第壱話
ごほんと先ほどの羞恥をごまかすように咳払いをして、成宮は部下の職務怠慢を叱責した。
「そんなことはさておき、君!この領収書が経費で落ちないとはどういうことかね?」
指示した先にはよれよれのしわくちゃになった一枚の領収書があった。手書きで缶コーヒー130円と書いてある。滝沢は大きなため息をつくと、その領収書を手にとりビリビリに引き裂いてしまった。
思わず成宮の顔がムンクの叫びになる。
「な……何をするんだ!!」
「こんなの経費で落ちるわけないでしょ!」
「なーにー?わたしは上司だぞ!」
「だからなんです?わたしは経理です。あなたが任命したんですよ?」
ぐぬぬぬと下唇をかみしめ、滝沢を睨みつける成宮の姿は最悪の上司トップテンに入るくらいのあさましさである。
「経費で落ちるものは、業務に関係するものだけです。缶コーヒーがなんの業務に関係したっていうんです?」
「わたしのメンタル面で重要な立ち位置に属している」
「業務には関係ないじゃないですか」
「……どうしてもだめか?」
押してダメなら引いてみろ作戦である。しかし、そんなものが通用するなら世の中、とっくの昔に成宮の天下であった。
「ダメです」
「くっそー、それならわざわざプレミアムの方を買うんじゃなかった」
経費で落ちると思ってこその130円だったのに。悔しさをにじませながら、さみしく引き裂かれた手書きの領収書を拾い集める。
しかし、缶コーヒーを経費で落とそうという発想自体が社会人として間違っていると、部下の鏡である滝沢は口には出さず内心思ったのだった。
そんな二人の今日も平和で暇な一日は、来客を知らせるベルの軽やかな音によって破られた。
「ごめんください」
白いワンピースを着た20代前半くらいの女性とその後ろには180を超すほどの青年が成宮探偵事務所を訪れたのである。
「いらっしゃいませ」
助手の滝沢がにっこりと笑顔を作り、何かご依頼ですかと尋ねると、女性の方はおどおどと「はい」と小さく答えた。
滝沢はなれた仕草で接客をし、奥の来客の部屋に通した。成宮もその後をとことことついていく。
すぐにいれたてのコーヒーを持った滝沢が入ってきて、二人の来客の前にそのコーヒーを置いた。
青年の方はすぐにそのコーヒーに口をつけ、少し眼を丸くさせた。成宮はその様子に心中でうなずきながら、自分もコーヒーをすする。
滝沢は盆をテーブルの端に置き、彼女自身も成宮が座るソファに腰をかけた。
こういうときの客との接し方は滝沢の方がはるかに適しているので、最初の依頼内容の把握はすべて滝沢主導で行われる。
「お名前をお伺いしてもよろしいですか」
「あ、はい。わたし、鈴木佐智子と申します。彼は鈴木克昭、夫の弟で今同居しております」
「そうですか。この度はどのようなご依頼ですか?」
「あの……うちが変なんです」
女性は目の前のコーヒーには手をつけず、膝の前で固く両手を握りしめていた。
「変、とは?」
「物が勝手に動いたり、足音や扉が勝手に閉まる音がしたりするんです」
「なるほど。他になにかございますか?」
滝沢の声のトーンは自然と客の精神を落ち着かせる不思議な響きをまとっている。現に最初不安で落ち着かずびくついていた佐智子は、平常心を取り戻したようだった。
それよりも気になるのは隣に座る克昭の方である。
どうしてかずっとこちらを睨みつけるような厳しい表情で腕を組んでいる。
「他は……誰かに見られているような気がするんです」
「なるほど……」
先ほどの古いメモ帳とは別の、依頼内容を記すための真新しいノートには、細かく佐智子の語る言葉の一つ一つを記している。
「この度はどのようにして弊社をお知りになられました?」
「知人の紹介から……」
「わかりました」
一通りのことを聴き終えて、滝沢は成宮の方に視線をよこした。成宮は白いノートに書き込まれた情報を眺めながら、補足事項としてようやく口を開いた。
「ご自宅はいつ購入されました?借家ですか新築ですか?」
「借家です。購入したのは三カ月ほど前です」
「そうですか。物件の値段はおいくらくらいですか」
成宮の質問に答えた佐智子の言葉に滝沢は絶句した。それほど破格の値段だったのだ。
「お部屋の大きさはどれくらいです?」
「3LDKです」
滝沢のペンを滑らせる音と成宮と佐智子の声が重なり合う。
「物が勝手に動いたり、足音がしたりというのはどれくらい前からはじまりました?」
「ちょうど引っ越してすぐくらいです」
「どれくらいの頻度です?」
「ほぼ毎日」
「なるほど」
そこでようやく滝沢のペンが止まった。
「改めてお伺いします。ご依頼というのは、今言われたような現象を失くすということでよろしいですか」
「はい、お願いします」
佐智子は深く頭を下げた。しかし、隣の克昭の方は相変わらずこちらを睨んだままである。
「分かりました。諸経費はどれほど調査と解決に時間を要するかで変わってきます。とりあえず前金として30万いただきますが、よろしいですか」
30万の言葉に佐智子は言葉を失った。滝沢は心配そうに成宮と佐智子の顔をうかがう。
すると、それまで一言もしゃべらなかった克昭がようやく口を開いた。
「やっぱりだまされてるんだ!義姉さんは!」
「克昭くん!よしてちょうだい」
「なんでだよ!こんな奴らに30万も払うなんて。まだ依頼の調査にだって取りかかっていないのに!」
そう叫ぶと、克昭はぎろりと成宮を睨む。
「お前たち、ちゃんと探偵事務所を開くための法手続きは踏んでいるんだろうな!騙そうったってそう簡単にはいかないぞ!」
成宮は薄く笑いながら、
「もしかして、法律関係のお仕事されてます?」
と尋ねると、あからさまにびくりと肩を動かし、なんで分かったと眼を見開いた。
「あ、やっぱりね」
その言葉に、隣に座る佐智子も驚いたように、
「どうして分かったんです?」
と尋ねると、
「なんとなくです。においでね。独特のにおいがするんです」
といかにも胡散臭いことを言うものだから、我に返った克昭がさらに逆上するかのように成宮を責め立てた。
「僕が弁護士だろうがなんだろうが関係ない!君たちのことを話しているんだ!」
「へー、弁護士さんですか。そういう感じですよね。でも、いいんですか?弁護士さんが平日に、こんなちんけな探偵事務所で油売ってて」
しまったと口を覆っても後の祭りである。克昭は小さく舌打ちをした。
「それは大丈夫なんです。今、克昭君は休職中ですの」
押し黙った克昭の代わりに応えたのは佐智子であった。おっとりと返す佐智子に、
「義姉さんは黙ってて!」
と克昭は強く言って、再び口を開いた。
「君たちが詐欺師ではないという証拠を見せていただきたい。そうでなければ、前金は払えない」
「そうですか」
成宮はその言葉にうなずくと、ドアに手を向け、
「では、お帰りください」
と言った。それにあわてたのは佐智子の方である。
「そんな……お願いします!」
「前金の支払いが条件です。それが出来ないなら、どうぞお帰りください」
冷静かつシビアな言葉は至極まっとうな内容である。たまにはちゃんと上司をやるじゃないと滝沢が感心していると、克昭の方は「そんなの卑怯だ」とわめいたが、佐智子の「黙って!」という大声に沈黙せざるえなかった。
こうして、二人の依頼者たちは帰って行った。
一人は満足げに、もう一人は甚だ不満足げに。