柔肌
ヨイチはスナモグリ草の独特な香りに包まれて目を覚ました。
肌触りの良いシーツに包まれ、ベッドに横たわっている。体は軋む様に痛んだが、上体を無理やり起こすと、窓から差し込んだ一筋の月明かりが、小さな部屋を青く浮かび上がらせていた。
――初めて見る部屋だった。
ヨイチはすっぽりと抜け落ちた記憶を探ろうとするが、どうにも引っかからない。経験則から自分が意識を失ったんだろう事は理解できたので、とっ散らかった記憶を順番に並べる事にする――。
這う這うの体で奴等の倉庫から逃げ出した事ははっきりと覚えている。
顔の皮膚が腫脹の所為で突っ張り、内臓からは響くような鈍痛が続いていた。「戻らなくちゃならん」という意識だけがあった……。
そうだ、「ミツリに会わなくちゃならん」と思っていたのだ。
とてもじゃないが、自らの自己治癒力で何とかする段階ではなかった。信用できる医師に体を預ける必要があったが、フクラの医師(まじない士を兼ねる胡散臭い老婆)には頼めない。思いついたのはマンジの治療をしていたユギリの姿だった。
「コトハマに行けば治療を受けることができる」そう考えたが、それが公になるとフクラ対コトハマの構図が生まれかねない。自分はあくまでトチリアへ行っている事にして、マヤヅルにはいなかったと言い張る必要がある。それに、代官がどこにいるか分からなければ、その部下を始末するなどといった大胆な行動はとれないだろう。連中にとって、一番困るのは部外者の介入なのだ。
確か……公館の扉を開けて、転がる様に中へ入った……。
ミツリから「死んだらどこに埋めて欲しいですか」と聞かれたので、治ったら本気で殴ろうと思った……。
気付薬を受け取り、痛む体を杖にぶら下げて進んだ。時折、暗転しそうな視界を強引につなぎ留め、コトハマの入り口にたどり着いた……。
そうだ、見張の兵にユギリへ会いたいと伝えて――堕ちたんだ。
「起き上がるとはいい度胸ですね」
月明かりの影から聞き慣れた声が響いた。
「死ぬ前に一度、私に会いたいとおっしゃったことは評価しますが、無理に体を動かすことは許しません」
大きな誤解があるようだが、悪い方向ではない。ヨイチはだまっている事にした。
「今回は何をなさっていたんですか」
今日は満月らしい。部屋へ伸びる月明かりの陰影が濃く、ユギリの姿は闇に溶けている。
「え――っと……」
「また秘密ですか」
「……フクラとコトハマの為に、言葉を選ばせてください」
「全部は喋れないと言う事なんですね――いいでしょう、それなら私にも考えがあります」
言い終わると、ユギリはするりと月明かりの中にその姿を現わした。
寝間着なのだろう、絹製の簡素なガウンをフワリと羽織り、いつもきちんとまとめられている髪は肩から自然に流れている。どこか「崩した」雰囲気にヨイチは思わず言葉を飲み込んでしまう。
色気――。
経験の拙いヨイチは、その雰囲気を官能的と捉える事が出来ない。
「何か……やばい気がしますが……」
思わず警戒してしまう。
「本当に野暮な人ですね。イライラします」
構図としては「歴戦の勇士」対「新米兵士」である。完全に雰囲気にのまれたヨイチは、ユギリがベッドの端に膝をかけるのをただ見るしかない。
「そんな顔をして、本当に失礼な人です。私に触られるのが嫌ですか」
「だれも、そんな事……」
ぎしり――ベッドが軋み、ユギリが体重を膝へ移したのが分かる。彼女の口元に浮かぶ笑顔には余裕と決意がある一方、ヨイチの表情には困惑が浮かぶ。
「ヨイチ様――信用ってどうやったら生まれると思います?」
ここに来て、突然の質問だ。慌ただしく振り回される思考に、ヨイチは眩暈すら覚える。
「分かりませんよ、どうしたんです?」
ユギリは自身の下唇を、舌でなぞった。
「信用は犠牲によって手に入れる事ができます。商人は信用を得るために資財を投げ打ちますし、兵士は命を捧げるでしょう?男と女も一緒です」
「私も何かを捧げろと?」
「逆です――私が捧げます」
ユギリは片手をガウンの襟元へ伸ばす。
「ちょ、ちょっと待ちましょう。全てを話す事ができないのは、信用していないとかではなくてですね――」
「私の汚れた躰では、信用を勝ち取る犠牲にはなりませんか?」
「いい加減にしてください!怒りますよ!」
ヨイチの語気が思わず上がる。
「体の汚れは風呂で落とせます。今日風呂にはいったのなら、もう汚れていませんよ!」
言い終わる前に、ヨイチの胸にはユギリの躰がすっぽり収まっていた。衣服は大きくはだけ、今、ヨイチは肌や鼻腔で彼女を捉えている。
「あの――」
「――今、本当に嬉しいので野暮な話なら聞きたくないんですけど……」
「いや……犠牲うんぬんの話が途中だったと……」
ユギリがヨイチの肩口に歯を立てる。
「まあ、いいでしょう。ヨイチ様がお話したいなら、それでも……。でも、本当によろしいですか?」
上目遣いのユギリをしばらく眺めたヨイチは、自らの敗北を認めた。
「初めてだからしょうがないじゃないか……」
「なんですか、それ?」
ユギリは笑いながらガウンを肩から落とし、そのしなやかな素肌をヨイチに預けた。




