開演する舞台に朝食を
ファラエル王家別邸の中央に位置する中庭。
緑あふれる憩いの場として作られたこの場所に1組の男女がベンチに腰掛けている。腕を組んで身を寄せ合う姿は傍から見れば仲むつまじい恋人同士に見えただろう。
ここは憩いの場―― 肌寒い早朝の風景の中、2人の男女が語り合う。
カルラの右腕が左腕をガッチリと掴んで離さない。男女が腕を組む―― 年上のお姉さんに腕を組まれて照れる年下の男の子。字面だけみれば微笑ましい光景に思える。腕を組まれた男の子―― フェレルは焦っていた。この状況に― 目の前の執事服の女がフェレルの方をじいっと見つめ話しかける。
「もしかして、緊張しているのですか」
「…………」
―― 拘束されている。腕を解こうと力を込めているがカルラの腕はビクともしない。物凄い力。まるで鋼鉄の拘束具の様だ。
2人の男女が腕を組む―― 男は罠から逃げようと必死に足掻く獲物のように。女は獲物を逃がさんとする狩人の様に。
「それとも、照れているのですか。ふむ、ナダル様は女性にだらしない―― 失礼、女性慣れしていると聞き及んでおりましたが。意外と可愛らしいところがあるのですね……噂のナダル様とは別人のようだ」
「―――!」
「いえ、噂と言うものは尾ひれが付くものですから。所詮は人伝いの情報―― 誰かしらが途中で面白可笑しく話を挿入するものです。私もナダル様の噂を聞いておりましたが全てを鵜呑みにしていた訳ではありませんよ……噂のナダル様とまるで別人―― の様に感じても驚きません。ふふ」
「―――っ!」
静かな中庭に凛とした声が響く。
別人!別人!別人!別人!!―― その言葉にフェレルは動揺した。
そう、もうわかっている。フェレルの正体はとっくにばれている。決して知られてはいけない事がこんなにあっさりと―― しかも、一番知られてはいけない人物に。
カルラは飄々(ひょうひょう)とした態度でフェレルに話続ける。カルラの飄々とした態度にフェレルは――
「さっきから―― 」
「ん?」
「さっきから噂、噂って言ってるけど どんな噂だよ!? そもそも、別人って言うほど俺のこと知ってんのかよ、あんた!!」
フェレルはキレた―― 感に触る口調と別人という言葉を繰り返して執拗に挑発するような態度。こちらを怒らせることを前提に話しているのは十分理解している。
うかつな事をこれ以上は口には出来ないと我慢してきた。だが、もう我慢の限界だ。フェレルはそこまで賢いわけでもないし我慢強くも無い。
激昂するフェレル―― 感情をあらわにした態度をカルラは待ってました!とばかりに言葉を返す。
「ほう、ナダル様はご自分の醜聞―― 失礼、どのように周りから言われているのか知りたいと……そう仰りたい訳ですね」
「―――!? それは……」
「ふむ、自ら自分の醜聞を知りたがるとは―― やはり、噂とは別人のような謙虚さです、では……」
ふたたび別人という言葉を強調してフェレルを挑発する。カルラは少し目を細めて左手を軽く口に添えるようにし――
「ファラエル王家の恥さらし、そして―― アンドナ・ラ・ビエナ一の最低と……ご存知無いですか」
「恥さらし?一番の最低?」
「ふ~…かなりオブラートに包んだ言い方だと思います。具体的なことで私が知っているのは……そうですね―― 他の王子様や王女様たち全員から……ご兄弟の方から嫌われていると。アンドナ・ラ・ビエナの住民の方々に暴政を強いて一時は反乱が起こったと。後は……これは一番有名な話ですが目に付く女性を片っ端から手篭めにして乱暴に扱っていると―― この町でナダル様に好意的な人物は皆無だと思いますね。まあ、他にも色々ありますが……本当にご存知ではないと」
カルラはナダルの噂をフェレルに語りこちらの様子を注意深く観察してくる。世情とは無縁の暮らしをしてきたフェレルはアンドナ・ラ・ビエナの内情など当然知らない。暴政や手篭めなど知らない単語が飛び出してきたが、良くない意味だという事は何となくわかる。
ナダルがあの罵倒男だとわかっていた。酷いやつだったのだろうとある程度は覚悟していたが予想以上に酷い人物だった事にフェレルは愕然とする。とんでもないやつと入れ替わってしまったものだ。
フェレルは苦虫を潰した様な表情でうつむく。そんなフェレルの様子を見てカルラは――
「―― 怒らないのですか? 噂の真相は別にしても、自分のことをこれだけ悪し様に言われているのに」
「いや……何ていうか―― 言葉が無いです」
実際に何と言えば良いのかわからない。フェレルだっていつかはここから逃げ出さなければとは思っていた。その一方で王子様と入れ替わったのだから贅沢な暮らしを堪能できるのでは?と少なからず期待していた部分もあった。だが、入れ替わった相手がこれほどまでに醜悪な人物だったことに驚きを隠せない。
「ふむ、謙虚なことはとても宜しいと思います。で、ここからが私からの本題になります」
「本題?」
「ナダル様の醜聞―― 失礼、噂を上の方々は大変重く見ております。そして、枢密院はナダル様に王家の人間にふさわしい教育を施さねばならないと判断しました。最終的にこの私が。アレス家当主カルラ・アレス・ナバーロに白羽の矢が立ったという次第にございます」
「なるほど―― で、あんたが俺の教育係でこのお屋敷にいると」
「はい、期間は今より10カ月―― いえ、正確には9カ月半と言ったところですか。ナダル様を王家の名に恥じない王族に……誠心誠意ご教授して差し上げます。それに――」
10カ月もカルラと一緒にいなければならないという事実に心底身震いを覚える。この得体の知れない人物と―― それに、自分の正体に気づいているであろうこの人物と。
「実際にお会いしてみると不思議なことに噂とはまるで別人のようで―― 正直、驚いております。噂を鵜呑みにして身構えていた自分を恥じる次第であります」
「――っ! くっ……お前は俺の正体に気がつ――」
「ふふ、ナダル様が別人であるはずがないでしょう。王家の名を騙るなどと、そのような神をも恐れる所業をする者がいるなど……もしも、そのような不届きものがいるとすれば―― 」
カルラはそこで言葉を切り、無機質な黒い瞳でフェレルを射抜くように見つめ――
「簡単には死なせませんよ。地獄すら生ぬるいと思える罰を受けることになるでしょう―― ああ、もちろん別人などいるはずありませんが」
その言葉にフェレルは身体を貫かれたような衝撃を受ける。カルラの脅しとも取れる言葉が鋭い剣となり胴体に突き刺さる。金目のものを盗んで逃げようなんて考えは甘かった―― 想定していた最悪の展開はすでに訪れている。チェックされている―― つまりはあと一手でチェックメイト。
もはや一刻の猶予も無い。自分の手番で何とかしなければ……つまり逃げ出さなければ本当に詰まれる。
「ふふ、そんなに脅えないでください。この格好で言うのも何ですが乙女心が傷つきます」
「…………」
「ふ~…そう難しいことではありません。ナダル様は『ナダル様として』立派に学んでいただければそれで良いのです。私の方針に従い教育を受け、王族として立派な方に育つ―― それで王子として何不自由なく暮らす。ただそれだけの事です。何も難しいことはありません」
カルラの手のひらが萎縮しているフェレルの頬に触れる。彼女の言葉と手のひらが心にやさしく触れる。その言葉にフェレルの心は激しく動揺した。そして……フェレルは思う――
― こいつは一体何がしたいんだ!?
そんなフェレルの様子を満足げに見つめるカルラ。絡んでいた腕を離し、ベンチから立ち上がり見下ろすような形でフェレルに話しかけてくる。
「色々と予定が狂ってしまいました―― ですがこれは嬉しい誤算と言う所でしょうか。選択肢の幅もだいぶ広がって……本当に感謝しております。では私はこれで」
カルラは一礼してフェレルをベンチに残し中庭の入り口に向かい離れていく。どうやら話はこれで終わりのようだ。フェレルの身体が小さく震える。吹き付ける冷たい風のせいなのか、カルラに対する底知れない恐怖のせいなのかはわからない。
逃げよう―― 中庭を囲む石垣は超えられない高さでは無い。カルラが中庭からいなくなったらすぐにでも――
「ああ……そう言えば」
入り口のドアの前で今思い出したかのようにカルラが呟き。そして――
― 轟ッ!!
中庭に風を切る音が―― いや、風をぶち破る轟音が鳴り響く。急に発生した突風に思わず目を細める。視界から入り口の前にいたはずのカルラの姿が消失。そして――
「ナダル様―― かなり汗をかいておられるようで。すぐにお部屋に戻ってお拭きになってください」
「―――! なっ!?」
フェレルの背中からカルラの中性的な声が聞こえてくる。
中庭の入り口はベンチから10m以上離れている。カルラとフェレルは10m近く離れていたはずだ。一瞬で距離を詰めフェレルの後ろに回りこんだのだのか―― 10m以上の距離をわずか1秒にも満たない時間で。
強いと思っていた。格が違うと思っていた。身体能力に差があると思っていた―― しかし、いずれの認識も間違っていたことに気づく。そう、彼女の動きは人間を逸脱している。
「ふむ、どうかしましたか。このままでは風邪を引いてしまいますよ。それとも―― 私がお部屋までお連れしましょうか」
「いや……大丈夫。1人で戻れるから……」
「そうですか。では、終わり次第食堂の方にお越しください。そろそろ朝食のお時間です」
後ろからの視線を受けながらフェレルは入り口に歩いていく。この化け物から逃げることができない―― チェックメイト。自分の手番でチェックから逃れられない状況だった。
フェレルは力ない足取りでナダルの寝室まで戻ってきた。隙を見て逃げ出す―― あのカルラから逃げ出すのは正直厳しい。どうしようもない現実を突きつけられて意気消沈する。
カルラと接していた緊張でだいぶ冷や汗をかいたらしい。服の下が蒸れていて気持ち悪い。額にも汗が滲んでる。汗をかいたぐらいで風邪をひくほど繊細な身体ではないがタオルで拭いたほういいようだ。
かって知ったる我が家という訳にはいかず、タオルがどこにあるかなど分かるはずも無い。見つからずに―― あっさりと見つかった。キングサイズのベットの横に備え付けられている机にタオルが何枚も用意されていた。水差しまである。これを見つけていれば池に行かずに済んだものを……いままでの苦労は一体……くっ。
体中の汗を拭き終えたフェレルは一度脱いだ服を着なおすのに悪戦苦闘。ちゃんと着れたのか不安になる。それはともかくこの後はどうすれば―― ああ、食堂だ。カルラが朝食の時間だと言ってたな。
部屋の中にはフェレルと気持ち良さそうに眠っているポーラがいる。大きな音をたてて起こしたらかわいそうだなと足音をたてないように静かにドアに向かう。そのままドアを閉めて食堂に向かった。
「んっ…………はっ!? えっと―― ああっ!?ナダル様……いない」
―― 最後にドアを閉める音に気を使うのを忘れて……。
【聖暦1541年1月15日午前6時/ファラエル王家別邸/大食堂】
フェレルは廊下を歩いてお目当ての場所を探していた。そして予想以上に食堂はすぐに見つかる。昨晩の散策の時には暗くて気が付かなかったが各部屋の上に部屋の名称を現るネームプレートが設置したある。フェレルは学は無いが最低限の文字と単語は知っている。ニステ盗賊団は血なまぐさい荒くれ集団だ。そんな無法者たちの中で育ったフェレルは当然、無知無学だと思うだろう。だが、フェレルはネームプレートの文字を問題なく読めた。これには理由がある。団長のニステ・E・サンチェスは知能犯罪をもっとも得意としている。その性質上、自分の仕事に支障をきたさない様、読み書きと簡単な計算ぐらいは出来るように団員たちを教育していた。悪銭身につかずと言うが悪のために覚えた知識は身について役に立つようだ。
フェレルが『大食堂』と書かれた部屋に入ると中には沢山の使用人が主をお出迎え―― カルラだけが部屋の中にぽつんと立っていた。大きなテーブルの上に敷かれた白いテーブルクロスの上には所狭しと並ぶ豪華な料理が―― 一切無かった。テーブルクロスの白さだけが目に飛び込んでくる。
「まさか、使用人たちまでこの体たらくとは―― この主にしてこの使用人と言う所でしょうか」
「おい!今、だいぶ失礼なこと言っただろ。なんとなく馬鹿にされているのがわかるぞ」
「ふむ、お早いお付きで。まあ、残念ながら見ての通りです」
「残念ながらって何がだよ。……って、あれ?食事はどこ。―― もしかして部屋を間違えたか」
フェレルの当然の疑問。食事の時間だからと言われて食堂に足を運ぶも肝心の料理がどこにも無かった。2日間も食料を口にしていないフェレルは飢えていた。そして、王子様が食べる食事に内心ワクワクもしていたのだが……食事ではなく肩透かしを喰らう。これは一体――
「いえ、ここが食堂で間違いありません。残念ながらと言うのは使用人たちが朝食の準備―― いえ、使用人たちが誰も起きていない事です」
「えっ!?はあ!?それってどういう事」
「私のほうが聞きたいくらいです。ナダル様は使用人たちにどのような教育をしていたのですか―― ふう~…やれやれと言ったところです」
― そんなもん知るか!ナダルに聞いてくれ!―― ああ、今は俺がナダルなんだっけ……って、俺の正体知ってるだろ!?
フェレルは心の中で激しくツッコむ。この状況を予想していなかったのはカルラだけでは無い。当然、フェレルも料理が準備されていると思っていた。ニステ盗賊団で週6で朝食を作っていたフェレルは食事の準備にどれだけ時間が掛かるかを知っている。食事を出すのが少しでも遅れようものなら大人たちから激しい暴力を受ける―― 盗賊団でそんな扱いなのだから、とっても偉い王子様の食事が遅れるとは考えられない。
「ふ~…いくらなんでもここまでとは。やはり彼らには罰を与えなければ」
「いや、罰って―― あー…そこまでしなくてもいいのか……な?」
カルラがまた罰を与えると言い出して慌てて止めようとするも疑問形。食事を出すのが遅れた場合に罰(フェレルの場合は殴る蹴るの暴行)を受けるのは仕方ないのかと納得してしまう自分もいる。とは言っても作るほうも大変なのは身を持って知っているので罰を与えるというカルラの言葉に思う所があるのも事実。さて、どうするか―― 然らば!
「あのさ……料理なら自分で作るから。だから、罰を与えるとかしなくてもいいよ」
「ほう、ご自分で料理をされると―― これはこれは……何とも酔狂なことを仰る。王族の方が厨房に立つなどと―― 」
「別にいいだろ。あんただって……っと、カルラだってそこはわかってるだろ」
今更ながら、白々しい話である。盗賊という事まで知っているかどうかわからないが少なくともナダル様とは別物だってわかっているだろうに。それに、ナダルの家でナダルが料理しても問題ないはず。それ以上に空腹が苦しい―― 早く食事を取りたくてしかたないのだ。王子様が食べる食事には興味があるがお腹を満たせるなら今は何でもいい。
「じゃあ、調理するから。厨房はそっちの部屋でいいん―― 」
「仕方ありませんね。私が朝食を作ります。ナダル様は席に座ってお待ちください」
「―― だよな……って! カルラって料理出来るの!?」
「ふ~…失礼なことを仰る。これでも名家の令嬢として育ったのですから。一体、どの様な目で私を見ているのか―― この格好で言うのも何ですが乙女心が傷つきます」
フェレルを圧倒する戦闘力と人間離れした動きを見せる怪物が厨房に立って料理をする―― 残念ながらその発想は無かった。執事服を見事に着こなす美麗衆目の美青年―― もとい女性は少し拗ねたような口調で文句を言う。
「ふむ、なぜ厨房にいるのですか。お席で待つようお願いしたはずですが」
「いやー…1人で待っていても暇だし。それにお屋敷の厨房がどんなものか気になって……」
カルラは厨房に立って調理を始めていた。執事服の上から備え付けのエプロンを装着する。男物の燕尾服に白いエプロンという何ともミスマッチな姿だった。フェレルもカルラを真似てエプロンを装着して横に立つ。広い厨房の中に2人の調理人が並び立っていた。
「で、なぜナダル様まで調理をされているのですか。王族の方が厨房に立つなどいざ知らず、自ら調理をするなど」
「いやー…だって、2人で料理した方が早くできるじゃない。お腹空いてるしさ。それにそんなに難しい料理ってわけでもないし」
「ふ~…ナダル様スープが焦げてしまいます。ほら!早くかき混ぜないと……ちゃんと鍋のほうをこまめに見てください。それにレタスはもっと均等にそろえていただかないと。こちらも方も仕上がりそうですからお皿を早く用意してください。ああ、ハムはもっと薄く切らないと。ナダル様、ジャガイモの皮をもっと綺麗に―― 」
「おい!?王族の事、思いっきりコキ使ってるだろ!!」
世話しなく動く王子と乙女心を持つ執事―― 王子に入れ替わった盗賊が演じる物語の開演は朝食の後で。