絞った勇気
通りは静寂に包まれている。空に星は無く、漏れる明かりもない。まるで深い沼の底にいるかと錯覚してしまうような、停滞した空間に目を凝らしても何も見えない。ただ、何か禍々しいモノが近づいて来る気配だけは感じることができる。ずるり、ずるりと、粘りつくような空気がヨイチの肌を撫でた。
これだけ厳重に開口部を塞いでおけば襲われる心配はないと、ヨイチは踏んでいる。この村の家々を見ても、扉や外壁に魔獣が付けたと思われる傷はなかった。いくら照明を消そうが、声を潜めようが、生物の気配を獣が扉一つで感知できない訳はない。侵入しようとしていないという事は、魔獣にその意図がないとしか考えられない。
開口部の閉鎖には、壊れて放置されていた建具の他に、馬車も解体して使った。馬は逃がしてしまうと帰国する手段がなくなるため最後まで悩んだが、結局、魔獣の餌になるよりはマシだと判断し、放した。戻って来る可能性は五分五分か……。
ヨイチとミツリはその戸板の隙間から外の様子を窺っている。ミツリにしてみれば生まれて初めて魔獣と対面する。白大陸で生まれ、都市で生活をしていた者にとって魔獣とは神話に近い存在だ。獣と名が付くだけで人におもねることをしない動物を意味するのに、さらに「魔」を冠する生物とはどんなものなのか。恐怖心の中に無邪気な好奇心が潜んでいる。
気配だけが空気を緊張させてしばらく経った。ふいに、濃い獣の臭いと腐敗臭がミツリの鼻についた。思わず嗚咽しそうになるが、必死にこらえた。涙目になりながら、ヨイチの方を見ると、彼も眉間に皺を寄せている。しかし、ミツリとは違う理由があるらしい。
「死体食か」
ヨイチの呟きはミツリにとって聞き覚えの無い単語だったが、意味は分かる。おそらく死体を食べるのだろう。
「じゃあ生きている人は襲わないんですね」
「殺して埋めて、腐ったら食べる」
ささやかな期待は盛大に散った。
臭いは徐々に強くなってきている……。
雲の切れ目に合わせて、青白い光が通りを静かになめた。世界の、月側に向いた面だけがうっすらと姿を現し、影はより濃くなった。
家々が並ぶ通りの奥に、それはいた。
最初、それはただの黒い塊だった。しかし、よく見るとゆっくりだがこちらに向かって動いて来るのがわかった。だが、まだ生物である確証がない。煙かもしれなかった。
しかし、その黒い塊は家々の隙間から指す月明かりで、姿を徐々に明らかにしつつある。ミツリは思わずその禍々しい姿を見て思った。
「ついてくるんじゃあなかった……」
理性が必死に止めなければ、大声で叫んでいただろう。
魔獣は生態系の枝から外れている。
だから、人々はその姿を見た時、未知なるものへの普遍的な恐怖を感じる。それは現実離れした美を伴う場合もあれば、調和を欠いた嫌悪感を伴う場合もある。今、目の前にいる魔獣は誰がどうみても後者であった――。
月に照らされた姿は恐ろしく大きい四足の「獣」である。体高は平屋建住宅の軒へ届きそうだ。体毛は短く、皮下の筋肉が異常に発達しているのが見て取れる。盛り上がった肩回りの筋肉が岩の塊のようだ。しかし、その異形な外観を嫌悪感へ最も強く誘っているのは、どことなく人間を思わせる、目と、歯を含む口元、そして指先である。
扁平な骨格をした犬の様な顔面に、血走って虚ろな目がやや中央から離れた位置に付いている。四角い歯が裂けた口から覗いているため、薄気味悪い笑顔を浮かべているように見える。関節のある肌色の歪な指が地面を音もなく掴む。
そいつは、ゴロゴロと唸る声がもう聞こえる位置にいた。ヨイチはミツリに、戸板を打ち付けた開口部から下がるように手で合図を出した。しかし、ミツリは口に手を当て涙目になったまま動く事ができない。
無理もない――。
ヨイチは半ば強引にミツリを開口部から引っぺがした。小便を垂らさないだけ自分よりましだと思った。もし、小便を垂らした場合、死体を好む魔獣なら臭いに興奮するかもしれない。
恐怖に支配された部下を、決して安全とはいえない壁へ押しやって、ヨイチはさっきより慎重に隙間から外を窺った。
瞬間、ヨイチは思わず飛び退きそうになる。思った以上に距離が縮まっていたからだ。魔獣は既にこの敷地に入り込み、鼻をしきりに動かしている。
「ろくでもねえな」
ヨイチは思う。魔獣が村をうろつく環境自体がおかしいのだが、それにもまして、魔獣が村の特定の場所を――おそらく餌場として――認識していることが異常だった。つまり、それはここでは習慣になるくらいの犠牲者が出たということだ。何も知らずに派遣された官吏たちはここで襲われたのだろう。もしくは、ここで皆に撲殺されたのかもしれない。死体食の魔獣がいるなら処理に困る事はない……。
魔獣は狭い敷地を嗅ぎ回った後、体をぐるりと反転させた。真っ直ぐ玄関の方へ頭を向けた形になる。
ヨイチは急いで開口部から後ずさりしたが、狭い室内でそう距離はとれない。五、六歩下がったところで膝をつき、矢をつがえる。キリキリと引き絞られた弦が悲鳴に似た音を出す。
「かんべんしてくれよ……」
思わずぼやく。
どん――。
突き破ろうとしたのではなく、柔らかいモノが押し付けられたような音が響いた。ひとまず強硬策が選択されなかったようなので、ヨイチはひとまず弦を緩める。ホッとする。
しかし、一体こいつは何をしようとしたのか……。訝しんだヨイチは弓の狙いを外し、板戸の隙間を注視した。
獣魔の体の一部が見えているが、真っ黒でよく分からない。つるつるしているようにも見えるが、もともと毛の短い個体だったため、部位の特定は難しい――。角度を変えて見ようとヨイチが体を動かしたとき、隙間から見えていた部分がどこであるか完全に理解した。
相手も隙間から見ていた。
目だったのだ。
ヨイチの動きに合わせて、ずりずりと黒いつるつるした眼球が追い、血走った白目が少しだけ見えた。ヨイチの背筋を鳥肌が走る。一瞬で弦を最大限まで引き絞り、照準を合わせた。
今なら間違いなく目を射貫くことができる。いや、ヨイチの弓ならば、そのまま脳まで達することができるかもしれない。構造上、頭蓋骨の低部は頭頂部より脆い。
ヨイチの恐怖心が行動を求めていた。人間が恐慌時に見せる残虐性に、今、ヨイチは支配されている。原始的な暴力が目の前の化物を撃てと指示を出してくる。生態系に拒否された特異点。人間を捕食する相容れない化物。躊躇する理由はどこにもない。
「くたばれ化物――」
弓を放つ瞬間、経験がこわばった力を抜いた。どんなにパニックになっていても、敵を撃つ瞬間だけは冷静になれる……まさに理想的な射手である。しかし、今回、矢は飛ばなかった。肩を掴まれたからだ。
「ヨ、ヨ、ヨイチ様、だ、だめめです、ままだ、アレは……」
ミツリは恐怖に全身を震わせながら訴える。
「ア、アレは……ま、まだで、す。け計い、い画どおり、ころ、ころ、殺すすのはま待たないいと」
ヨイチは自分を引っ叩きたくなった。クソまじめすぎて追っ払われた文官と聞いていたが、いやいや、自分にはもったいない男だった。
怯えないことが勇気ではなく、恐怖の中でも理性に従えることが勇気だと態度で言われた。ヨイチは「すまん」と小さく謝り、改めて弓を構えて魔獣と対峙した。
魔獣は建物の中をしばらく眺めた後、低く唸るような声を上げて立ち去って行った。




