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好きだと、言って。  作者: 水樹ゆう
(Ⅰ)~忘れえぬ人~亜弓編
18/33

09【帰宅】帰るべき場所へ。


 その夜。

 私は、疲れ切った重い体を引きずるようにして、アパートへの帰路についた。明日は月曜日。しがないOLの身では、落ち込んでいるからと言って、月曜から会社を休むわけにはいかない。

 バスと電車を乗り継ぎ、アパートの最寄りの駅に着いたのは、夜の十一時を回っていた。体にまとわりつく湿気を含んだ生ぬるい夜風が、昼間の海での出来事を思い出させる。

 陰りのない、真っ直ぐな黒い瞳。

 少年の様な、屈託のない笑顔。

 頬に伝う涙を拭う、優しい指先。

 ヒンヤリと、心地よい体温。

 甘い香りと、そして――。

 アパートにほど近い路地裏で、唇に触れた柔らかい感触が蘇ってきてしまい、私はその場に立ち止まった。抱えていた荷物を足下に放り出すように落として、震える両手で、自分の唇をそっと覆い隠す。

 分かっている。

 あれは、特別な意味のある行為じゃない。

 ただの人命救助。

 私じゃなくったって、赤の他人だって、伊藤君は同じ行動をとっただろう。

 彼は、そういう人間だ。

 恋人を、友人を平気で裏切れる、私みたいに最低な人間じゃない。

 私に、浩二をとやかく言う資格なんてありはしない。

 別に浩二に強制されたからじゃなく、私は、自分の意志で伊藤君と出かけたのだから。

 諦めも要領も悪くて、強欲。

 そいう意味では、私と浩二はよく似ている。

「さすが、いとこどうし!」

 胸に熱いモノが込み上げてきて、私は軽口を叩いて空を振り仰いだ。

 夜空に浮かぶのは、ちょっとスリムな月と、綺麗な星屑。

 明日になったら、一番で直也に電話をかけよう。

「生まれて初めて救急車に乗っちゃったー!」

 そう言って、驚かせてあげよう。

「亜弓?」

「え……?」

 直也の声が聞こえた気がして、私は慌てて周りを見渡した。

「ああ、やっぱり、亜弓か。どうしたんだ、そんな所に突っ立って?」

 聞き慣れた穏やかなトーンの優しい声音が、夜のとばりに包まれた路地裏に静かに染み渡る。

「直……也?」

 コンビニの買い物袋を下げた、メガネの男性。アパートの入り口から、ゆっくりとした足どりで歩み寄ってくる懐かしい人影を認めて、心の中に広がったのは、泣きたくなるような安堵感。

 私は荷物を路上に置いたまま、そのまま引き寄せられるように、ふらふらと歩き出した。

 浩二。

 浩二は、間違ってるよ。

 伊藤君を思うような、激しい気持ちじゃないけど。

 私は、直也が好き。

 こんなにも、好きなんだから。

「亜弓?」

 まっすぐ直也の腕の中に飛び込んで、ぎゅっと背中に両手を回せば、フワリと心地よく鼻腔に届く、慣れ親しんだ直也の匂い。柔軟剤の爽やかな香りと、微かなタバコの匂い。

「どうした? 病気の友達、あまり良くないのか?」

 直也は、そう言って、私の頭を労るようにポンポンと撫でる。

 いつもは、子供扱いしないでよ! って嫌がるけど、なぜか今日はその仕草が妙に嬉しくて。

 その手の温もりが、愛しくて。

「ううん。大丈夫。けっこう元気にしてたよ」

「そうか。それならいいが……」

 心配そうな瞳に見つめられて、心の奥にズキンと走る罪悪感。

 例え、この罪悪感が消える日が来なくても。それでも。

 この人となら、歩いて行けるはず。

「ねえ、これなあに?」

 ツンと、腕に下げているコンビニの袋を指さすと、直也は何かを思いだしたように、ハッとした顔をした。

「アイス……」

「え?」

「ほら、この間、亜弓が食べたいって言ってた、いつも売り切れの期間限定、メロン・シャーベット。タバコを買いにコンビニによったら、たまたま残ってたんだ。で、買ってきたんだ……」

 がさごそと、直也がビニール袋から取り出したアイスのカップ。

 一振りすると、およそアイスが入っているとは思えない『ちゃぷん!』というコミカルな音が聞こえてきた。

「すっかり、溶けてしまったな……」

 ちょっと残念そうに、浮かぶ苦笑。

 ――この人は、いったいどれくらいの時間、私を待っていてくれたんだろう。

「直也、これ、もう一度冷凍庫に入れたら、食べられるかな?」

 アイスのカップをチャプチャプ振る私に、直也は微かに眉根を寄せた。

 これは、アイスが食べられるかどうか真剣に悩んでいる顔。

 私は、クスクス笑いが止まらない。

「う~ん。食べられはするだろうけど……味は保証できないな」

「ふふふ。もったいないから、やってみよう~っと。なんて言っても、期間限定レア商品。食べなきゃ、もったいないオバケがでてきちゃう」

「……頼むから、腹、壊さないでくれよ」

「平気平気。胃腸だけは、丈夫だから私!」

 こんなふうに、二人ならんで手を繋ぎ。

 他愛ない会話に安らぎを感じて。

 一緒に、歩いて行けるはずだって。

 そう、私は心から、本気で信じていた――。



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