていった。

 やがて平塚に着こうかという頃、鷹之介は隣を歩く凪の耳元に口を寄せると、

「気付いているか、凪」

 それだけを言うと、すぐに今まで通りの歩みを続けた。

「もちろん」

 凪は鷹之介の方さえ見ずに答えた。

「昨日の奴らか?」

「そうだね。何人か記憶にある。特に先頭を歩いている男、右頬に傷がある」

 昨日の奴らとは、昨日の夕刻、高屋に戻ろうとしていた二人を追い越していった浪人達の事だ。現在は全員が笠を深く被り、顔を隠しているが、間違いなく例の浪人達で、一行の一町(百九メートル)程後ろを付かず離れずに付いてきている。

「俺達では……なさそうだな」

「という事は、前のあの一行かな?」

 凪の話す通り、これまた鷹之介達の一町程前を五人で歩いている武士の一団がある。どこかの藩に仕えている武士らしく、身なりはしっかりとしたものだった。

 どうやら浪人達の目標は、この武士団のようで。

「前の連中は気付いていないのか?」

「気付いているかもしれないけど、なんだか様子を伺っているって感じだね。それと鷹、もう一つの一団の存在に気付いている?」

「もう一つ?」

 鷹之介は、正直気付いていなかった。

「浪人達の後ろ、二町ぐらい後ろを歩いている三人の武士。あれもきっと関わりがあるね。それとなく浪人達の事を伺っているもん」

「本当か? それにしても、見えたのか?」

「もちろん」

 得意げに微笑む凪。実は彼女の特技は忍術だけではない。円猿をして『千里眼(せんりがん)』と言わしめた異常なほどの視力の持ち主なのだ。常人では考えられないくらい遠いものを見る力を凪の綺麗な黒目は持っていたのだ。

「なーるほど。て事は、前の武士団も浪人達の事には気が付いてるな。罠か?」

「一体、何の?」

「さぁな」

「どうする?」

「どうするも、こうするも、とりあえず様子を見るしかないだろう。それにこっちに被害がなければ、態々関わる必要もないだろう」

「分かった」

 二人はとりあえず様子を見る事にした。

「どうしたんです、お二人共?」

 素っ頓狂に二人の声を聞きつけた庄衛門が話しに割り込んできたが、鷹之介は隠した。もし話しでもしようものなら、この若旦那は騒ぎかねない、そうなればみすみす事件に巻き込まれるようなものだ。

 やがて一行と謎の団体は、戸塚においてそれぞれの宿をとって草鞋を脱いだ。


 翌日、宿の二階から道を覗く凪に、

「どうだ?」

 鷹之介は声を掛けた。

「今、ちょうど行ったところ」

 例の武士の一団だ。おそらく、と考えている内にも、浪人の一団が宿の軒下を通っていった。さらに、まだ武士の一団。

「まるで鬼ごっこだな」

「私達もね」

 そう凪が茶化した瞬間、

「それじゃ、行きますか」

 庄衛門の能天気な声が掛けられた。

 この日も快晴で、日の光は朝の内から強く、だいぶ気温も上がりそうだ。

 今日は小田原までの予定だ。距離としては昨日とほぼ同じぐらいになる。

 つらつらと歩む旅人の中にあって、鷹之介と凪はじっくりと前を行く三組の一団を観察していた。何かあるのは間違いないが、それが一体何なのかまではさすがに分からなかった。

「はっはっは、どうです、のんびりと一息入れていきましょうか?」

 道の途中に茶店を見付けて振り返った庄衛門。先行する三組とも、休む気配はない。

「お茶だって。どうするの?」

「まぁ、いいだろう。こっちの事を感付かれても厄介だからな」

「はい?なんですって?」

 なんでもない、そう鷹之介は惚けて見せ、一行は茶店で一息入れた。

 それから少し経って歩き出した凪の視界には、しっかりと三組を捕らえていた。

「まだ休む気配はないみたい。それに何か仕掛ける気配もね」

「うん。……もしかしたら、今日、明日は何事も起きないかもな」

「なんで?」

「ただの勘だよ」

「もう、当てになんないの」

 かくしてその鷹之介の勘は当たったと見えて、一行になんら変化は現れなかった。ただ箱根の関を前にして浪人組の姿が消えた。

「たぶん、山を越える気だろう」

 関を通るには交通手形が必要だ。あの浪人達がそのような物を持っているとは思えなかった。

 だが、これまた鷹之介の読み通り、箱根を越え、三島に着く頃には浪人組の一団が再び現れた。

「なっ、俺の勘もなかなかだろう?」

「偶然って、恐ろしいね」

「なんだと?」

「はい、ごめんなさい」

 非常に軽いやり取りの中に、二人の息の合いようが見受けられた。

「それにしても、あの浪人達、後を付けるのが下手だねぇ。ばればれじゃない」

「確かにな」

 それとも逆に、わざとそうしているのか?

「凪、今晩にでも忍び込んでみるか?」

「どっちに?」

「とりあえず浪人達の方がいいだろう。おそらく先に仕掛けるとしたらあいつらだろうからな」

 その日は箱根の山を越えた事もあって沼津止まり。先の二日間通り、三組は別々の宿に泊まった。

 そしてその一つ、浪人組の泊まっている旅館に、夜な夜な忍び寄る影が。忍びの術に長けた凪の姿である。

 普段の小袖は脱ぎ去り、身を黒の忍び装束で纏っていた。

 屋根から屋根へと。そして屋根裏へと。凪はあっさりと浪人組の泊まっている部屋を割り出すと、そこに耳を傾けた。

「奴らに気付いている様子はない。明日もこのまま監視を続けよう」

 頭領らしい男の声が聞こえたが、凪は思わず吹き出しそうになってしまった。あれで気付かれていないとでも思っているのかと。あまり賢い連中ではないらしい。

「いいか、なんとしてでもあいつを名古屋にやっては駄目だ。名古屋に着く前に、奴を斬る!」

「おおぅ!」

 薄暗い灯火の中、七、八人にも及ぶ男共が額を擦り合わせつつ談合する様は、なんともむさ苦しい光景であった。

 残念ながらこれ以上の情報はなく、凪は鷹之介の元へと戻った。

「その『奴』っていうのは?」

「さぁ、それがいつまで経っても名前を言わなかったから」

「……とにかく、あの連中の狙いは、前を行くあの五人の武士団の中にあると考えていいだろうな」

「それと、連中にはもっと仲間がいるのかもしれないよ。だって、そうでしょ、江戸ですれ違った時は、十五、六人はいたじゃない」

「という事は、どこかでの待ち伏せか。奴らはそこまでの監視者って訳だ」

「たぶんね。武士の人達に教えてあげた方がいいかな?」

「いや、大丈夫だろう。前にも言ったが、これはどうも武士の方の罠に浪人達がかかっていると見た方がよさそうだ」

「確かにね。あの連中お馬鹿さんだったし」

 凪は思わず思い出し笑いに吹き出した。

「もしもの時は、何らかの行動を取った方がいいかもしれないが、今のままでは動きようがないな」

 結論としては、やはり様子を見るしかなさそうだった。


 四日目も何事もなく過ぎ、江戸を発してから五日目、一行と謎の三組は府中を過ぎて丸子へと向かっていた。

 それにしても、どうしてこのような事に巻き込まれてしまったのか。なんだか迷惑な話である。やるなら他でやれ。

「鷹、浪人達に動きがあるよ」

「どうした?」

「二人がさっきの竹薮のところで脇道に入った」

「そろそろかな?」

「おそらくね。繋ぎをとりに行ったんだと思う」

「後ろの武士団の様子は?」

「あっ、一人いなくなっている」

「追ったか。さてと、どうするか」

 歩きながらぶつぶつと話す二人。鷹之介の目には先頭の武士団の姿があった。今のところ、なんら変わった様子はない。

 空は旅に出てから始めての曇り空。天も何事かが起こるのを期待しているのだろうか。

 昼を回り、午後になってからも鷹之介は神経の糸を四方八方に張り巡らしていた。いつ何かが起こっても対処できるように。そして、最善の行動が取れるように。

 鷹之介はもし浪人達が動けば、武士団の味方に付く事を決めていた。理由は特にない。勘、といったならば、また凪に馬鹿にされるだろうか。

 とにかく鷹之介の予想では、浪人達は今の人数の倍以上でとこかしらに待ち伏せしているに違いない。 

 弱き方を助ける。これが道義ではなかろうか。

 やがて道行くと、茶店が見えてきた。赤色の幟を掲げ。白抜きの文字で『団子、お茶』と書いてある。小さな造りで、そう何人も中には入れそうにないのだが……

「あれが臭いな」

「あれって、あの茶店?なんで?」

「お前ならよく見えるだろう。外の椅子で話をしている商人風の四人、明らかに武士団を意識している」

「じゃぁ、あそこで一気に?」

「そういうつもりだろう。そら、浪人達が走り出した」

「後ろの二人の武士も走ってきたよ」

「さぁ、始まるぞ!」

 鷹之介の予想通り、茶店の前を通ろうとした武士団が、茶店の長椅子で談笑していた四人に突然襲われた。刀は椅子の下にでも隠していたのか、それぞれの手に白銀の刃が握られていた。

 それを合図にしたかのように、茶店の中から、更には影から、また反対の道に隠れていた者達も現れた。そして、監視を続けてきた浪人達。総勢三十人近い人数となった。

 五人の武士も刀を抜き合わせ対峙した。

 この様子を見た庄衛門は、

「ひっ、ひぃ〜、盗賊ぅ?!」

 と悲鳴を上げたが、鷹之介が肩に手を触れ、

「若旦那、大丈夫ですよ。旦那が標的じゃない」

 そういって落ち着かせた。

 その隣を例の二人の武士が通り過ぎていった。その時――鷹之介は片方の武士と目を合わせた。それはとても鋭く、しかし深みのある瞳。多少歳をとっていたが、

――あいつ、相当できる!

 鷹之介は武芸者としての武者震いを覚えた。

 走り行く二人の武士。その背を眺めながら、

「なっ、なんなんだぁ、一体?」

 未だ恐怖が拭い去れないか、庄衛門の声は裏返っていた。

 鷹之介は早速、腰の脇差を抜くと、

「凪はここに残ってろ。でないと若旦那が恐怖で腰を抜かしかねない」

 脇差を渡して、武士の後を追って走った。

「ちょっと、刀使ってよ!」 

 凪が背負った刀の出番は、一体いつ来ることやら。ついでに、凪の出番も。

 鷹之介は雪降る黒い小袖の揺れる袖を懐から取り出した紐で手早く襷掛けに締め、動きやすい格好となって白刃乱れる血風の中に身を躍らせた。その表情には一点の迷いも浮かんでいなかった。

 戦いはすでに始まっていた。四方から囲まれた形の武士団は、一人の武士を中心にして円陣を組み、四方に睨みを利かせる。鷹之介が見るところ、中心の武士を除いた他の四人は、かなりの手錬である事が観察された。

――浪人達の狙いは、あの中心の武士か。

 襲い掛かる浪人達。中には槍や弓を持った者もいて、いくら武士が手錬とはいえ、苦戦は必死だった。

 剣戟の響きが起こり、一般の旅人達は巻き添えを食うまいと逃げ出した。しかし、後ろを二度と振り返えらないで逃げるような野次馬根性のない者はなく、遠巻きにしながら斬り合いの現場を目の当たりにしていた。

 四人の武士はよく凌いでいる。それぞれにすでに二人ずつを斬っているのではないか。しかし浪人組の威勢は衰えず、次第に押されていった。

 その内、一人が足を槍で突かれて倒れた。円陣が崩れる。

 浪人達の意気も上がるが、ちょうどそこに例の二人の武士が合流した。二人は笠を取り払い、抜刀して集団の中に飛び込む。

 その姿に鷹之介は目を疑った。例のすれ違った時に眼を合わせた武士、六尺近くあり、がっちりとした体格の男の振るう刀は、一気に三人の浪人を斬り倒したのである。さらに一人、二人。予想以上の腕前だ。

――これは余計なお世話かな?

 などと気が抜けそうになる。

 が、

「みな、どけ! 俺が仕留めてやる」

 弓を構えた二人の浪人が怒鳴った。一気に武士達へ矢の通り道ができる。かなりの至近距離でもあり、刀で払うのは難しかろう。

――やっぱり俺は必要か。

 ふと微笑を浮かべて、鷹之介はその二人を目標と決めた。

「助太刀いたす!」

 叫ぶや、飛び上がった鷹之介は一人の首を右の腕で抱え、もう一人の首を、両足を使って挟み、その勢いのまま地面に押し倒して、器用に静脈を押さえると、二人の浪人を一瞬に落としてしまった。

 予期せぬ敵に戸惑う浪人達。

「助太刀、感謝!」

 意外にも武士達は素早い動きを見せて、状況の打破に刀を振るい始めた。

――やっぱり、俺達の存在にも気付いていたか。まっ、あんな格好をしている女がいれば、誰だって気付くよな。

 凪の笑った顔を思い出し、鷹之介は苦笑いを浮かべた。

 この鷹之介の働きによって、戦況は一気に逆転した。

 例の武士。動きは緩慢に見えながら振り下ろした刀は確実に敵を捉えている。動きが緩慢に見えるのは、無駄な動きをしていない証拠だ。

 一方他の武士もよく健闘している。ただ一人を除いては。一体その一人は何者なのだろうか。

 ゆっくりと考えている暇のない鷹之介も、次々と浪人達を退けていく。ただし、殺しはしない。殺すなど簡単だが、刀とは違い、無手には殺す以外のいかようなる手もある。例えば先程首を締めて落としたように。

 鷹之介は無手を研鑚してからというもの、たった一つの人命をも奪ってはいなかった。無駄な殺生は、己の因果を増やすばかりだ。

 ついに浪人達は引きはじめた。斬られ、事切れている者はそのままに。怪我をした者は肩を支えられ、散り散りに逃げた。

 三人の武士がこれを追おうとしたが、例の武士がこれを諌めた。

「よい。それよりも又左の傷の手当てを」

 腹の方から響いてくる重い声音であった。

 鷹之介は死んだと思われて置いていかれてしまった気絶しただけの浪人を一人一人起こし、

「仲間さん、逃げちゃいましたよ」

 といって、逃がしてやった。お決まりの、

「覚えてやがれ!」

 はなかったが、こちらを見返す目には憎しみが篭っていた。

 やがて辺りが平静を取り戻した時、凪が鷹之介の元に駆け寄ってきた。


                    (三)


「いやぁ、凄かったですねぇ。さすがは私が見込んだ人だ」

 さっきまでの臆病振りはどこへやら、庄衛門の機嫌この上なくよく、舌の回りも滑らかだった。

 通り過ぎる旅人達。血を流し骸と化した浪人はそのままに、恨めしげに見上げる眼と視線を合わすまいと足早に去っていく。中には興味を示して覗いていく変わり者もあったが、このままにしてあっては旅人達の邪魔だ。

「若旦那、こいつを片付けるの手伝って貰えますか?」 

 と、笑顔の庄衛門に尋ねたところ、見る見る顔が青くなって言葉もなしに、ただ首を左右に振るばかりであった。

 その変わりように鷹之介は苦笑いし、凪を促して道の片付けを始めた。

 するとそれを見た武士の無傷の三人がやってきて、

「私共がやりますから」

 と進んで骸を道の傍らに寄せ始めた。

 鷹之介は随分と丁寧なお武家だなと感心しつつ、それを手伝って全ての骸を道からどかした。

 まだ血の残る地面には砂を掛け、後は時が自然とその惨劇を消してくれるだろう。

 鷹之介は茶屋で水を貰い、手を洗った。茶屋の主人は浪人共に脅されて店の奥に縛り上げられていたのだ。

 手を洗い終えて店先の椅子に近付くと、例の武士が太腿を刺された若い武士の手当てをしているところだった。

「よし、これでいいだろう」

 止血の塗り薬を塗り、しっかりと綺麗な晒しを巻いて固めた。大急処置だが、非常に的確なものであった。

 治療を終えた武士は、鷹之介に気が付くと、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「いや、助かった。この通り礼をいう」

 総髪を白の元結で縛り上げ、顔は髭を蓄えた頑強そうな面で、歳は五十歳前後と思われた。紺の小袖に黒の羽織。袴の裾は細く絞っていた。

 そんな男が、鷹之介に向かって頭を下げた。

「止めてください。大した事じゃない」

 鷹之介は頭を上げるよう促す。それに応じて、男も顔を上げた。

「ところで、そなた達は……」

「ちょっと待った!人の名を尋ねるより、まずは助けられたと思っているんだったら、そっちから名乗る」

 何かを尋ねようとした男の機先を制して、凪が割って入った。強気な瞳で男を睨み上げる。

「おお、これは失礼した。確かにそうだな、謝ろう」

 その様子に、鷹之介は随分と礼儀正しい人だなと印象を得た。

さっきの武士三人といい、この男といい、余程の名君の下にでも仕えているのだろうか。昨今の武士といえば、刀を手に威張り散らしていればいいと思っている輩が多い。その中にあって目の前の武士達は、人間ができている。上にある者が賢い証拠だ。

「拙者は尾張藩国老、成瀬隼人正(なるせはやとのしょう)が家臣、高田三之丞(さんのじょう)と申す」

 男は確かにそう言った。

「高田三之丞?! あの新陰流の高田殿ですか?」

「いかにも」

 これには鷹之介と凪が驚いた。なる程、強い訳である。

 高田三之丞といえば、尾張藩剣術指南役、新陰流第三世、柳生兵庫助利厳ひょうごのすけとしとしの第一の高弟としてその名を知らぬ者がなく、その腕前は兵庫助に試合を挑んできた者に対して兵庫助の代理を勤め、悉くこれを返り討ちにしていた。その腕が認められ、現在では尾張藩国老、成瀬家の剣術指南役を務めている。

 鷹之助と凪は言葉を失った。

「ところで……」

 と、三之丞が言ったところで、我に返った鷹之介が慌てて自己紹介をした。

「私は、雷光鷹之介という者です。こっちは凪」

「よろしく、お願いします」

 すごすごと凪は引き下がった。

「――雷光?」

「ええ。実はそこにいる高屋の若旦那、庄衛門殿の用心棒として旅を共にしていたのです

 三之丞の視線が、ちらりと鷹之介の後ろに注がれる。そこにはにやけ顔の庄衛門の姿があった。馬鹿丁寧にお辞儀をしている。

「なる程、やはりただの旅人だったのだな」

「私達の事、やはり気付いていましたか?」

「ああ。そちらの娘さんがよく目立つものでな」

 凪は少しだけ首をすぼめて、照れたように頬を掻いた。小さな笑いが起きる。

「お訊きしてはいけないのでしょうが、あの浪人共は?」

「本当ならば藩の重大事ゆえ、教える事はならないのだが、助けてもらった借りもある。何も教えないではかわいそうだな」

「申し訳ありません」

「実はな、奴らはこいつを仕留めたかったのだ」

「皆さんの戦い方からも、それは分かりました。ただ、なぜその人が襲われるのかと」

 鷹之助は話の人物に眼をやった。武士の格好はしているが、どこかおどおどしたような。

「襲われたのはそいつだが、そいつは偽者よ」

「偽者? それはどういう事で?」

「つまり身代わり。囮という事だ。本物は二日遅れてやってくる」

「じゃあ、この人は?」

「尾張藩邸に住み込みで働いている下男だ。姿形が似通っていたのでな、こうやって武士の格好をさせて歩かせていたのだ」

「では、本物というのは?」

「詳しくは話せんが、ある事件の証人なのだ。それも、あの連中には不都合な」

 これ以上は藩の機密なのだろう、聞く事はできなかったが、鷹之助は何か大きな不安を感じずにはいられなかった。またもや、『勘』である。

「ところで雷光殿」

「はっ、何でしょう?」

「もしやそなたは、雷光無頼斎殿と何か繋がりがおありか?」 

 その名を聞いて、またもや鷹之介は驚いた。間違いなく一閃髑髏流初代の名だ。迷惑の源だ。

「高田殿、無頼斎をご存知なので?」

「やはり、繋がりが?」

「はい。無頼斎は初代。そして私が一閃髑髏流の三代目になります」

 これに三之丞は驚いたように眼を丸くして鷹之助を眺めた。じっくりと、鷹之介の体から何か見えない特長でも探り当てるように。

 その反応は鷹之介にとっても意外なものだった。果たして無頼斎と三之丞の間になにかがあったのだろうか。

「鷹之介殿だったな」

「はい」

「無頼斎殿の最後は聞いておるか?」

「はい。徒者の集団からかどわかされた娘を助けるべく戦って、徒者の頭領との戦で、運悪く草鞋の尾が切れて」

「その、頭領の名とは?」

「え? ……双葉、竜衛ですが? ……まさか?」

 鷹之介は三之丞が告げるだろう次の言葉を恐れた。なぜ恐れなければならない。憎しみか。そんなものは持っていない。では、なぜ――

 三之丞の口元がゆっくりと動いた。

「……拙者が、その双葉竜衛だ」

 この時、鷹之介が三之丞との立合いを決意したのはなぜであろうか。それに何の疑いも持たなかったのはなぜであろうか。

 それは――それこそが、受け継ぎし流派の意地!

 静かな間が流れた。

「いかがする?」

 三之丞がゆっくりと尋ねる。

「私はあまりやりたくはないのですが、腕が勝手に震えているんですよ。武者震いが止まらないんですよ」

 鷹之介の腕は、確かに震えていた。下を向き、何かを堪えているような様子だった。

 その姿に三之丞は一言。

「では、参ろうか」

 死体を片付けたばかりの道の中央に立って鷹之助を待ち構えた。

 続いて鷹之介も歩き出す。

 突然の出来事に、周りは何がなんだか分からなくあたふたしている。ただ一人、凪を除いては。

「凪さん、これは一体どういう事です。なんで鷹之介さんが」

 おたおたする庄衛門に、

「少し黙ってて」

 強めの制しの声を発した。そして、一言、

「初代の敵を見付けたんだ。ここで討てなくて何が一閃髑髏流よ」

 凪は背負っていた刀を手に握った。いつでも鷹之介の要求に応えられるように。

 場は再び慌しくなってきた。二人の立会いが始まると知るや、旅人達がまた遠巻きに人壁を作った。

 太陽は相変わらず雲の中。この時期にしては涼しい風が吹いていた。

 対峙した二人の間にも、オーラの境界を作り出すような鋭い風が通り過ぎだ。

 三之丞が抜刀し、新陰流独特の無形の位をとる。刀は下段に下げ、立ち居はあくまでも自然体。

 一方の鷹之介は俯いたままであったが、やがて、きっ、と三之丞を睨み付けるように顔を上げると、その瞳に戦意を宿していた。

「どうした、なぜ刀を持たない。髑髏流は居合の筈だが?」

「これが俺の髑髏流だ。他人にとやかく言われる筋合いはない」 

 先程までの人懐っこい鷹之介はどこへ行った。礼儀正しい三之丞はどこへいった。

 これが武芸者なのだ!死の世界に身を置く者達の姿なのだ!

 先に動いたのは意外にも無手の鷹之介だった。一気に間合いを詰め、正面から三之丞に突っ込む。

 しかし、三之丞はまったく動かない。防御の構え一つしない。だが、返ってこれが鷹之介の意表を突いたものか、鷹之介は三之丞に接近するや、自ら横に飛んで逃れた。

 実は、鷹之介は後の先をとろうとしたのである。つまり、自分が突っ込んでいけば三之丞が攻撃し、それを掻い潜って無手の間合いにまで詰めようと試みたのだ。だが、三之丞は誘いに乗ってこなかった。やはり、普通に戦って勝てる相手ではない。

「なぜ、刀を捨てた?無頼斎殿の二の舞を踏むのが怖いのか?!」

「違う!敵を討つ事は、己を討つ事に通ずる。そんなんじゃ、真の極みは見えてこない

「詭弁だな。所詮は守りの考えだ」

 今度は三之丞が動いた。素早い能の動きに似た足捌きで鷹之介との間合いを詰めると、下段からの斬り上げ、空に弧を描きつつ左の袈裟がけ。息つく暇のない連続攻撃が鷹之介を襲う。

 その動きは林を駆け抜ける松風のようで、鷹之介はたった一つの隙も三之丞から見出す事ができなかった。

 大きく距離を置き、ようやく白刃の舞から逃れた鷹之介。

「無手でありながらそれだけの働きができるのに、なぜ刀を持たない。それはすなわち、失敗を恐れているからだ」

 確かに三之丞の言う通りだ。無手で刃に身を晒すという事がどれ程の勇気がいるものか。それを鷹之介は克服している。ならばそこに刀を持てば更なる飛躍が望めるのは明白なのである。それなのに刀を取らないとなれば――

「違う! 俺は失敗を恐れてなんていない!」

「ならば刀を取れ!拙者を一刀によって仕留めてみよ!」

 三之丞の気迫は凄まじく、鷹之介は息を呑んだ。

どうしてこれ程までに三之丞は鷹之介を焚きつけるのであろうか。それは挑発のなにものでもなかったが、どこか、どこかに、鷹之介に対する思いやりというものが感じられて仕方のないやり取りであった。三之丞は、鷹之介に何を知らしめたいのか。

 だか、鷹之介にそんな空気を察知する余裕はない。まだまだ若く、挑発には無抵抗に乗ってしまうような無謀さがあった。

「そこまでお望みなら、お見せする。一閃髑髏流第三世、雷光鷹之介の一撃を受けてみろ

!凪、刀を!!」

 三之丞へ向けた視線はそのままに、鷹之介は凪に呼びかけた。

 この時、凪の心臓は破裂してしまいそうなほどの動悸を打った。手足が固まり、刀を握っている手が小刻みに震えた。

――もし、鷹之介が刀を抜いたら。そして、もし、失敗したら。

 凪を不安と恐怖が襲った。そして自分の役目を呪った。もし鷹之介が失敗し、自ら首が刎ねられないようなら、凪がその命を奪わなければならないのだ。その手段は刺殺、毒殺、いくらでもある。

 しかし、凪にそんな事ができようか。幼き頃より兄弟のように育てられ、いくら円猿に掟を吹き込まれたとはいえ、凪にもしっかりとした意思が存在するのだ。それこそが、凪が鷹之介を想う心。江戸にいた頃、あの道を歩きながら話していた時、凪が鷹之介の口から語られる事を期待した言葉、

「ずっと、一緒に――」

 この刀は、渡してはいけないのであろうか。凪本人、口ではなんと言おうが鷹之介にこの刀を渡す日が来るとは思っていなかったのだ。鷹之介の刀を持たぬという決意に安堵していたのだ。だが――

「なにをしてる、凪!早く刀を」

「うっ、うん……」

 だが、やはり鷹之介は雷光の名を継ぐ一閃髑髏流のたった一人の後継者なのだ。これこそが鷹之介に定められた運命なのだ。では、凪の運命は?

 静かに鷹之介に駆け寄る凪。不安げに渡したくなさそうに刀を差し出した。

「本当に、この刀が必要なの?」

「ああ、そうだ。俺は一閃髑髏流の後継者だ」

「でも、一生使わないって……」

「凪!」

「……」

 二人の間で視線によって交わされた言葉はなんであったか。

「凪、刀を」

「うん」

 凪は鷹之介に刀を渡すと、名残惜しげにその場を立ち去って元いた場所に戻った。

 それを見届ける事なく、鷹之介は柄の長い刀を腰に差した。そして腰を静めて半身になり、右手を柄に添えて抜刀の構えを取った。

「それでいい、思い切ってその一刀を振るえ」

 と言って、三之丞は再び無形の位にとった。

 再び間合いの取り合いが始まる。いや、先程よりも慎重に。鷹之介は右半身を晒す事になり無防備。一方の三之丞は刃の恐怖と戦った。

「鷹之介」

 緊迫の中、突然三之丞が鷹之介に語りだした。

「お主、なぜ無頼斎殿が、自らの首を刎ねるような馬鹿げた掟を定めたか、その真の理由に気付いておるのか?」

 三之丞の語り出した事は、鷹之介にとってまったく意外なものであった。

「真の理由?」

「そうだ。まさか無頼斎殿の気紛れとでも思っているのと違うか?」

「それは……」

 図星であった。鷹之介にとって掟は馬鹿らしいものでしかない。当然『かぶき者』であった無頼斎の戯言であると思っていた。

 それにしても、なぜ三之丞が。

「ふっ、儂が語るのが意外そうな顔をしているな。いいか、よく聞け。儂はあの日、無頼斎殿の死を目の前にした時、まるで世界が真っ暗になったのよ。無頼斎殿の死の意味が理解できなくてな。それから儂は、それまでの生活を改め、無頼斎殿の死の意味を求めて剣の道一筋に打ち込んだのだ。流派は異なれど同じ剣術。その内に知れる時も来るだろうと思ってな。だが、結局儂一人の力では解決できなかったのだ。運良く柳生兵庫助殿に出会い、その門下に入ってからも儂は答えを見付けられぬままだったのだ。それである日、儂はこの問題を兵庫助殿にぶつけてみた。すると兵庫助殿は、こう答えてくださった。『それは、罪を清算したのだ』と」

「……罪?一体何の?」

 鷹之介にはその意味が分からなかった。罪とは、なにか道義に外れた行いをしたのであろうか。

「分からぬか?分からぬであろうなぁ。儂もすぐには分からなかった。しかし、これを知った時、儂は愕然となった。これ程までに尊い剣士がいたものかと。よいか、無頼斎殿が償った罪とは、まさに人を殺すという行為よ」

 これは不思議な答えだった。武芸者、剣術家であるならば殺人は致し方ない事ではないのか。また無頼斎の生きた時代は殺人を殺人とも思わぬ時代ではなかったか。それなのに人殺しの罪とは――

「いくら時代が時代、必要に迫られようとも人殺しは大罪だ。無頼斎殿はよくそれをご存知だったのだ。しかし、また時には斬らねば生きていけぬ事も事実。そこで無頼斎殿はあの掟をお定めになったのだろう。『一刀で討てなかった時は、自らの首をもって『髑髏』とする』。まぁ、この辺は無頼斎殿の気紛れも含まれているようだが、その根底に流れている心は『この一刀一閃だけは、邪なる者を討つための破邪の剣である』と。つまり、その一刀だけは神仏が許し賜わった一振りなのだ。人殺しも大罪、しかし世には大罪人がはびこっている。そこで考え出されたのが、一刀に込められた『破邪の剣』なのだ。一閃髑髏流の本質はここにある。どうだ、分かったか?」

 衝撃的な話だった。幼き頃より親しんできたものに、それだけの意味が込められているとは。それにだ、三之丞の話が事実としたら、今まで鷹之介のとってきた態度はどうなってしまうのか。刀を捨て、何気なく用心棒や道場破りなどしては……果たして、そこに『破邪』は存在していただろうか。いや、お世辞にもあったとは言えまい。全ては金のためであった。一閃髑髏流の一刀の大切さ、尊さ、それを知らずに鷹之介は今まで生きてきたのだ。『破邪の剣』も振るわず、ただ中途半端に生きる事を考えて。なにも中途半端に生きる事が悪いといっているのではない。しかし、鷹之介はれっきとした、一閃髑髏流の第三世なのだ。それこそ定めというものだ。

「さぁ、鷹之介、恐れずにその破邪の剣を振るってみろ。世の中にはまだまだ邪がみなぎっているぞ」

 そう言うと、三之丞は一気に間合いを詰めた。

 考えに耽っていた鷹之介は、はっと我に帰り、深々とバネの力を蓄えた。

「抜くんだ鷹之介、抜いてその力を見せてみろ!」

 さらにその間合いは縮まり、まさに一足一刀の間合い。

 辺りはとても静かだ。声一つ発する者もいない。最早誰もが二人のやり取りに飲み込まれ、誰もがその行くへを見守っていた。

 凪も、その眼には涙を溜めて。

「くそっー!!」

 鷹之介が動いた。大きな絶叫と共に。蓄えられたバネが一気に反発し、体の勢いと共に鞘走(さやばし)る刃。もしこれで三之丞を討てなければ!!

 一瞬の静寂が広がった。この時ばかりは風も止み、小鳥達さえ歌うのを止めた。

 そしてそこに、人々は信じられぬ光景を目にした。

 組み合ったまま動きを止めた二人。よくよく見れば、三之丞の剣先が、刀を半分程も抜きかけた鷹之介の柄頭を押さえ込んでいた。一歩間違えれば鷹之介の手を切り落とすところであったが、そこは名人の名を得る高田三之丞、完璧に鷹之介の抜刀を止めて見せた。

 そして、ゆっくりと鷹之介に語りかける。

「これならば、死なずに済むだろう。一閃、していないからな」

 この時、鷹之介の眼から涙が零れた。感動の涙。悔し涙。嬉し涙。様々な感情の混ざったものだったに違いない。

 その肩を三之丞は優しく抱いて叩くと、刀を収めながらこう言った。

「お前はまだまだ強くなる。一閃髑髏流に秘められた『破邪の剣』は、未だ健在であった

 人々の間から、なにがなんだか分かっていない筈なのに拍手が沸き起こり、鷹之介の元には凪が駆け寄った。

「鷹っ、よかったぁ!」

 抱き付いてきた凪を鷹之介はしっかりと受け止めると、凪の背中を摩りながら、その赤く晴れあがった眼を三之丞に向け、こう言い放った。

「確かに私は逃げていました。しかしこれからは『破邪の剣』を振るいたいと思います!

 満足げに頷く三之丞。三之丞は鷹之介に、一閃髑髏流の真の姿を見せてやりたかったのだ。そこにはおそらく、無頼斎に対する敬意があって。

 こうして一閃髑髏流第三世、雷光鷹之介は、武芸者としてしっかりとその一歩を踏み出したのである。


 一閃髑髏流、その『破邪の剣』は、不気味な太平の世に甦った。


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― 新着の感想 ―
[一言] 不動啓人さん、こんばんは。 ボクにとっては、馬の鼻先にニンジンを突きつけられたような作品で…… 食い付かないはずがない。 一閃髑髏流ってタイトルだけでもワクワクしますね。高田三之丞も出てくる…
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