蛾の誕生編 第四話 第三幕 見えない涙
傍観者 古川楔
「古川君に気を付けてって伝えておいてってさ。楔」
携帯端末を弄りながらアヤカはいつも通りのテンションで俺の腕に絡まってくる。登校中や下校中限定で恋人っぷりを発揮している俺たちだが、今日の話題はいつもより暗い。練習試合が終わってから一週間が経ち、インハイ予選も間近に迫っているのだが、練習試合後、正確には無人公園で溝口と四人でバスケをした後から島崎が学校へ来ていない。見兼ねたアヤカが理事長へ連絡し、担任を通して島崎に連絡を試みると今日から練習に来るとのこと。詳しい事情は知らないが、風邪と言ったらしい。高校最後の試合を前にダラけ過ぎだ。その節の心配で理事長・香子さんがアヤカにメールをくれたのだそうで。
「俺は大丈夫だよ。バスケ部では一番丈夫だからさ。」
河川敷を歩く俺とアヤカの他には誰も居ない。時間がバスケ部の朝練前だから朝六時を回った辺りだ。アヤカは誰もいないこのシチュエーションをいいことにイチャついて来る。
「楔。今日はお弁当作って来たから一緒に食べようね。」
「そだな。」
今日は土曜日。学校は休みだが、休日練習で学校の体育館を借りている。一週間休んだ島崎が訛っていないことを祈りつつも校舎とは別棟の体育館へ着く。時刻は六時半、朝練は七時からなので三十分は早いが鍵当番なので仕方ない。鍵を開け、誰もいない体育館に入ると世界が終ってしまったのではないかという錯覚に陥る。静寂に包まれる空間に自分一人でいると淋しさが募る。だが俺は一人じゃない。
アヤカが重そうにウォータージャグを持って来て、出しておいた長机に置いた。ふぅ、と一仕事終えたマネージャーは運動する訳でもないのに体を動かして気合を入れ直している。
彼女が居れば、俺は一人じゃない。
七時前になると徐々にメンバーが集まり始め七時ちょうどには溝口を抜いたバスケ部全員が集まった。練習前に円陣を組むと島崎が声を上げる。
「陽正ぇファイ!」「「オゥ!」」
野太い声と共に通常通りの練習メニューが始まった。部員それぞれがインハイ予選に向けて意識を高めているのか声がよく出ている。島崎も一見いつも通りでインハイ予選前の活気が蘇る。そんな中、島崎は俺とところまで来て囁く。
「…溝口は先に行ったよ。俺らも後を追わないとな。」
何の脈絡もない発言に言葉が詰まった俺は聞き返した。
「どこに言ったんだよ?」
彼から返って来たのは意外そうな表情。続けられた言葉は真面目なトーンだった。
「どこって…次の段階に決まっているだろ?」
島崎から感じていたズレは俺との間に深い谷を刻んだ。しかし、俺は諦めなかった。
「島崎!」
練習に戻ろうとしていた島崎を強引に止めると、きょとんとした顔がこちらを向く。
「今日の夜1on1やろう…ここで。」
陽正高校体育館。俺たちはここで溝口と出逢い夢を語った。強豪高校相手に圧勝した。全校生徒からの祝福を受けてインハイの壮行式を行った。何かの節目には必ずここが絡んでいた。無人公園ではなく、ここならば島崎の心に響くかもしれない。
何かがズレてしまった島崎の心に。
「分かった。」
笑顔で練習に戻る島崎の後ろ姿を見て俺は思う。
もう、歯車はズレてしまった。歯が欠けて回らなくなった欠陥品。
「…俺たちはいつから名前で呼ばなくなったんだ?…真二。」
二度と戻らない二人の関係は乾燥した空気によく似ていた。
静まり返った体育館には二人以外には誰も居なかった。照明は付いておらず、俺は照明を付ける理由を探すように体育館中を見回す。島崎の顔を見て何を話しかけたらいいのか解らず、ただ待っていた。
「見えるか?」
島崎は久しぶりとも思える言葉を口にしてこちらを向いた。
「問題ないな。視力は両目5.0だ」
「俺もだ」
ハーフラインに立つ島崎の手にはバスケットボールがあり、試合開始を今か今かと待つように燻っている。無言で俺はその前に立つとディフェンスの構えをしてボールに集中した。何も語らなくても解るものがあるのかも知れないが、お前の心は解らない。何を考えているのか、迷っているのか…
解らねぇよ島崎。
ボールが島崎の腕に合わせて上下に動き、時間が動き出す。思考に飛んでいた頭を現実に引き戻すと指先、足先まで運動神経を尖らせる。即座に反応できるようにボールと島崎の体にだけ集中する。余計なことは考えない。島崎は呼吸を整えると目つきが変わり、低姿勢になった。正面から抜くらしい。フェイントをかける前にボールを弾けばこちらの勝ちだ。俺は正面からドリブルしてくる島崎にこちらから近づいた。
「さすが…だな」
島崎は俺の行動を察して抜けないと判断すると高速ドライブをいきなり切り替えし一八〇度後方にバックステップした。
「…⁉」
それにはさすがに追いつけない。しかし俺が驚いたのはそこからボールだけが更に後方へと投げ出されていたことだった。こんなのボールがそのままコート外に出て終わりじゃないか…
「油断…したな?」
ボールに一瞬気を取られると島崎は俺の脇をすり抜けてゴール下へ走り込んでいる。まさかと思いボールを凝視するとバックスピンが掛っていたしかも尋常じゃない回転数だ。ボールが地面に着くとギャシュッというゴムと床が擦れる音がして俺の遥か上を飛び、島崎の右手に収まるとそのままゴールへと吸い込まれた。
「島崎…お前はどこまで進化する気だ?」
「決まっている…嘗て誰も到達したことのない高みまでだ」
島崎の眼は色が変わっていた。
攻守変わって俺の攻撃。ここで外すと負けは確定。化け物染みた異形の強さを持つ今の島崎に俺が敵う筈もないが、この勝負に負けると何かが終わってしまいそうだ。今日の練習試合での圧倒的な強さを見たチームメイトは島崎に恐怖を抱いて、俺の彼女である色芳彩香も何があったかまでは知らないが心の傷を負っている。彼の存在を懸念し注意すべきだと警告している。
島崎は人間の顔を被った化け物じゃないのか?
無機質に俺の中で響く声はそれが真実だと語っている。だが、島崎は化け物じゃない。俺は小さいころから一緒に練習し、お互い技を磨きプロになろうと誓い合った親友だ。そんな訳がない。
「…お前は人間だよな?」
暗い体育館には小さい声でも十分に響く。他のメンバーが何て言おうと世界の人間が何て言おうと俺だけは島崎を化け物何て呼ばなかった。住む次元が違う住人だとも言わなかった。でも、彼の反応を見たかった。彼が本当は何者なのかを知りたかった。島崎は質問の意図が分かったかのように体育館の天井を向く。見えなかったが天井の上にある夜空の星を見るように彼の眼は遠くを見つめていた。
「古川…お前もそう言うのか?俺を化け物って…」
激昂して暴れ出すかとも思ったが、彼は至って冷静になっているように見えた。異質なのは彼の眼だけ。俺はハーフラインからドリブルを始め、ゴールを目指す。島崎はダランと両手をぶら下げこちらの様子を覗っている。
「島崎…例えお前が化け物でも何でも構わね。けどよ、お前は俺に1on1で勝った記憶があるのか?」
「!」
空気が張り詰めるほどの気迫が島崎から伝わってきた。アヤカが言っていた島崎先輩が病欠で一週間休んだ後の能力値が飛躍的に伸びていたと。だが、成長していたのは溝口だけじゃなかった。島崎の覚醒も始まっていた。溝口との1on1もマグレではなく、単純に実力差が出たのだ。その時以来、俺は島崎に勝っていない。しかし、負けてもいない。
「確かにお前はアヤカの練習メニューで飛躍的に成長した。けど、以来俺と本気の1on1を避けるようになったのは理由があるのか?一度も勝てなかった俺に勝ってしまうのが恐ろしかったのか?」
「………」
島崎は無言のままこちらを睨みつける。彼の異彩を放つ眼光の鋭さを増し、自分の背後が底の見えない崖になってしまったかのような錯覚を覚えた。不安から汗が吹き出し足が強張る。
「…どうしたよ。…急に黙って?何か気に障ったか?それとも図星で動けないでいるのか?そんな気の抜けた守備で俺を止められると思っているのか?」
俺は思っていることを口にする。根拠のない事実ということではないし、偶然が重なったから生じた実力の伴わない歪みなのかもしれない。しかし、ここは強く出ておかないといけない気がした。混乱することもなく、無駄な動作を極限まで省いた彼の体から発せられている見えない闘気に俺は少なからず怯えていたのだ。軽口を叩いていないとやってられない。ドリブルを続けながら島崎との距離を少しずつ詰めて行く。
「………五月蠅いぞ…古川…」
ゆっくりと島崎は動いた。流れるような美しく円滑な動きで反応が遅れた。島崎の右の指先があと数センチでボールに触れるというところで俺は反応した。取られかけているということを漸く反応できた。
「…ッ!」
ゆっくりとした動きが幸いして左でドリブルしていたボールを背面に回し右にサイドチェンジするが、待っていましたと言わんばかりに島崎の左手がボールを捉えようとしていた。二人の距離は三十センチもあるだろうか俺に抱きつくような形で島崎は密着した守備をしている。 取られたら終わってしまう。どういう意図で彼が望んだ1on1なのかは解らない。俺なんか余裕で倒せるだろうと予想できる。
このまま終わっていい筈がない、こんな結果を俺も彼も望まない。
俺は強引に体を捩じった。ボールを庇うように右手を後ろに引っ張る。床とゴムが擦れる音が響き、さらに体を回転させて島崎と対面していた角度から右に二七〇度捩じると、足が縺れ倒れ込みそうにもなるが、島崎の守備から何とか脱出できた。しかし視界の右には常に島崎の右手が映り込んでいる。ボールを取らないまでもぴったりとつけて追ってきている。それもそうだ。彼はスター選手へと成り上がったのだ。化け物なんかじゃない…島崎はバスケットボールの境地へと到達したのだ。俺は全力で答えなくてはならない。
島崎真二。彼に弱点はない。強靭な肉体と神速とも言える反応速度。動きも早く、ボール捌きも技巧派と言っていい。バスケットセンスも人並み外れている。
「……!」
そんな島崎の予想をも上回る動きをして見せる。
「……悪いな島崎…」
傍観者 島崎真二
古川にスター選手とまで思われていた俺に今の古川の動きが見えなかった。単に俺がスター選手ほどの実力を持っていなかったという話ではない。客観的に見てだが俺は間違いなく現時点でプロでも一流に属するバスケットボウラーであるが、体育館の床に反射した月の光に目が眩み一瞬行動を停止させてしまったのだ。一瞬の間に古川は体勢を反転させて一気にゴール前へと駆け上がりレイアップを決めようとしていた。
古川…お前は俺を愚弄するのか?実力ではなく運で勝とうとしているのか?小さいころから同じ夢を見ていた俺とお前の戦いは正真正銘の実力をぶつけ合う男の勝負じゃなかったのか?
怒りが、失望が、体を包む。古川は既にシュートモーションに入っていて、二人の距離は二メートルも開いている。普通ならばまず間に合わないが、俺は跳躍した。自分の桁外れの力を信じ。
「…負けるかっ!お前にだけは…!」
「…!」
跳躍は間に合う筈のない間合いを詰め、古川の視界に右手が侵入した。しかし、俺の眼に映った古川の次の行動は予想を超えた。古川はレイアップのシュートモーションに入りながらもボールを手から放そうとしなかったのだ。
「…ダブルクラッチ…」
ゴールの左から右に抜けると後ろ向きながら放たれたシュートは静かにネットを揺らした。これで勝負は振り出しに戻る。
一矢報いて古川は顔から滴る汗を拭き、俺の方に振り返ると気を引き締めた。まだ振り出しに戻っただけで勝ったわけじゃない。今は姑息な手を使ったがもうそんな余裕もないだろう。一瞬の攻防に体力を使って息を荒げている古川と違い、俺は落ち着いたものだった。落ち着きすぎているとも取れたが、目線は未だ揺れ動くゴールネットに向けられていた。
「島崎…まだこれからだろう?俺たちの戦いは…」
古川の言葉が気になり過剰反応してしまう。目を見開き古川に目を向ける。
「ああ…そうか…。お前はまだ俺を人間として見てくれているんだ」
「当たり前だろ。さっきお前は人間だよな?って聞いただろうが。最初っからバケモンだなんて思ってねぇよ。」
光が差した気がした。既に目の色が変わり、異常であることは間違いないのだが、それでも俺は俺の中に希望を見た。
「…島崎…お前は何で皆を敵に回すようなことをする?どうして自分だけお前らとは違うんだって俺らを見下す?俺はお前が普通の人間にしか見えないし、ちゃんと話せば皆もお前を怖がったりしないだろ。バスケが並はずれて上手くても完璧じゃないんだよ。今みたいに俺に抜かれることだってある。人間皆欠点を持って生まれるっていうじゃないか、お前は長所が目立ち過ぎているだけなんだよ。」
古川は俺が悪いものにならないよう懸命に訴えた。けど、俺は下を向く。お前の声は届かないと言うように。
「…古川…お前、俺がいつからこんなになったか覚えているか?」
「半年くらい前だったか?溝口がいきなり病欠した後だよな?」
「ああ…その通りだ。その時からだよ。バスケの練習で周りが弱いって感じ始めたのは…今までそんなこと考えたこともなかった。アヤカの考案した練習で皆が徐々に実力をつけて来ているのも知っていたし、第一俺がこんなことになるなんて思わなかったんだ。」
胸がちくりと痛んだ。
今、何かが…歪んだ…。
「…溝口の足をやったのは俺だ…。努力もしないで実力がある風なことを言うアイツに苛立ちを覚えて階段から突き落としたんだ…」
「島崎…誰だって自分が…」
親友の吐露に慰めを入れようと古川は何か言いたげだったが、俺は敢えて無視した。
「俺は…自分の実力を誇示したかっただけなんだ。自己満足で相手を下に見ることに優越感を覚えていただけなんだ。俺は…」
体から黒い何かが溢れだした。瞳から溢れた滴は透明ではなくどこまでも淀んでいた。まるで闇を模しているかのようなそんな色だった。
「島崎…」
「俺は負けたかったんだ…すまん…迷惑かけた…これで諦められる。化け物の力を借りてもお前には勝てなかった…お前は正真正銘のヒーローだよ。」
さっきまでの怠さが消えた。全身の力が抜けて視界が今までよりもクリアに見えた。古川の悲痛な顔が見え、俺のためを思ってくれていると感じる。
(島崎…俺は次へ行く。お前も早く来いよ…)
溝口が一週間前の1on2の後に言った言葉を思い出す。
(あんな糞みてぇな連中ほっとけ、俺と来い。)
古川…違うんだ…。俺は説得しに行っていたんじゃない。説得されていたんだ。
優しいな古川…。化け物に成っちまった俺を、化け物の力に負けちまった俺を見てまだ人間だと、友達だと言ってくれて嬉しかったぜ。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
「…島崎……お前…泣いてたのか…」
雄々しい咆哮はどこか女々しくもあった。




