祈る絵画編 第三章 第四幕 イネス
傍観者 ロレンツォ・ディエゴ
オズバルド・スベルディアの元から逃げ出して空を見上げていたら、恨みは少しずつ薄れて行った。シェイラの死は想像以上に俺の活力を奪っていった。何を感じるでもなく人の居ない山奥に潜んでいた。腹が減る訳でも眠気が来る訳でもなく、空を眺めてどれくらいの時が過ぎたのだろうか。一人の女性が俺を訪ねてきた。
彼女が近づいてくるのは何となくわかった。誰かが近づいてきていると。もしかしたらオズバルドが殺すために追って来たのだろうかと考えなくもなかったが、近づいて来た女性の存在圧からは心地いい何かが胸を通り抜けて悪い気はしなかった。
「……こんにちは。隣いいですか?」
彼女には敵意を感じなかったので無言で頷いた。お礼を言うと彼女は隣に腰を下ろし一緒に空を眺める。俺は彼女に興味を抱かなかった。それすらどうでも良くなるくらいシェイラの死が心に突き刺さって感情が湧きあがって来ないのだ。湧水を塞き止めてしまい感情と言う水が出てこない。
黙って空を見続けているが彼女の方からも声を掛けることはせず時は流れた。
自分の身体が風化してこのまま土に帰るのではないだろうかと本気で思うくらいには地面にへばりついていた。
「くしゅん」
可愛らしい声に隣を向くと彼女は身体を擦っている。寒いのかと聞くと、そうでもないよと答えたのでまたしばらく無視をしていたが、またくしゃみをしたのでさすがにコートを掛けてやった。どこから持って来たかも分からない俺のコートだが無いよりはマシだろう。ありがとう、と礼を言われたが無視を決め込んでまた空を見上げた。
「また…コートを掛けてもらっちゃいましたね。」
「何の話だ。俺とアンタは初対面だろ?」
「まあそうでもあるし、そうでもないとも言えますね。」
「?」
彼女の言葉を理解できずに地面と同化を続けると彼女はぽつりぽつりと言葉を漏らす。
「貴方が大学で騒動を起こしてからもう五年が経ちます。その間、美術室に置いてあった絵は評価を受けてロレンツォ・ディエゴの作品として世に出たんですけど。どうしてですかね…私には貴方がロレンツォ・ディエゴだとしか思えないんですよ。まあだからって訳じゃないですけど探したんです…あの日大学の食堂で生徒たちを威嚇した人外を。ここまで言っても私の事思い出しませんか?」
「何のことかわからないな。」
「もう、ちゃんと私の顔を見てください。」
ずいっと俺の顔に自分の顔を近づけてくる彼女に少し苛立ちを覚え手で頬を押しやった。
「いたいれす」
「俺には目が無いんだ。悪いけどアンタの顔を見ることは出来ない。もうほっといてくれよ。それとも俺に過去の償いでもしろってか?」
感情を塞き止めていた柵の土をゆっくりと掘り起こされる。
「いいえ。でも私の事を思い出して欲しかった。じゃああの時の質問をもう一回するね。」
彼女は笑顔で俺の正面に居座った。
「貴方は何者ですか?ロレンツォ・ディエゴ様。」
ビキッと思考回路が動いてあの日のことがフラッシュバックする。大学の学食で一人逃げ遅れた女性に俺はコートを掛けてやった。あの日、俺はロレンツォ・ディエゴから『夕暮れ詩人』へと昇華した。
「アンタは…あの時の…」
彼女は自分の胸に手を当て嬉しそうに微笑んだ。
「私の名前はイネス・シャルトー。貴方と同じネクストフェイズのNOTと呼ばれる存在よ。ここ五年で化け物に食われちゃったけど人間の自我が強く残ってるの。」
彼女のことは覚えている。逃げ惑う人の中でただ一人俺に声を掛けてきた普通ではない女性。何か引き込まれるものが彼女にはあった。
「…それで俺に何か用事だったのか?」
「…懐かしい気配を感じたから来てみたの。まさか貴方だったとは思わなかった。世界が変わったあの日の立役者がまさかこんな山奥に居るなんて思わないじゃない?…まさか貴方に話すことになるとは思わなかったけど、NOTになった私はこれから『十三委員会』って場所に行こうと思うの。」
聞き慣れない機関名に彼女を見ると少し困った顔のまま俺に唇を重ねてきた。何が起きたのか自分の中に流れる自分のものではない記憶を見せられた。そこに映されたのは幼い頃のイネス・シャルトーともう一人の女の子。良く顔が似ていて姉妹であろうことは容易に想像できた。楽しそうに家先の庭で遊ぶ二人。そこに訪れた一人の来訪者。
(お父さん…!)
イネスともう一人の子が抱きつきに行くと頭を撫でて家へと入っていく。家の中にはお母さんが待っていて他愛もない会話が笑顔を生む。
彼女は映像を最後まで見せなかった。遮るように唇が離れると彼女は立ち上がった。
「…もう行かなくちゃ…。貴方に逢えたことで覚悟が鈍っちゃうし…多くは語れないけど。虫のいいお願いをしに来たの…」
彼女は映像で見せなかった続きを語り出す。
「私たちのお父さんは公務員でね。真面目に仕事をしていたらしいんだけど、ある日突然お母さんを殺したの。鬱憤が溜まってそれで喧嘩になって殴ったんだって…打ち所が悪くてお母さんは亡くなったわ。以来父は酷く悔やんでお母さんの墓に毎日誤りに行ってた。父とはもう疎遠になってね。一緒に住んでたけど会話もしてなかったわ。そんなこともあって学校では私たち退け者にされててね。辛い時期だった。でもね、成績は良くて私もお姉も大学に進学できた。援助してくれる制度もあったしね。私は進学して直ぐに貴方に出会ったのだけど、どこか懐かしさを感じたの。」
俺に懐かしさ?その時が初対面のはずだが。
「貴方が父にそっくりだったのよ。立ち姿がね。瓜二つだった。確かに見た目も何も似ているところは無いけど聞いたじゃない私…何者ですかって。貴方を知れば父の事を知れる気がしたの。でも貴方は何者でもないって飛んで行った。私は折角訪れた父と和解できるチャンスを逃すまいと家に着くなり父の書斎に乗り込んだ。」
そもそもそれが間違いだったと彼女は続けた。日も落ちかけた山奥では夕日が綺麗なオレンジ色に染まっている。彼女が震えているのは気温が低く寒いからか、それともお父さんとのことを思い出してなのかは分からない。白い息が彼女の赤い頬を掠めて空へ消える。空には一番星が輝き、それを見たイネスは手を組んで祈っている。
「何してる?」
「願い事。」
「流れ星にするもんじゃないのか?」
「あ…いいのよ!どうせ今生の別れだろうし!」
何となく彼女の覚悟が伝わって来た。十三委員会というのは俺たちみたいな悪魔を打倒する組織なのだろう。そこへ赴くのが戦うためか、協力するためかは定かではないが、そこに骨を埋める気でいる。
「もう…何となく分かっているでしょうけど。書斎に乗り込んだ私は父と和解したの。父から全てを聞いたわ。自分の中に居る『何か』について。父は私に『何か』の記憶と今まで自分の身体で実験してきたことをまとめたノートを手渡してくれた。そして全てを受け継いだ。父の失踪はちょっとしたニュースになったけど当事者の私は感情的になれなかった。事実を知るのは私だけ…お姉にも話せない秘密を抱えて生きるのは辛かった。バレてたみたいだけどね。十三委員会の存在を知るまで私は私の中のATRICHORNISと戦っていたの。でもそろそろ限界。もう私の中のアレを抑えておけない。…貴方に頼みたいことはね。私の姉、コレット・シャルトーを守って欲しいの。世界の柵や力から…自由で居て欲しいの…」
俺はそれを聞くと立ち上がる。随分長い間同化していた土を名残惜しむこともせずに立ち上ると彼女の手を引いて存在圧の感じる方へ歩き出す。
「ちょっと…?」
戸惑い足を縺れさせながらついて来る。
「どうせ十三委員会には連絡しているんだろ?なら今から俺がどうこう言ったって何も変わらないだろうが…言わせてほしい。イネス…お前は生きろ。」
彼女の動きが止まる。引いていて俺の手が逆に引っ張られるほどに強く、俺を引き止めた。夕日を背景にした彼女は綺麗な顔が台無しになるほど歪んでいた。
「ホントは……いぎたい…生きたいよぉ…」
彼女の涙は胸を熱くさせた。何でそこまで背負っている。どうして女はこうも強いんだろう。せめて彼女の覚悟を無駄にさせないように出来ることをしよう。
「死にたぐない…。お姉と生ぎたい…」
彼女の身体を抱きしめると暖かさが伝わってくる。胸に顔を埋めてくる彼女は嗚咽を漏らしながら散々弱音を吐いた。
「ロレンツォ様」
顔を上げるとイネスは俺のコートに顔を隠した。襟で見えなくなった顔が再び覗くと可愛い笑顔を見せてくれた。
「このコート貰ってもいいですか?」
「ああ。」
「コートがあれば貴方の存在を感じられる。温もりを思い出せる。私は多分長くないでしょうが、ロレンツォ様はどうか末永く生きて下さい。そしてお姉をよろしくお願いします。」
彼女を十三委員会の待ち合わせ場所まで送っていきたかったがそうすると俺まで補足されかねない。山奥で俺を見つけたのは本当に偶然だったと言っていた。
会えた偶然を「必然でも奇跡」と言っていた。
そんな奇跡を噛みしめて、世界の流れは変わっていく。




