帰還
波の質が変わった。
ゆったりと、しかし力強く大型帆船を翻弄していた力は、今は小さく不規則に船側を叩いている。
内海に入ったのだ。
貨物船ゆえの武骨な甲板の上で、青年が水平線を見つめている。
何も見えない。
しかし、青年の茶褐色の肌は故郷の風を感じていた。
あそこから戻って来た――。
故郷から遠く離れ、焦がれ、しかし戻る事を許されなかった者にしか感じることの出来ない望郷の思いは、彼を船室に留めることをさせなかった。
はやる気持ちは視線になって、見えない陸地を捉えている……。
うだるような8月の暑さが過ぎ去り、秋の実りがこの「白大陸」に訪れようとしている。気候が穏やかなせいで人まで陽気なトチリア半島の玄関口、ウツノミナの港も、いつもに増して活気に包まれていた。
ウツノミナ港は、半島の複雑な稜線と、深い海底のおかげで大型帆船の入港を可能にしている良港である。桟橋が幾つも外海に向かって伸び、色気の無い商船がいくつも帆を休めている。立ち並んだ木製の倉庫には大きくナンバーが記されていて、人と荷物の出入りが途絶えることがない。所々で屋台が立っていて、食欲を刺激する煙が人を集めている。多様な荷物と雑多な人種、荷馬車のいななきと商談の声が、平和で活気溢れる混沌を生み出していた。
青年はまるでドサ袋の様な手荷物を肩に担ぎ、船倉から運び出される大量の香辛料を避けつつ、久方ぶりの地面に足を付けた。まだ、足が独特の浮遊感に支配されている。
フードを目深にかぶり、柔軟に編み込まれた筋繊維を粗末な布で覆っている姿は、この底抜けに明るい港にそぐわないモノだったのだが、この時代、この国では珍しくはなかった。南方からの帰還兵である。
彼等はいつも貨物に紛れてやってくる。しかし、疲れて、汚れて、不安定な「元人殺し」を温かく迎える街はどこにもない。様々な人種を飲み込むこの港でも、彼等は人目を避けるように去っていく。彼も、その例に漏れず雑踏に紛れた。万雷の拍手と、声援の中、音楽に送り出された希望の兵士は、人知れず帰還し、体と心の傷を引きずりながら帰郷するのだ。
港から市場を抜けて市街に入ると、目的地までは一本道である。青年も例に違わず、冷ややかな視線から避けるように背を丸めて先を急ごうとするのだが、市街地の盛況ぶりに思わず足を止めた。
もともと善良な領主と、恵まれた立地条件から経済的に栄えていた街だったが、数年前に比べて店舗数、種類とも各段に増えている。建物は高層化し、見上げると店舗の上層階は住居として利用しているらしく、上階から子供を叱る母親の声が聞こえてきた。この領地が良好に統治されている証拠なのだが、青年は、この急激な成長にどこか寂しさを覚えてしまう。
「にいちゃん、帰還兵かい?お疲れ様、これでも食って元気出しなよ」
ふと、声の主を探すと、店舗からはみ出した陳列棚の先で、皺の深い髭面店主が目に入った。手にはリンゴ大の果物を差し出している。
「珍しいだろう、ウチでも最近仕入れ始めた果物さ。甘さはそうでもないが、溢れるほどの果汁が美味いんだ、ホレ、これでも食べて元気だしな」
半ば強引に渡されたリンゴ大の果物には見覚えがあった。
「トカゲザクロ……」
「ほう、知ってるのかい。そうだよ、南国の至宝とはこいつのことだ。値段はちょっと高いが、食べてみて損はないね」
「高いのか……」
衛生的な水が手に入りづらい現地では重宝した食材だった。決して好んで食べたわけではないが、手に入りやすさと保存性の良さで、よく口にしたのだ。
「なかなか手に入らないからね、でも、聖教師さんの為に命を懸けて頑張った兵士さんだ、50銭でいいよ」
「いや、せっかくだけど、遠慮しておきます。ありがとう」
適当な位置に果物を戻そうとすると、店主の手がその手首を掴んだ。
「おい、にいちゃん、ちょっと待ちな」
「何か……」
嫌な予感がする。
「そいつを元に戻してどうすんだよ」
「いや、どうするとは、どういう意味ですか」
「だからな、あんたが触ったその果物をな、戻したところで誰が買うんだって言ってんだよ」
「いや、別に傷もつけていないですけど……」
「そうじゃねえ。そうじゃなくてな、人殺しが触った果物を誰が食うんだってことだよ」
店主の必要以上に高い声は、周りの関心を引いたらしい。通行人たちが足を停め始めた。
「ウチの店はな、『ウツノミナ生鮮座』の常任だぞ。そんじょそこらの株だけ買ったニワカとは責任が違うんだぞ、オイ。ウチの商品が、人殺しの触ったモノだって事になったら皆が迷惑するんだ。ここは戦場じゃあねえんだ、街なんだよ。人を好んで殺す奴なんていねぇ所なんだよ。分かったらさっさと金をおいて失せろ脱落者!」
息巻く店主に気圧されたのか、青年は溜息と50銭を渡した。
「最初っからそうすりゃあいいんだ。小僧がいきがってんじゃあねえぞ」
店主は吐き捨てると、今度は集まった民衆に演説を打ち始めた。
「やあやあ、はしたない声を上げてすみませんでした。ですが、商品の品質を守ることは常任としては当然の事でありまして、真剣であるがゆえに夢中になってしまうんですな。まあ、そんなわけで、ウチの商品は今の様な間違いは決してありません、みっともない姿をお見せしたお詫びにサービスいたしますので、今日はぜひ、ウチで買い物をしていってください!」
その演説を、青年は店を離れつつ背中で聞いた。
やられた――。
正直な感情だった。あの店主は帰還兵を見つけると、あの寸劇を始めるのだろう。最初は偶然だったのかもしれないが、誰かの精神を餌に商売をするとは、なかなか悪質である。ただ、たくましくもあるのか、とも思う。
急激に成長していく市場では、当然、競争も激化する。もちろん、健全な成長をしている街は需要も同時に拡大していくものだが、不思議と膨らんだ需要は均等に分配されない。こんな店も出て来るのだろう。
街の至る所で行われている増改築用の足場を眺めて、青年は生活する人々の強さと影を感じた。
一本道は、やがて緩やかな傾斜になる。両端に建ち並んでいた生活の香りは薄くなり、草木に覆われた庭園の並ぶ豪商たちの住宅街が姿を現す。競い合うように精巧な細工が細部にまで施されて、立ち並ぶ門柱は美術館の回廊のようだ。かつての領主下では考えられなかった文化の表出に、青年は伸びやかな市民性を見る。
傾斜が突然急になる。
どんなに街の様相が変わっても地形だけは変わらない。記憶と一致する部分に、青年は口元も緩ませて歩を速めると、坂は終わり、空が開ける。
振り返ると蛇行した坂の先に、市街地を眺めることができた。そして、正面には相手を威圧させるかのような門が行く手を阻んでいる。鉄製のイバラを彷彿とさせる格子状の門扉に、トーチカと見紛うばかりの門柱。脇には衛兵が控えている。
ここは変わらない。機能優先の石頭。
「停まれ」
衛兵の鋭い声が響いた。門前でニヤニヤしている帰還兵を見れば、当然の警戒である。
「ここを伯爵公館と知っているのか。そのフードを取って、名を名乗れ」
青年は顔を隠していた事に気が付いていなかったのか、「ああ、すまない」と素直に侘び、土と、実は血で汚れたフードを払った。
独特の灰色に鈍く光る短髪と暗褐色の肌が、先祖に山岳系民族がいる事を示している。かさついたピンク色の唇は乾いてヒビが入り、目は鋭くも濁っている。眼窩はくぼみ、頬はコケて、栄養状態が良好とはとても思えない。体からは体臭とは違う、独特の香りがする。
衛兵の槍を持つ手に力が入る。
「帰還兵がなんの用だ」
青年はどこか申し訳なさそうに、でも、少し億劫に感じながら答えた。
「キビノ侯爵の実弟、キビノ・ヨイチが南征教師軍から帰還した。ホウジョ・マサゴ代官へ取次ぎを願いたい」