00【プロローグ】愛と友情の狭間で。
どんなに時が流れても、忘れられない光景がある。
天空にぽっかり浮かぶ、白い満月。
広がる、満天の星屑。
遠くで聞こえる、祭り囃子の太鼓の音。
リンゴ飴の、甘いにおい。
水風船の鮮やかな青と、ヒンヤリとした手触り。
そして――。
暑い夜だった。
薄闇に抱かれた田舎町の神社には、いつにない活気が満ち溢れていた。
田畑を渡ってくる湿気を含んだ夜風は、近づく秋の気配など微塵も感じさせず、浴衣の裾をパタパタと揺らしながら、賑やかな祭りの人波を吹き抜けていく。
天空にぽっかりと浮んだ白い満月が、楽しげに行き交う人々を、優しく照らしだしている、そんな中。
高校最後の夏休み。さらに、その最後の日。
私、佐々木亜弓は、親友のハルカと、同い年のいとこの浩二。そして、浩二の友人で同じサッカー部の伊藤君の四人で、毎年恒例の夏祭りに遊びに来ていた。
約一年ぶりに着た赤い金魚柄の濃紺の浴衣は、昨年よりは少し様になっているはず。セミロングの髪は、頭の高い位置でお団子にして。
右手の中指には、ハルカとお揃いで買った、青い水風船。左手には、さっき出店で一目惚れして思わず衝動買いした、赤いリンゴ飴。
やっぱり、この大きいサイズじゃないとね。
ちいっちゃい、可愛いサイズのリンゴ飴なんて、邪道よ!
ルンルンと、大振りのリンゴ飴をカプリと一かじりしたその時。隣を歩くハルカが、おもむろに口を開いた。
「……ねえ、あーちゃん」
「うん、なあに? リンゴ飴、おいひいよ?」
「あのね、わたし……」
「ハルカも、買ってくふ?」
私は、かじったリンゴ飴の欠片を、もふもふと口の中で転がしながらご満悦で、自分よりもだいぶ下にあるハルカの顔を覗き込んだ。
白い頬を、微かにピンクに上気させながら、ハルカは、何かを決意したように足を止めて、私をまっすぐ見上げた。
長いマツゲに縁取られたライト・ブラウンの大きな瞳が、月明かりの下で、キラキラと輝いている。なんだか、とても綺麗に思えて、ドキッとした私も足を止めた。
数瞬の、何とも言えない沈黙の後。ハルカは、意を決したように、爆弾発言を投下した。
「あーちゃん。わたし今夜、伊藤君に告白するっ!」
えっ!?
「……むぐっ!?」
驚きのあまり私は、口に含んでいたまだ大きいリンゴ飴の欠片を『ごっくん』と丸飲みしてしまった。水風船をぶら下げた右手でグーを作り、胸元をドンドン叩きながら、やっとのことで、掠れた声を絞り出す。
「ハ、ハルカ……。告白って、今日、今からここで!?」
食道をごろごろ胃袋へと降りていく、リンゴ飴の痛いような感覚にむせ返りながら、私は、ハルカの顔を驚きを込めて、マジマジと見つめ直した。
まるで、幼い少女のような、丸みを帯びた白皙の頬。その、白すぎるほどに白い頬が、ほんのりピンクに染まっている。
私を見つめ返してくる、長いまつげに縁取られたライト・ブラウンの大きな瞳は、決意を込めたように、揺るぎない。
腰に届きそうに長い、明るい色合いのストレートの髪を、夜風がフワリとなぶって通り過ぎていく。
私と色違いの、裾に赤い金魚柄が入った淡い空色の浴衣から出た手足は、白くて折れそうに華奢なのに、しゃんと伸ばした背筋と、真っ直ぐな眼差しは、とても力強くて。そう。その姿はまるで、太陽を凛と見つめ続ける、向日葵の花を思わせる。
向日葵は、どんなに強い日の光に焼かれたって、太陽を見つめるのを絶対やめない。とても、とても、強い花――。
綺麗だね、ハルカ。
外見だけじゃなく、真っ直ぐでひたむきなその気持ちが、とても綺麗。
「そっか……。もう、決めたんだね?」
ハルカは、ピンクの頬を朱に染めて『コクリ』と頷いた。
ああ。
とうとう、この日が来た。
とうとう、この日が来てしまった。
私は、賑やかな祭りの人波の流れの少し先を歩く、『彼』の背中にゆっくりと視線を送った。
他の人たちよりも、頭一つ分高い身長。
二年半。中学の頃からトータルすれば六年あまり、サッカーで鍛えたしなやかな均整の取れた体躯。日に焼けた、小麦色の肌。こうと決めたら、ぜったい引かないその性格を表すような、少し鋭い感じのする、黒い切れ長の瞳。でも、笑うと、まるでやんちゃ盛りの少年のような屈託のない表情になる彼、『伊藤君』。伊藤貴史君は、私の同い年のいとこ・佐々木浩二の友人でサッカーのチームメイト。そして。
私、佐々木亜弓の一番の親友・三池ハルカが、入学式の日に一目惚れをしてから今までずっと、一途に思い続けている『片思いの相手』だった。
この二年半。
伊藤君に対するハルカのひたむきな想いを、私は目の前で見てきた。ハルカが、どんなに伊藤君を好きなのか、一番良く知っている。
だから。
「ハルカ、頑張ってね!」
右手に青い水風船。左手には、赤いリンゴ飴。
私は、それをギュッと握りしめると、両手でガッツポーズを作って、笑顔でエールを送った。
「あーちゃん、わたし……」
一歩、足を踏み出して、ハルカはためらったように私を振り返った。
揺るぎなかったその瞳の中に、微かに迷いの色が浮かんでいる。
そりゃあ、怖いだろう。
告白したって、その想いが届くとは限らないんだから。
私にも、その気持ちは痛いくらいに分かっている。
でも。
「大丈夫だよ。きっと伊藤君だって、ハルカのこと嫌いじゃないって、ほら、行ってきな!」
ポン!
と、私は、空色の浴衣に包まれた華奢なハルカの肩を、励ますように押し出した。
「うん!」
ハルカが、満面の笑顔で頷く。
「玉砕覚悟で行って来るね!」
「頑張れ、ハルカっ!」
大きく振った手の先で、まるで今の私の心を映すみたいに、左右に揺れた水風船が、バシャバシャと水音を上げる。
――伊藤君。
伊藤君なら、きっとハルカに特上の笑顔をくれる。
ぶっきらぼうに見えても、本当は優しい人だと知っているから。きっと、ハルカは、幸せになれる。だから私は、笑顔で「おめでとう!」って言うだろう。
プチン――。
ブンブンと振り続ける指先に、ゴムが切れた感触が走った。
フッと、軽くなった指先に宿る言いようのない喪失感に、思わず手が止まり、視線の先を、コントロールを失った水風船が、放物線を描きながらスローモーションで空を飛ぶ。
青い残像が、ゆっくりと尾を引き、やがて、人波に紛れて消えていく。
あの水風船は、地面に落ちて割れるのだろうか? それとも、誰かに踏まれて、割れるのだろうか?
心の奥が、痛い。
ハルカは、一番大切な、友達。
伊藤君は、一番好きな、大好きな、人――。
ハルカと伊藤君。
私には、同じくらい大切で、同じくらいに失いたくないもの。
どちらかを、選ぶことも、切り捨てることも、出来ない。
だからきっと、この胸の痛みは、そんな私への天罰だ。
好きな人に『好きだ』と告げる勇気を持てなかった、 一番、自分が傷つくことが恐かった、不甲斐ない私自身が自ら引き寄せた天罰。
どんなに時が流れても、忘れられない光景がある。
天空にぽっかり浮かぶ、白い満月。
広がる、満天の星屑。
遠くで聞こえる、祭り囃子の太鼓の音。
リンゴ飴の、甘いにおい。
水風船の鮮やかな青と、ヒンヤリとした手触り。
そして。
心の奥に、微かな痛みを伴う、忘れられない想いを抱いたまま。
今年も又、夏が訪れる――。