花残月
4.初花月
【世の中にたえて桜のなかりせば
カスミは歩くのが遅い。朝の登校中ですら、物見遊山さながら優雅に進む。ただし起床時間はすこぶる早いため、小・中・高校と無遅刻である。本当にただの一度も遅刻していないことを、俺はよく知っている。十二年間ずっと、毎日一緒に登校してきたからだ。一日と欠かすことなく迎えに来てくれる程度には、カスミは俺に懐いてくれているらしかった。どんなに眠くても誘いを断らない程度には、俺も彼女のことを好いていた。
「ハル、また寝癖」
ドアを開けた瞬間咎められ、頭を掻く。セーラー服に学校指定のコートを重ねたカスミは、白いふわふわした耳当てを着け、同じく白いマフラーに口まで顔をうずめていた。
「直してる時間がなかった」
「もっと早く起きないからだよ」
十二年間繰り返された、いつもの問答。もう少し続きがあるけれど、突っ立って最後まで話すには、二月の朝は寒過ぎた。
家から大通りのバス停まで、佐保川沿いの桜並木を下流へ向かって歩く。基本的に、歩いている間はあまり喋らない。カスミはずっと、川の流れをぼんやり眺めていた。俺は二三歩後ろから、そんな彼女を見ている。時々、犬の散歩やジョギングをこなす大人たちが、二人を追い抜いていった。
「いよいよ明日だね、試験」
珍しく口を開いたカスミに、俺は上手く返事ができなかった。しばしの沈黙の後、そうだな、とだけ答える。細い枝ばかりの桜を見上げながら、まだ花の季節じゃなくてよかったと思った。変な感傷を膨らませて、余計なことを言ったりせずに済んだからだ。叶うなら、と、実現不可能な未来を願う。今年の春は、桜が咲かなければいい。その方がきっと、自分たちは上手に離れてゆけるだろうから。
【世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし】
1.風待月
【あだになど咲きはじめけん
「だからね、ハル。古文の接続助詞はまず、単純接続と条件接続に分かれるでしょ? 条件接続はさらに順接と逆接に分かれて、それぞれが仮定条件と確定条件を持つから、合計四つの条件接続があるわけ。で、その四つの代表的なのが、“ば”と、“とも”と、“ども”なの。あれ、三つしかないじゃん、ってなるよね。それは“ば”が順接仮定と順接確定の両方の意味を持っているからで」
「助けてくれコーヘイ。カスミがなんか変な呪文唱えてる」
少し離れた窓際の席でぼんやりしていたコーヘイは、仲良いね、と暢気に笑った。こういう的外れな台詞回しの時の彼は、どちらにも味方する気がない。諦めた俺は、渋々カスミの授業を受けることにした。
「“ば”が二つの意味を持つとすると、文中に出て来た時、どっちの意味なのかわからないと困るでしょ? 例えば」
春来れば。放課後の教室に、教師のそれとは違う、控えめなチョークの音が響く。梅雨の季節で部活が休みなせいか、運動部のクラスメイトも数人教室に残っており、二人の様子を面白そうに眺めていた。見せ物じゃないんだぞ、と思いながらも、見せ物になりうるような学力しか持ち合わせていない自分が悪いことは、よくわかっている。
「春来れば、は、どう訳すの?」
「わからん」
「ハルヒコ、ちょっとは考えろよ」
呆れ顔でコーヘイが叱る。お前はわかるのか、と問えば、苦笑して肩をすくめるばかり。
「おい、あっちにも問題児がいるぞ!」
「人のことはいーの!」
窓際を睨む俺の顔を、両手でぐいっと黒板へ向けるカスミ。
「それぞれ進路が違うんだから」
そう言って、教員志望のカスミは黒板に解説を書き足していった。そうだそうだ、と、写真家を目指すコウヘイが外野から声を飛ばす。何を望んでいるわけでもない俺は、そういう人間こそ大学に行くべきだという周囲の勧めに従って、遅馳せながら受験勉強を開始したのだった。
「接続助詞の“ば”は、上に未然形が来るか已然形が来るかで意味が変わるわけね。未然形プラス“ば”なら順接仮定。已然形プラス“ば”なら順接確定条件。ここまで説明したら、春来れば、の訳もわかるでしょ?」
わからなかった。どうやって誤摩化したものかと思案していると、後ろの方にいたテニス部の女子たちが、カスミ先生、と楽しそうに呼んだ。
「私たちにも古文教えてくださーい」
「はーい、どこがわからないんですかー」
カスミが離れてくれた隙を突き、俺はコーヘイの隣に退避した。黒板ちゃんとノートに写したのか? なんて真面目くさって注意する友人の肩を、軽く小突く。
「勘弁してくれ。難し過ぎて頭が割れる」
「あんな可愛い先生に個人授業つけてもらって、ぶーぶー言ったら罰が当たるぞ」
「俺が頼んだわけじゃない」
「お前なぁ。幼なじみだからって、なんでも当たり前だと思うなよ」
真剣に凄まれ、溜め息をつく。見た目も態度も軟派で異性受けするタイプのコーヘイだったが、時々やたらと真人間になる。根がしっかりしたヤツなのだ。
素直にノートをとっていると、教室の後方から騒がしい笑い声が届いた。いつの間にか、カスミの回りにたくさんの人だかりができている。出張授業は盛況らしい。我が幼なじみながら、大した人気である。
「よくもまぁ、自分から勉強しようなんて思うよな」
「焦ってるからさ」
「焦る?」
何にだよ、と疑問を込めてコーヘイを見る。盛大な溜め息には、呆れを通り越して哀れむ調子すら込もっていた。
「わかんないのはな、ハルヒコだけ、このままでいーや、って思ってるからだぞ」
「ハル!」
名前を呼ばれて振り向くと、カスミが両手を合わせて目をぎゅっと瞑っていた。
「ごめん! 私たち、ちょっと図書室行ってくる!」
「おーおー、お構いなく」
カスミ御一行がいなくなると、教室は俺達二人だけだった。コーヘイは頬杖ついて窓の外を眺めている。どうやら、さっきの話はあれでお終いらしい。
「鬱陶しい雨だな」
襟を指で広げながら嘆く。梅雨は湿気が多くて苦手だった。はっきり夏になってくれた方が、まだいっそ清々しい。
「五月雨と思えば、少しは風情もある」
「馬鹿かコーヘイ、今は六月だぞ」
「馬鹿はお前だよ」
そう言って、コーヘイは愉快そうに笑った。
【あだになど咲きはじめけん いにしへの春さへつらき山桜かな】
2.紅染月
【われがなは花ぬす人とたたばたて
ちょっと付き合えとコーヘイに誘われたのは、夏休みも終わりに近づいたある日のことだった。連れていかれた先は、近鉄奈良駅の近くにある、北欧風のインテリアが洒落た静かなカフェだった。俺たちの他には、女子大生とおぼしき二人組と、品の良さそうな婦人一人が、のんびり紅茶を楽しんでいた。明らかに、男子高校生が学校帰りに二人で入るような店ではない。
「夏期講習はどんな感じ?」
慣れた様子でハーブティーを二つ頼むと、コーヘイはにこやかに問うた。芸大志望の彼は、夏休み中開催されていた地獄の夏期講習に参加していなかった。
「眠いな」
「眠いけど頑張って起きてるのか、眠いからずっと寝てるのか」
「ちゃんとやってるよ」
「偉い偉い」
「うるせぇ」
馬鹿にされるのが嬉しいわけではないが、久しぶりにコーヘイと話すのは楽しかった。
「お前の方はどうなんだ。何やってた」
「んー、ぶらぶら写真撮ったり、芸大の見学行ったり、そこで知り合った子と遊んだり、かなぁ」
「よくやるよ。なんだ、今日はデートの下見か?」
「いや、贈り物の選定」
そう言ってふらりと立ちあがると、コーヘイは店内の一画に設けられた雑貨コーナーに歩いていった。興味がなかった俺は、椅子に座ったまま店内を見回した。カウンターの向こうでは、目許の涼しい美人な店員が、たおやかな仕草で作業していた。よくもまぁ、こんなに綺麗な店を見つけてくるものだ。同じ高校生とは思えない。モテるヤツは行動力が違う。
やがてハーブティーが運ばれてくると、コーヘイは手ぶらで席に戻ってきた。
「何も買わないのか?」
「うん。ちょっとピンと来なかった。今回は控えめに、花でも用意するかな」
「お前、女に花なんか贈るのかよ」
俺は思わず苦い顔をした。全然控えていない。いくらなんでも気障ってもんだろう。
「別に、俺の趣味じゃないさ」
「意味がわからん」
「男が女性に花を贈るのは、花を愛でるような風情のある人に恋してる時だけだ」
さらりと言い放つと、コーヘイは目を伏せてカップに口を付けた。店中の女性に聞き咎められている気がして、俺はそれ以上追求することを避けた。
「そう言えば、ハルヒコもN大のオープンキャンパスに行ったんだろ? 出会いはなかったのか?」
「興味がない」
「お前らしいよ」
軽やかに笑って、再びカップを傾けるコーヘイ。俺は気になって尋ねた。
「俺らしいって、どこがだ?」
「ん? そりゃ、カスミちゃん以外の女性に興味ないとこさ」
そうか、それって俺らしいのか。妙に納得して、心中頷く。確かに、年中色々な相手と親しくなっているコーヘイなんかと比べれば、自分は異性に対して極めて淡白だ。
「どうしたんだよ、急に」
不思議そうに首を傾げるコーヘイに、俺はオープンキャンパスでのことを話した。
地元のN大は、担任やカスミに言われて適当に決めた志望校だった。何か興味のある分野はないのかと問われ、ちょうどその頃大河ドラマにハマっていたこともあり、歴史について勉強したいだなんて無責任に答えたのだ。文化系の分野なら、N大の文学部が強い。私学であることが玉に瑕だったが、地元の大学なら下宿の仕送り代がかからないからと言って、両親も納得していた。
オープンキャンパスでは、史学の授業を二つ見学した。奈良時代の木簡があーだこーだ言う話と、鎌倉時代や室町時代の巫女さんについてどーたらこーたら言う話だった。一コマ九十分ということで、眠くなりやしないかと戦々恐々だったのだが、蓋を開けてみれば、時間を忘れてしまう程の楽しい授業だった。一時間で十年も百年もすっ飛ばしていく高校の日本史Bとは違い、内容が深くて、興味が尽きなかった。大学も悪くないなって、初めて思えた。
問題は、授業が終わった後にあった。文学部の学生数人と、参加した高校生三十人くらいで、菓子を広げたちょっとした懇親会が行われた。そこで簡単な自己紹介を求められたのだが、何故か俺は、一言も言葉が出てこなかった。照れたり緊張したりしていたわけじゃない。それでも、見ず知らずの他人に囲まれた状態で、自分について語ろうとすると、頭が真っ白になった。
コーヘイは神妙な顔をして、黙って俺の話を聞いていた。笑い飛ばしてもらうことを期待していただけに、かえって気まずい沈黙だった。
「ハルヒコは、カスミちゃんに、何か贈り物をしたことはある?」
空になったティーカップを見つめながら、唐突に問うコーヘイ。面食らった俺は、別に、とだけ短く答えた。まるで数分時間を巻き戻したかのような、大胆な話題転換だった。
「お前なぁ、日頃の感謝ってヤツが、溜まりにたまってるはずだろ? 何か、彼女の好きな物、知らないの?」
「んー、桜?」
佐保川沿いを歩く時の後ろ姿を思い出しながら、俺は呟いた。コーヘイは破顔して、そりゃいいね、と頷いた。
「春になったら試そう。彼女風流だし、枝の一つも折ってくれば、喜んでくれるんじゃない?」
我が名は花盗人。和歌の一節らしきものを口ずさみ、コーヘイはご機嫌だった。
「さて、それじゃそろそろ、俺は帰ろうかな」
席を立とうとするコーヘイに、俺は眉を寄せた。こちらのカップには、あと少しハーブティーが残っている。
「まだ飲み終わってないんだ。ちょっと待ってくれ」
「ハルヒコはもうしばらくここにいるんだよ」
「はぁ?」
「もうすぐカスミちゃんが来る」
呆気にとられる俺を尻目に、コーヘイはさっさと会計を済ませてしまった。今回の分は貸しにしといてやる、なんて笑って、レシートをぴらぴらさせる。
「彼女、お前のこと心配してたぞ、オープンキャンパスに行ってから様子がおかしいって。ケーキの一つや二つ、奢ってあげるんだな」
弁えたような顔をして、他の三人の客も立て続けに店を出た。美人の店員は二人分のカップとコーヘイのグラスをさげた後で、俺のグラスに新しく水を注いだ。今更逃げられそうもない雰囲気である。
数分後現れたカスミは、暑さのせいか、少し頬が紅く染まっていた。
「びっくりした。こんな洒落たお店で、本当にハルが待ってるなんて」
似合わないね、とからかう彼女に、俺は黙って肩をすくめて見せた。まったくもって仰る通りだった。
「どうせ、コーヘイ君の粋な計らいってやつでしょう? ケーキ奢ってもらえるって聞いたんだけど、大丈夫?」
「お好きにどうぞ」
「やった」
無邪気に微笑んで、カスミは季節の紅茶のケーキセットを頼んだ。手持ち無沙汰になると困るので、俺も同じ物をオーダーした。出てきたチーズケーキには、甘酸っぱいブルーベリーソースがかかっていた。美味しいね、とにっこりするカスミに、俺は素直に頷いた。
「そう言えば、ハル、昨日の模試ちゃんと見直しした?」
「いや、やってない」
「ダメじゃない」
子供を叱るみたいにぴしゃりと言うと、カスミはバッグから国語の模試の問題を取り出した。
「今回の古文、助動詞“ぬ”の訳し分けが出てたけど、解き方覚えてた?」
「さぁ、どうだったかな」
本当は、以前カスミに教えてもらったおかげで得意分野なところだった。ただ、変に込み入った話題を振られる方が困るので、忘れた振りをすることにした。
仕方ないなぁ、と、怒っているのだか喜んでいるのだかわからない笑みを浮かべるカスミ。
「助動詞“ぬ”は、完了と強意の二つの意味を持つでしょう? 下に推量の助動詞がついてたら、ほぼ確実に強意ね。“なむ”とか“ぬべし”とか。訳す時は、きっと何々だろう、きっと何々しよう。逆に、完了の可能性が高いって判断できる形もあって」
春来れば散りにし花も咲きにけり。お馴染みの和歌をルーズリーフに書き込み、解説を添えていく。
「この、“散りにし花”の“にし”みたいに、下に過去の助動詞がついてる場合は、大体完了でとって、何々してしまった、って訳すの。思い出した?」
「なんとなく」
「ついでにおさらいだけど、“咲きにけり”の“けり”は、過去でとっちゃダメだよ。普通の文中なら、“にけり”も大体過去完了で良いけど。和歌中は、詠嘆気付きの“けり”の可能性が高いからね。他に、“なりけり”とか“べかりけり”も詠嘆の可能性が高いから注意」
「へいへい」
すっかり暗記してしまった教えを聞き流しながら、俺はカスミの手元を眺めていた。慣れた様子でスラスラとペンを走らせ、ご丁寧にマーカーまで引いている。
「はい。このメモあげるから、ちゃんと復習しといてね」
同じようなお手製解説が、俺の家には既に何枚もストックされていた。なんだか魔が差して、受け取りついでに俺は言った。
「いつもありがとう、カスミ」
「らしくないこと言わないでよ。むずむずするでしょ」
気恥ずかしげに目を逸らし、カスミは口を斜めにした。
【われがなは花ぬす人とたたばたて ただ一枝はをりてかへらん】
3.霞初月
【木々の雪花かと見えて
年末ともなると受験ムードも極まってきて、いっそ早く春になってくれ、というのがクラス一同の総意のようになっていた。俺はそんな雰囲気に一人だけ馴染めぬまま冬休みを迎え、年を越した。
「初詣に行こうよ」
そう言ってカスミが誘いにきたのは、元旦の早朝のことだった。彼女は、中紅色の仄かに艶っぽい小紋を身に纏い、ストールを重ねていた。初めて見る着物姿だった。
「行くってどこへ」
「春日大社」
「馬鹿言え。あんな人ごみの酷いとこ行って、受験生が病気もらったら困るぞ」
「大丈夫だよ、神域だし」
「俺はそんなに信心深くない。一人で行け」
「やだ」
玄関先ですったもんだしていると、家の奥から母が出てきてどやした。
「慣れない着物の時は杖代わりの付き添いが要るのよ。男のくせにゴチャゴチャ言ってんじゃないの」
財布とコートを投げつけられ、半ば追い出されるような形で家を出た。嬉しそうに笑んで、カスミは俺の腕をとった。
途中雪が降ってきたため、適当な土産物屋で和柄の傘を一本買った。こういう時、歴史文化を推している観光地は便利だ。天候のおかげか、予想よりは多少マシな混み具合だった。長い長い参道をゆっくり進む。カスミの歩幅は小さかった。せっかくの着物が濡れないように、俺は傘のほとんどを彼女の方に傾けていた。
「前から気になってたんだが」
ずっと黙っているのも奇妙に思えて、口を開く。参道から逸れた脇道に、甘酒の屋台をみとめていた。新春やら迎春やら書かれたノボリがひらひら揺れている。
「正月なんて真冬もいいとこなのに、何で迎春って言うんだ?」
「今と昔じゃ、暦がずれてるからだよ」
そんなことも知らなかったの、と言わんばかりに、さらりと答えるカスミ。
「十二ヶ月を四等分したら、季節一つあたりに月が三つ割り振られるでしょう? 当時は、一月二月三月を春にあててたの。それで、お正月は新春とか迎春とか言うわけ。今の私たちの感覚で言えば、春は三月四月五月だよね。だからまぁ、大体一、二ヶ月くらい季節感がずれるんだって覚えておけば良いかな」
「なるほど」
いつぞやか、放課後の教室でコーヘイに罵られたことを思い出す。五月雨とは五月に降る雨のことかと思っていた。あれは梅雨を指すのだ。
そうこう言っているうちに本殿に着いた。朱塗りの建物が、雪景色によく映えていた。カスミは随分長い間賽銭箱の前で手を合わせて、俺をやきもきさせた。
「一体何をそんなに長々と祈ってたんだよ」
最も混み合う地点を脱出し、一息ついた所で尋ねた。少しは周りに気を遣え、と責める気持ちも幾らかあった。
「私や、ハルや、コーヘイ君が、ちゃんと志望校に受かりますように、って」
思いがけない力強さでカスミは答えた。今度はこちらが責められる番だった。
「ねぇハル、どうして最近、勉強サボってるの?」
何も応えず、俺は黙って歩き出した。カスミは慌てて駆け寄り、往路と同じように腕をとってきた。
「私が志望校を変えたこと、怒ってる? あ、ひょっとして寂しい?」
「別に」
もともと地元のN教育大を志望していたカスミは、冬の模試が良かったこともあり、T学芸大学に目標を上げた。奈良から遥か遠い関東の大学だ。一方俺は、このところどうも学業に身が入らず、予定通りN大に入れるかどうか怪しくなってきていた。
どうせはじめから、違う大学に行く予定だったのだ。カスミが奈良を出ようが出まいが、高校を卒業してしまえばもう、お別れだった。
受験勉強を怠けたところで、ずっと一緒にいられるようになるわけじゃない。それはわかっている。それでもついついサボりがちになるのは、勉強していると、別れに向かって全力疾走しているような気分になって、息が苦しかったからだ。
「みんなは辛い逃げたいって言うけど、私は結構好きだよ、受験勉強」
ぎゅっと身を寄せて、カスミは静かに語る。
「何て言うか、今まさに自分の人生を自分で動かしてるんだ、って感じがするじゃない? 中学時代も高校受験はあったけど、あんまり選択の余地なかったもんね。今回の受験を乗り切ったら、初めてちゃんと、これが私の人生なんです、私が選んだんです、って胸を張れる気がするの」
だから頑張ろう? と、カスミは言った。密着し、顔を伏せていたため、彼女の表情を窺うことはできなかった。仕方なく、俺は前を向く。雪花が参道の木々を飾っていた。
【木々の雪花かと見えて 花やとき春やおそきとあやまたれぬる】
5.春惜月
【君とこそ春来ることも待たれしか
結局、俺もカスミもコーヘイも、無事志望校に合格することができた。一番危なかったのは当然俺だったけれど、偶然にも、古文の試験問題で知っていることばかり問われ、なんとか滑り込むことができた。“ぬ”の訳し分け、“に”の識別、そして反実仮想の“まし”。どれも、カスミが親身になって教えてくれたことだった。問題を解きながら、彼女の顔が何度も頭に浮かんだ。色々なことについて、俺は観念しなければならなかった。
卒業式も終え、後は新生活を待つばかりだった。近畿の芸大に進んだコーヘイは、卒業するや否や、さっさと下宿先に引っ越していった。
明日の朝引っ越すから、とカスミから連絡があったのは、三月の末のことだった。最後にちょっと散歩しよう、という誘いには、時間帯が指定されていなかった。
「ハル、寝癖」
いつも通りの早朝にやって来たカスミは、目を細め、慈しむように咎めた。彼女は藍白いカットソーに、花浅葱色の大人びたスカートを合わせていた。
「直してる時間がなかった」
「もっと早く起きないからだよ」
「そもそも、カスミが来るのが早すぎるんだ」
「その方がいいでしょ」
「なんで」
「人通りの少ない朝に、二人でゆっくり歩くのって、気持ちいいじゃない」
ただそれだけのために、俺たちは十二年間、馬鹿みたいな早起きを繰り返してきた。自問するまでもなく、それは幸福な日々だった。
佐保川沿いの桜は、まだ蕾の段階だった。開花が見られなくて残念、と、カスミは惜しんだ。彼女は饒舌だった。昔のことや、これからのことを、とにかく沢山喋った。
「東京に遊びに来る時は、連絡してね」
「行かない。仮に行くとしても、カスミには言わない」
「薄情者」
からりと笑った後、微かに目を伏せて、カスミは呟いた。
「あのね。ハルと同じ大学に進もうかと思ってた時も、あったんだよ、私」
「でも、東京を選んだんだろ」
「うん、そう。ちゃんと選んでみたかったの、自分で」
気がつくと、桜並木はもうお終いだった。カスミは立ち止まった。一歩だけ先に進んだところで、俺は彼女を振り返った。
「春来れば、散りにし花も咲きにけり」
口にしたのは、すっかり馴染んだ和歌だった。先を促すように、カスミは首を傾げた。
「あはれ、別れのかからましかば」
微笑み頷く彼女の顔を、俺はきっと、いつまでも忘れないだろう。
【君とこそ春来ることも待たれしか 梅も桜もたれとかは見む】
6.花残月
【春来れば散りにし花も咲きにけり
「高三のいつだったか、クラスの中で、ハルヒコだけ焦ってないって、言ったことがあったろ。憶えてる?」
「ああ、梅雨の日の放課後だったか」
そうそう、と、カメラをかちかち弄りながらコーヘイは頷く。五月雨について恥をかいた時のことなので、妙に記憶に残っていた。
「あれと、お前が、赤の他人の前じゃ自分らしさがわからなくなったって言ったのは、多分同じ理屈なんだよ。気付いてたか?」
薄く笑むコーヘイに、肩をすくめて見せた。今になって思えば、当時の俺は、自分のこととカスミを切り離せていなかったのだ。聡い友人は、本人より早くそれに気付いていた。
「卒業したら、遅かれ早かれこうなるって思ってたよ」
呆れたようにコーヘイは言った。声色の割に楽しそうな顔だった。俺たちに挟まれて歩くカスミは、はにかんで俯いていた。
一年ぶりに三人が集まったのは、桜満開の四月のことだった。声をかけたのはコーヘイだ。大学の課題に使うからと言って、俺とカスミにモデルを頼んできた。場所や時間は融通するとのことだったので、迷わず朝の佐保川を指定した。
「よし、じゃあ、適当に歩いてみて。腕でも組んで」
「なんでだよ」
「今はもう恋人なんだろ、恥ずかしがるなって」
カメラを構えてにやりとするコーヘイ。こういう時、女性の方が肝が据わっているもので。カスミは何も言わず、そっとこちらに身を寄せた。
恋歌のつもりで口走った例の和歌が、友との死別を嘆く歌だと知ったのは、大学の教養の授業で古典文学を学んでからのことだった。先回りして振られたのかと思った、と、後になってカスミは笑った。
「だけど、あれのおかげで、遠距離恋愛でも大丈夫かなって、思ったよ」
川の流れに歩調を合わせながら、思い出したようにカスミが言う。
「離れたって、何度でもまた会えるから、って」
一緒にいることを選べるようになったのは、それが当たり前じゃなくなったからだ。十三年目にしてようやく、俺たちは恋を選んだ。
少し強い風が吹き、カスミの白いワンピースと、藍墨茶の髪を揺らした。舞い散る花びらが、薄紅色の舟となり、澄んだ水面を彩っていた。
【春来れば散りにし花も咲きにけり あわれ別れのかからましかば】
『花残月』終わり
↓大人になったコーヘイが主人公のお話はこちら。
『待ち焦がれる二人』
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