祈る絵画編 第一章 第一幕 絵描きの二人
傍観者 ロレンツォ・ディエゴ
昼食用に持ってきたパンがいつの間にか蟻の餌になっていた。
そんなこと日常茶飯事で、またか、と呟く俺が居る。白い壁紙で覆われた異質とも表現できる部屋には、画材や描きかけの絵画、今までの作品が散らばっている。およそテニスコート一面分はだろう部屋も、今やゴミ置き場と言われても反論できない散乱具合だ。自分の世界から我に返ると眠気と空腹感が身体を支配して、動くことすら面倒に思えてくる。
「ロディ?」
部屋の外から女性の声が聞こえる。この声は年下の同期、シェイラだ。姿を確認できず、声を上げるのも面倒だ。このまま眠りに着こうとウトウトし始めると、強烈な衝撃と共に椅子から放り出された。
「ロディ!居るなら返事してよ!只でさえ汚くて見つけ辛いんだから!それと部屋に籠ってから三日経つのよ!連絡くらい寄越しなさい!」
彼女からの剣幕も作品を額縁の外から見ている感覚で何一つ心に響かない。それよりも眠いんだから起こさないでくれよ。
「ちょっとロディ?聞いてるの?」
「腹…」
彼女の顔を見て安心したのか俺の意識は彼方へと飛んでいく。
「腹?」
「腹減った…」
彼女の叫び声が響いて体を揺すってくる。意識が薄くてよく聞き取れなかったが、アンタ三日前の昼食食べてないの?とか叫んでいた気がした。まさか、そんな訳がないだろう。幾らなんでも三日も食べないと空腹で倒れるよ。
「面目ない…」
シェイラにエネルギー補給用の飲料水を飲まされて正気を取り戻した俺は、真面目に自分が二日半も断食していたことに気付く。栄養失調や水分不足が懸念されるが、彼女はこれ以上世話を焼く気はないらしい。部屋に置かれている描きかけの作品を片っ端から品定めしているように眺めると、再び俺の元へやってくる。
「それで今回はどれを出すの?」
「…まだ考え中。いい作品が出来ないんだ。」
ロレンツォ・ディエゴ 二十二歳 画家。十代の頃から画家としての才能が開花し始め、今では描いた絵を高値で買い取ってくれる常連さんも居るくらいだ。今のところ食べるには困らない生活をしているが、いつどんな転機が来るかも分からないご時世。今回はある会社の社長から廊下等に飾る絵が欲しいと直々に依頼があったので、取り組んでいるのだが中々上手くいかないのが現状だ。
「いつまでもそんな事言ってると社長さんに怒られるよ。才能だけでやってるロディさん。たまには私にもチャンスを下さいよ。」
「何言ってる。お前の方が売れてるだろうが。それに俺とはジャンルが違うだろ?イラストレーターだっけか?何でお前はうちの愛好会に入ったんだよ。」
「この大学のサークルでイラストに関係するのがここしかなかったの!いいでしょう別に邪魔してる訳じゃないし、寧ろ世話焼いて上げてんだから少しは感謝なさい!」
大学のデザイン学科に所属している俺とシェイラであるが、俺は単位が取れなくて一年ダブってしまった二度目の大学三年生。一個下の彼女は同期になった途端、馴れ馴れしくなってきた。先輩後輩の壁がなくなったからだろうか。
「…助かってるのは事実だが、そう言われると腹立つな。」
「私は間違ったこと言ってませんよ。」
正論を言うから反論しにくい。男勝りな部分がある彼女は女子だけのサークルでは浮いてしまうのだろう。可愛いイラストも今では立派な美術だ。趣味があったこともあるだろうが、ここはとやかく言う奴も居ないし彼女なりに過ごし易い場なのだろう。
「と言うか、彼氏に対して手厳しくないか?シェイラ」
「…名前呼ぶなよ。恥ずかしい…。」
少しは、ここに彼氏が居るからと言うのも在るのかも知れない。顔を背ける彼女を意に介さずここ三日間のニュースを見るべく部屋に置いてあるパソコンを探す。部屋は明るいというのにまるで暗中模索。ここにあるはずだという場所を掘り起こすと、埃を舞い上げて探し物が顔を出す。
「あった…」
最新ニュース一覧を流し読みしていると、先ほどまで描いていた絵を凝視している彼女が疑問を口にする。
「なんていう会社の人なの?」
「スベルディア社って言ってた。それの若社長。前社長の息子で俺らとそう変わらない年齢らしいけど、先天的なカリスマ性があったのか、会社を相続した後、会社の規模が二倍に膨れ上がったらしい。……医療薬の会社だってよ。」
スベルディア社をパソコンで調べると会社のホームページへ飛ぶ。かなり大きめの会社らしく、画家の絵を趣味で飾る余裕もあるのだろう。
「会社経営をしていると金持ちなんだろうなぁ…」
「うらやましいの?」
「そりゃあね。俺は怠け者だからあまり働きなくないし、働かなくて済むのなら一生寝て暮らしてもいい。そんな男だ。」
「ダラしない彼氏を持ったものだわ…」
頭を抱えるシェイラを見ていると本当に申し訳ないと思う。付き合い始めてから早5年。美大付属高校からの古い仲で大体はお互いのことをわかっている。画家やイラストレーターは絵を売って生計を立てているため、彼女だって将来は不安なのだ。ましてや将来を考えると貯金も少ない今の状態では心許ない。
たまにはしっかりしないとな。と思い転がり込んできた報酬高めの仕事。勿論、目先の金に目が眩んだわけではない。会社の実績を考え、ここで一点でも自分の作品を買って飾って貰えるならば、そこからスベルディア社の同業者に需要が出てくる可能性もあるのだ。それらも加味した上で、スベルディア社は真面目な会社で大きい不祥事等も起こしていない安心感のある会社という事だったので、今回の依頼を受けた。
オズバルド・スベルディア。
スベルディア社の若社長に初めて会ったときは衝撃を受けた。俺は元々スポーツすらやらない文学男子だったため、思ったよりも身長が低い。しかし、彼は俺よりも身長が低いのだ。身長は一五〇そこそこだろう。子供にしか見えないスベルディア氏だが、話し始めると見かけを釣りに使ったいい性格をしていた。
(ロレンツォさん。私は貴方の絵を見て感動しました。貴方の代表作とも名高い『夕暮れ詩人』は感慨深いものがありましたよ。しかし、私は絵画に関して素人もいいところでしてね。出来れば貴方の作品を買いたいのですが、どう値段交渉をしたものか…)
素人のフリをしたスベルディア氏を見抜くのは簡単だった。俺の『夕暮れ詩人』を知っている人は限られている。その作品は小さな展示会で飾ったのもで、飾ってから二時間で売れてしまったのだ。売った相手はそれでこそ趣味で絵を集めている一般人。本来ならばスベルディア氏がその作品を知っていることはないだろう。つまり、その展示会の管理者側にスベルディア氏の関係者が居る可能性が色濃くある。かなりの権力者かやり手だ。彼は確かに絵画に関しては素人かもしれないが、商品の売買に関しては完全に玄人だ。値段交渉も何も、額を提示しないとこちらが掠め取られると判断し、提示された金額の倍を要求した。呑まれる前に勝負を決めたとはいえ、彼の手の平で遊ばれていたのではないかという気持ち悪さは拭えない。
(いいでしょう。では素晴らしい絵を期待していますよ。)
別れ際の笑顔に死の旋律を聞いた気がしたのは、錯覚ではない。スベルディア氏は俺を、俺の絵を何かしらに利用しようとしている。確かに売られた後の絵については知ったことじゃないが、それでも悪用されるのだけは避けたい。
そんな邪念が、三日前から頭を悩ませていたのだ。筆が進まず、自分の世界に入るもいいビジョンが浮かばない。何もかもあの旋律を聞いてしまったからだ。寝不足もそのためだと思いたい。
「すまんな。だらしない彼氏で…。」
「本当に悪いと思っているなら私より稼いでよね!」
ホント頭が上がらない程しっかりものの彼女だ。
その日は一週間振りに外へ出かけた。どうして出かけたのかと言うとシェイラに荷物持ちを頼まれたからだ。特別な許可を得て大学の一室を間借りし売店が近くにあるとはいえ、食べ物は街に行って調達した方が格安だ。ましてや大学に通いながらの画家活動だ。バイトをしている暇はないし、食費も出来るだけ切り詰めておきたいのは貧乏性だろうか。
「今日は私も泊まっていくから。美術室でパソコン借りるね。」
「…勝手にどうぞ。だったら代金変わりに少し片付けてくれると…」
「私が使うところだけね。」
反論を許さない彼女の態度に俺はこれ以上切り込めない。シェイラ・ブラナは陽気なご様子で商店街を先に歩く。一房にまとめられた髪を揺らしながら無邪気に露店を指さす。あの店に入ろうと言うのか、とそちらに目を向けると露店では果物を売っていた。
「上手そうな林檎だ。いくつか買おうか。」
「そうじゃない。奥見ろよ。奥。」
彼女の指差した先を見ると一枚の絵画が飾ってある。一本の大樹をモチーフにした街の絵、見間違えることは無い。あれは俺の作品だ。しかし、彼女はこの雑踏の中から俺の作品を良く見つけたものだ。
「…あの絵も好きだったからね。売られた時はショックだったんだよ。この露店の人のらしいけど、あれいくらで売ったの?金持ってるようには見えないけど。」
「そんな高い値段を付けた覚えはないな。誰に売ったかなんて個展の主催者しか知らないでしょ。そんなことより林檎買おうか。」
「うん。そうね。…でも大事にしてくれてそうじゃない?ちょっと見え辛い場所にあるけど、ちゃんと額に入ってて焼けない場所に置いてある。作品を気に入ってくれてる証拠ね。良かったじゃない?」
シェイラの屈託のない笑顔にまた今日も救われた気分だ。




