第十二章 伝達人
五日後。
五日間の間は特になにも起こらず、平穏な時が流れた。その日も、俺はなにも考えずに、と言っても、早くも遅刻常習犯のレッテルを貼られた自分に自責の念で心をいっぱいにしながら、時間よ止まれ、と祈りながら、パンで口をもごもごさせながら、八時十分を示し、遅刻を示唆する時計を目の端に捕らえながら、そりゃもう慌てていた。
ひらりとカウボーイ顔負けのテクニックで自転車に飛び乗り―五日間なにもなかった、と言ったが、一つだけ大きな変化があった。寝坊対策として、俺はチャリ通を採択したのだ。思考時間約0,5秒という脅威の速さで採択の結果を迎えたのだが、おかげで俺は時間ぎりぎりまでベッドと同一化を図ることに成功し、余計に朝が慌しくなる結果となった―学校の近くの超天然的公共駐輪場に全速力ですっ飛ばした。超天然的公共駐輪場ってのはマンションの裏にあった。じめじめしていて光も当たらず、それでいてまあまあな広さを誇っている。まさか誰も、特に学校関係者は来ないであろうと推測できる、いわゆる名所だ。この時間帯は寝坊対策としてチャリ通を採択し、その置き場としてここを苦渋の末に選択した同志がいっぱいいるであろう。
いつも通り。
………
どのような天才でも不可能なことはあるように、やはりこの自転車も俺を遅刻前に学校へ送り届けることはどうやら不可能のようだ。天然公共駐輪場の利用者と軽い挨拶を交わしながら俺は学校のチャイムの音を聞いた。その利用者と目が合い、軽く肩をすくめながら俺は学校へのダッシュを決行した。もう一人の方は完全に腹をくくっていたようで、チャイムの音にも全く動じず、『まぁ頑張れや』とだけ言って、なぜか俺とは反対の道を歩き出した。
俺の猛ダッシュもむなしく、校門は既に固くしまり、乗り越えるか、職員玄関を使うかの二者択一を迫られた。職員玄関に行くと、98%の確率で事務の人に見つかり、『遅刻』の烙印を押されてしまうが、ここを乗り越えれば、先生にも見つからなければ、そして榊原氏が少し遅れていれば、いわゆる『ギリギリセーフ』って奴になる。考えるまでもないね。
そう思い(何を思った)校門に足をかけようと思った刹那、俺は後ろに無言の気配を感じた。
「……。」
恐る恐る振り返ってみると、そこには、見かけない顔の女子がいた。
「うおっ」
これ、俺。
「………。」
三点リーダ三つ分の空白を作り、彼女は不思議なものでも見るかのように俺の顔を見た。
「……。」
「……。」
気まずっ。
「えっと……どうした?」
「……。」
相変わらず三点リーダを台詞とする彼女。
「遅刻か?」
俺がそう聞くと、彼女はミリ単位で顔を下げた。首肯のつもりなのだろう。
「もしかして、どうしたらいいか分からないとか。」
少し間をおき、首肯。
「仕方ねえな……。」
彼女の返事は、相変わらずの三点リーダ。
「分かった、ついて来い。」
首肯。
かくして俺は遅刻を隠滅するラストチャンスを失い、おまけに正体不明の女子を引き連れて職員玄関を通らねばならないという一生に一度あるかないかの不思議体験をすることになったが、それほど悪い気分でもなく、たまにはいいか、くらいにしか思わなかった、思えなかったのだ。それほどまでに、俺の鋭敏だったはずの異変察知能力は鈍っていたのだ。
だがそん時の俺は全くそんなこと考えもせず、この場を少しでも人間的なものにしようと努めていた。
「転入生?」
否定の動作。
「名前は?」
少しの間を空けてから、彼女は言った。
「神無月沙紀」
意識していなかったら、耳を素通りしてしまいそうな、そんな声だった。
「永田?」
「神無月」
「神無月?」
「そう」
「そうか」
「……。」
場の雰囲気はいっそう無機質的なものになってしまったが、そのことを意識するまもなく俺らは職員玄関に立っていた。
「入るぞ」
「……。」
ついに彼女はリアクションさえしなくなったが、そんなことで気を悪くしてしまっていては始まらないので、それは率先して学校に入った。しっかり『遅刻』の烙印を押され、教室へ向かう。
っと、一つ聞き忘れたことがあった。
「神無月、クラスは何組?」
「六組」
「あれ、同じ……か?」
首肯。
あれ?こんなやついたっけか?
まあ、まだ学校始まって数週間だし、しかも目立たないタイプだし。
「……。」
黙々と階段を上がる俺。
「……。」
相変わらず三点リーダの神無月。
またもや気まずい雰囲気になってきたので、何か話題を振ろうとした刹那、彼女は貝殻のようにしまっていた口をあけて、こんな事を言った。
「気をつけて」
「は?」
どーゆー意味だ?
「……。」
反応ナシ。もうこれ以上何を言っても無駄だろう。それくらい俺でもわかるさ。
俺らはその沈黙を守りながら、いつしか教室の前に立っていた。
さて、どうゆう風に入ろうか。
後ろからこっそり入るか、そんな事を考えていたら、俺の後ろにいたはずの神無月が俺の横に回り、そしてゆっくりとドアに手をかけた。
ガラ。
開けやがった。
しかも、俺がドアの前に立っているというのに。
しかも、神無月はドアの裏にいて皆からは死角だ。
してやられた。
そう思う間もなく、
「あ、ソーヤ、遅刻!」
「遅刻遅刻!!」
そんな野次が川口、江藤あたりから飛んできた。遅刻遅刻、という割には、着席している生徒は半数にも満たなかったが。
こうなると俺はもう完全に開き直り、堂々と教室に入る。が、そこにミスター情熱こと榊原はまだ来ていないようだ。
俺は彼らの野次に屈することなく前進を始め、彼らの野次も消えかかった瞬間、俺の後ろに神無月がついて入ってきた。
彼らはそこを見逃さなかった。
「あ、ソーヤ、カノジョと一緒に登校かよぉ!」
「うわ、お前だけは、って信じてたのにっ!」
なんかとてつもない誤解をしている。
「校門でばったり会っただけだって」
「嘘つけぃ!」
「マジだっての」
「神無月さん、マジすか?」
「……。」
神無月、ナイス無視。
「信じろって」
「ふぅ〜ん?」
そういって彼は俺のことを、続いて神無月を比べるように見、そして大きくうなずいた。
「ま、そうだよな。神無月が、しかもソーヤと……なんてありえねーか」
「てめ、いっぺん死んでみっか」
「また次の機会に」
そういって肩をすくめた。
「アホ」
ちなみに、神無月は終始無表情だった。
これ以上立っていてもいいことは無さそうなので、俺はとっとと席に着く事にした。
が、俺が席に向かおうとすると、後ろから神無月がついてくる。
「神無月、どした?」
「私の席」
そういって、彼女は俺の隣の席を指差した。
「そこだったのか」
首肯。
「そうか」
「そう」
気付かなかった、といって無駄に人を傷つけるほど俺は無神経ではない。意外とこいつもデリケートそうだし。
「遅くなってすまない!ホームルーム、始めるぞ!」
と、ここで榊原氏登場。
席についてなかった馬鹿ども(俺含む)はそそくさといすに座り、神無月はゆっくり、神々しさを感じさせるほど悠々と座る。
『気をつけて』
神無月は、俺に、確かにこう言った。なぜだろう。というか、何に気をつけろと言うのだ。
ちら、と神無月の顔をうかがう。俺の隣に鎮座している神無月沙紀は、背筋をピンと伸ばし、だが目は先生を見ていない。雪を連想させる色白な肌、中途半端なおかっぱ頭シャギー入りを春風になびかせ、よくみりゃそれなりに整った顔立ちだ。しかもソーヤと……、とかいったアホの気持ちもわからんでもない。しかしその闇色の瞳から読み取れるものは何一つとしてなく、ただひたすらに無表情だった。
「如月、神無月がそんなに気になるのか」
おうよ。誰でもいきなり『気をつけて』とか言われたら気になるだろうがよ。
「よそ見するなよ。」
うっせぇ。とは言わずに
「うぃっす」
とだけ言っておこう。
ドッと笑い声。しかし神無月は無反応、無表情。
ホームルームはおろか、授業も集中できなかったことは、言うまでもない。
…………。
放課後。
榊原先生のいいところは、何よりも教育熱心で、生徒の意思を重んじることです―誰かがそんなことを先生紹介の作文に書いていたが、俺が思うに、彼の最もいいところは帰りのホームルームが一瞬で終わるところだと思う。いや、こんな考えを持っているのはおそらく俺だけではあるまい。大口開けて笑ってる黒川も、必死こいて問題集とにらめっこしている笹原も、そしてこの作文を書いた生徒も、みんな彼の瞬殺的ホームルームを一番の長所だと考えているに違いない。
実際、今日のホームルームも彼は十秒で終わらせてしまった。他のクラスがまだホームルームをやっている様を見てあざ笑うのも、六組の生徒だけに許された特権なのである。
そんなことを考えながら、俺はのうのうと教室を出た。黒川たちの『今日遊ぼ』
コールを俺は全て却下し―意味などない。強いて意味を持たせようとするならば、恐らく『めんどくさい』が最有力候補に浮かび上がってくることだろう―例の天然駐輪場へ足を運んだ。




