祈る絵画編 第二章 第二幕 接触
傍観者 ロレンツォ・ディエゴ
明くる日の朝。その朝日は自分にとって新しい風を舞い込むことになった。絵のイメージが湧いてきたのである。劇的な閃きだったと後になっても思う。真っ白のキャンバスに淡い青や若芽を感じる緑など色とりどりの線が引かれていく。キャンバスの白が見えなくなった辺りで俺は彼女が居ないことに気が付いた。昨日は二人で買い物に行った後にそのままこの部屋へと帰って来た。彼女も昨日はここに泊まって行ったはず、彼女の鞄が空いている机の上に置いてあることから帰ったとは考えにくい。
「シェイラ…?」
俺は一度作業を止めて部屋を見渡す。勿論、そんな程度で見つかるはずもなく部屋を出ると綺麗に封をされた手紙が壁に貼り付けてあった。朝の大学にはまだ人が来ていない。この手紙は俺に当てたものだろうと、不安が過ぎりながらも開けて見る。
ロレンツォ・ディエゴ様
貴方の彼女は我が社が預かりました。心配には及びません。貴方様の近況を聞く意味での任意同行ですので悪しからず。
スベルディア社 代表取締役 オズバルド・スベルディア
追記 最近巷では通り魔が出ているそうですのでどうかお気をつけください。
「…フザけたことしてくれんじゃねぇか。オズバルド・スベルディア。待てないからシェイラを攫って脅しか?クソっ……」
巷で通り魔なんて聞いたこと無い。確かに世間には疎いが、ニュースをチェックしていない訳ではない。現に巷で通り魔事件なんて起きていない。嘘を付くにしてももっとマシな嘘を付くべきだし、証拠を残さないように攫うべきだ。何か妙だ、と推理思考に入って行く。決して推理が得意な方ではないのだが、これではロクに絵描きも出来ない。俺は絵描きで食っていこうと思っているが、彼女を捨ててまでその道を極めようとは思わない。煮え切らないと言ってもらっても構わない。そこまでストイックに熱くなれないのだ。
一先ず文句の一つでも行ってやるついでにシェイラの顔を見なくては安全かどうかも解らない。任意同行なんて嘘っぱちだ。強制連行で何をやられているか知れたことではない。シェイラに何かしやがったら俺が利用できるすべてを利用して地獄に叩き落してやる。オズバルド・スベルディア。
「…確か街にスベルディア社の施設があったはずだ…」
ゴミ箱に捨てるのも煩わしく思い手紙を破り投げ、廊下を進むと窓から見える外の景色が暗雲に満ちていた。まだ午前七時を回ったばかり、陽が差して外は明るくなる時間だ。
しかし、外は文字通りに真っ黒だった。
全てが影で出来ているみたいに、命の息吹も感じず、無機質に光を感じない。白い空には雲一つなく、建物も森の木々も全てが黒い。一瞬の変化に俺は元来た廊下を振り返るとそちらも外と同じく真っ黒。世界が停止した、何かが終わってしまったと直感した。黒白の世界に俺は取り残されたのだ。
「…何なんだ…ここは…」
俺は大学に居た。大学の美術室で自分の作品を描いていたはずだ。どこへも移動していない。こんなサイエンスフィクションがあってたまるか。俺はシェイラを救いに行くんだ。
光の無い廊下を走り抜け、一階のロビーへと足を踏み入れると、やはりそこには誰も居ない。宿直の先生も朝登校して来るはずの生徒の姿も一切見えない。世界が可笑しくなったのか、俺が可笑しくなったのか。考えると後者のような気もするが、これは夢ではない。夢の中で夢だと知覚できることは稀だと聞く。どうしようもない現実だ。外に飛び出して見ても状況は変わらない。別棟も軽く歩いて調べたが、それでも誰も居なかった。そしてもう一度一階ロビーに着くと何かの異音が聞こえた。
「…ザ……ザザ……困惑…しているね…」
放送するため館内に設置されたスピーカーから男性の声とも女性の声とも取れる中性的な声音が語りかけてきた。
「……誰だ。俺にこんなことしやがって。お前もオズバルド・スベルディアの仲間か!ああ?」
声の主は放送室に居るはずだ。会話なんて出来るはずがないし、奴が何を考えて俺をここに縛り付けておくのかも分からない。シェイラを人質に取られ、可笑しな世界へ縛りつけられた俺にははっきり言って余裕がなかった。眼に見える全員を敵だと思い込み、考えることを怠っていた。
「……私は『夕暮れ詩人』アナタ方人間様とは存在を異する者。ロレンツォ・ディエゴ貴方は選ばれた。私と一緒に世界を変えないか?」
「世界を変える?フザけんな。俺は今、目の前のことで手いっぱいだ。お前の期待には添えんな!っつうことでさっさとここから出しやがれ!『夕暮れ詩人』とやら!俺はシェイラを助けに行かねぇといけねぇんだ!一刻も早く解放してくれ!」
暗闇に包まれた不安を断ち切るように怒りを露わにした声で相手を威嚇する。しかし、その声も届くはずがない。ロレンツォ自身スピーカーに怒鳴り散らしているのだ。放送室に居る『夕暮れ詩人』には聞こえるはずもない。スピーカーからは案の定、返答は無い。しかし、俺の憤りは止まらない。画家と言う運動能力とは無縁の道を歩き始めていたロレンツォは一般成人男性よりも基本的な筋力が衰えているが、大事な人であるシェイラを人質に取られ、白黒の世界へと飛ばされていることが要因となり、自我の崩壊を起こすほどに取り乱していた。つまり、どう行動したのかと言うと、天井に取り付けられたスピーカーを跳躍で引き剥がし、上段蹴りで粉砕したのだ。
「……く…せっ……ろう…」
スピーカーから聞こえていた音は雑音を帯びながら消え、辺りを不気味な静寂に彩る。息を整えながら、自分の行動に驚くと冷静さを取り戻した。
「………何言ってるかわかんねぇよ。直接言いに来い。」
転がるスピーカーに見て腹いせに呟いた一言の返答は意外にも近くから発せられた。
「まったくせっかちな野郎だな。と言ったんですよロレンツォ・ディエゴ。」
真後ろから聞こえた声に俺は振り返ることが出来ない。単に驚きもあるが、それよりも恐怖にも似た悍ましい気配が背中にねっとりと塗られて指一本動かすことも躊躇われた。声の主は先ほどスピーカーから聞こえていた声と同一、やっとの思いで動かした口から発せられたのは弱々しい声だった。
「………何が…目的なんだ…?」
「言ったろう?ロレンツォ。貴方は選ばれた。私と世界を変えないか?」
選ばれた?
「…いったい誰に選ばれたんだ?」
「選んだのは私の母にして第二の柱ヘラ。…そろそろ本題に入りたいのですが、こちらを向いたらどうですか?」
恐怖に打ち勝てた訳ではない、寧ろ飲み込まれ、言葉に従うしかなかった。ゆっくりとぎこちなく振り返ると、今まで見えなかった声の主と対面する。目深にフードを被った男だった。見た目だけで判断するならば、筋骨隆々と言った外見ではなく、一般的な大学生よりもやや小さい華奢な体つきだ。もしかしたらロレンツォが本気でかかれば抑え込めるのではないかと思ってしまった。体格だけで言うならばロレンツォが勝っているだろうが、彼『夕暮れ詩人』から滲み出る何かは、瘴気にも似た毒気を放っていそうだ。とても近づきたいとは思えない。
「どうか…しましたか?」
単語一つ一つが自分の身体をざわつかせる。気を逆撫で、恐怖を煽る。自分は殴りかかることで考えることを放棄し、誰かに助けを求めていた。自分以外誰も居やしないこの黒白の世界で俺は一人、現実を求めていた。
「……何なんだよ!お前は!俺がいったい何をしたってんだ!何か悪いことしたのかよ!ずっとずっと…絵を描いて来ただけなのに!何で!俺は大事な彼女を奪われないといけない!大事な俺の居場所を奪われなきゃならない!どうしてだ!このフード野郎!」
賽は投げられた。
殴りかかったロレンツォ・ディエゴの行動は『夕暮れ詩人』の期待していたことでもあった。動けば隙だらけ。
「…ロレンツォ・ディエゴ…Yesということでよろしいな?」
フードから覗いた『夕暮れ詩人』の眼はイエローオーカー色に怪しく光っていた。
何が起きたのかは理解できなかった。
ただ…目の前に暗い闇が広がり俺を包んだ。少しずつそれでも急激に身体の組織が削られ、溶けていく感覚に襲われた。自分がどうなっているのか、どうなってしまうのかも理解できず目の前の光景だけが脳裏に焼き付いた。
近づいてくる真っ黒な地面に倒れ込む前に、ロレンツォ・ディエゴの意識は消え去った。




